那覇・那覇周辺
7月21日〜7月24日 3泊


29日目:7月21日(木) 晴   
与那国空港 ⇒ 那覇空港 ⇒ 宿
宿泊:民宿「とまりん」(那覇市)
飛行機の窓から雲海と夕日を見ながら過ごす。下を見ると島々が見えるが、慶良間諸島のようだ。
雲海と夕日 慶良間諸島

那覇空港へ到着。自転車を受け取り空港出口で宿のオーナーと会う。ヒゲをたくわえたやさしい感じのオーナーで一安心。彼の車に自転車も乗せて那覇の中心地の宿へ行く。バス・トイレ・台所付きの個室。ドミトリーの方が安いが1ヵ月かけたチャリの旅の疲れを取りたいので個室とした。3泊分を前金で払う。少し離れた別の場所にドミトリーと談話室があり行くと、ゴーヤチャンプルと缶ビールをご馳走してくれた。この宿に3カ月いる神戸から来たスキンヘッドの中年の男性もいて陽明学に詳しいと言っていた。


30日目:7月22日(金) 快晴  
宿 ⇒ バスターミナル ⇒ 那覇新港 ⇒ 沖縄国際大学 ⇒ 普天間飛行場 ⇒ 国際通り ⇒ 宿
宿泊:前日と同じ
「ドトール・国際通り店」でモーニングAセット(卵サンド+コーヒー)の朝食。

自転車は宿に置いて東京へのフェリーが出る那覇新港へバスで行き下見することにした。バスターミナルからバスに乗りバス停「安謝橋(あじゃばし)」で下車。15分位歩いて那覇新港ターミナルへ着いた。フェリー会社(マルエーフェリー)の窓口に「台風6号の影響により入港が遅れる為に24日の出港は10時でなく12時30分に変更」と張り紙が出ていた。念のために場所を確認しに来たのだが出港時間の変更がわかってよかった。
大型のRORO(ロールオン・ロールオフ)船が2隻接岸中。RKK LINE(琉球海運)の「しゅれい」と近海郵船の「しゅり」である。やはり、船に目がいってしまう。
那覇新港ターミナル 琉球海運「しゅれい」 近海郵船「しゅり」

普天間飛行場を見たいので先ほどのバス停へ向かう。「沖縄そば」の幟のある雰囲気のよい店「あじゃず」が途中にあり入る。BGMにジャズが流れていて店内もおしゃれな感じ。「肉野菜そば」を食べる。店の人に店名の由来を聞くと、「地名の安謝(あじゃ)とオーナーがジャズが好きなので二つを合わせた」とのことで納得。
食堂「あじゃず」 肉野菜そば 店内

墜落現場
説明文にあった写真
バス停「安謝橋」からバスに乗り普天間飛行場の近くのバス停「沖縄国際大学前」で下車。
2004年8月に米軍のヘリコプターが大学に墜落炎上した事件があった。この事件を忘れないために大学の敷地に焼け焦げた木と碑がある。事件のあらましも書いてある。
2004年8月13日午後2時15分頃に米軍普天間基地所属の大型ヘリコプターCH-53Dが訓練中にコントロールを失い、大学1号館北側に接触、墜落、炎上した。乗員3名負傷、館内の大学職員20数名に負傷はなかった。消火作業が終わった後に米軍が現場を封鎖し、事故を起こした機体を搬出するまで日本の警察・行政・大学関係者は現場に入れなかった。

飛行場を見るので歩いている人に聞くとビルのオーナーでビルの5階の踊り場から見えるとのことで案内された。確かに飛行場の全景がよく見える。飛行機やヘリコプターは格納庫なのか滑走路には出ていなかった。
普天間飛行場 普天間飛行場

「沖縄国際大学前」からバスに乗車。那覇の国際通り近くのバス停で下車し、国際通りの土産物屋をあちこち見て宿へ帰った。


31日目:7月23日(土) 快晴  
宿 ⇒ モノレール県庁前駅 ⇒ 奥武山公園駅 - (徒歩)⇒ 旧海軍司令部壕 ⇒ 奥武山公園駅 ⇒ 首里駅 - (徒歩)⇒ 首里城公園 ⇒ 首里駅 ⇒ 県庁前駅 -(徒歩)⇒ 対馬丸記念館 ⇒県庁前駅 ⇒ 牧志駅 ⇒ 宿
宿泊:前日と同じ
昨日と同じく「ドトール・国際通り店」でモーニングAセットの朝食。

「沖縄都市モノレール」愛称「ゆいレール」の1日乗車券600円(乗り放題+各施設入館割引)を買い「県庁前駅」でモノレールに乗車。ちなみに「ゆい」とは、人の結びつきを表す「結」に由来している。

海軍戦没者慰霊之塔
碑と錨
旧海軍司令部壕へ行くのでモノレールの「奥武山公園駅」で下車し歩く。思ったより遠く20分位歩いて到着。

「海軍戦没者慰霊之塔」と「参加部隊名・参加艦艇名」の碑と錨がある。壕へ入る前に資料館があり各種の関係資料が展示されている。圧倒的な米軍の火器・物量の前に本来海で戦うべき海軍が持久戦を続けるために地下に陣地を作り4千人もの兵士がいた事実の非情さ。
壕へ入るとひんやりしている。通路の壁に配電用の端子がある。幕僚室の壁に幕僚たちが自決した時の手榴弾の破片の跡が残っている。司令官室もそのまま残っている。
壕内の湿った空気のせいでなく各部屋を見ていて息苦しい思いがする。
アメリカ人の家族や台湾の若いカップルも見学している。彼らはどう感じてどう考えているのだろうか。平和だからこその光景。
幕僚室の手榴弾跡 司令官室

奥武山公園駅へ戻る途中に「東京ラーメン」の店があった。沖縄では「沖縄そば」ばかりだったので普通のラーメンを食べたいので店に入る。醤油ラーメンと鳥唐揚の定食を食べる。沖縄に1カ月いて初めてのラーメンだった。店の新聞を見ると「ノルウェーの首都オスロ中心部で爆弾テロがあり死者7人。その後、オスロ郊外で与党・労働党の青年集会に入り込んだ男が銃を乱射し80人以上が死亡した」と報道されている。

守礼門
右掖門
奥武山公園駅からモノレールに乗り首里駅へ行く。モノレールは高い橋脚の上を走っていて那覇市内が見渡せて眺めが良い。首里駅で下車し首里城公園内にある首里城へ行く。大勢の観光客がいる。守礼門の前に記念写真を撮る観光客相手の写真屋さんがいた。守礼門を通り正殿(せいでん)へ入る。

「14世紀末に創建された中国や日本の文化も混合する琉球独特の城で沖縄戦で焼失したが、1992年12月3日に復元された」とパンフにある。赤い色を基調とした彩色が見事である。当時の服装を着た係員が各所にいて案内等をしている。琉球王の座った玉座がある。建物の出口の前に土産物屋があり観光客の団体さんが買い物をしている。これはどこでも見られる光景。
全体 正殿 王座

対馬丸記念館
記念館入口
首里駅へ戻りモノレールで県庁前駅へ行き、下車の後、歩いて「対馬丸記念館」へ行く。この記念館は是非とも見学したいと思っていた。
記念館のパンフより ・「昭和19(1944)年、戦争の足音が徐々に近づいてくると、沖縄の人々は県外へ移動するよう指示されました。対馬丸は疎開する県民、とりわけ学童集団疎開の子どもたちをたくさん乗せて8月21日に那覇港を出航します。しかし、海はすでに戦場でした。対馬丸は翌22日夜10時過ぎ、米潜水艦ボーフィン号によって沈められてしまいます。乗船者1,788名(船員・兵員含む)のうち約8割の人々が海底へと消えてしまいました」
・「乗船者/犠牲者:学童疎開者834名/775名、引率・一般827名/709名、船員86名/24名、船舶砲兵隊員41名/21名」
・「確かなデータは一つもありません。今では考えられないことですが、当時は細部にわたる被害実態調査がされませんでした」

館内は写真禁止なのでメモを取りながら見学した。
・犠牲者の遺影:あどけない学童の写真が多く痛ましくなる。学童や引率・世話人以外では、船長の西沢武雄氏(48歳)と機関長の西川三五郎氏(50歳)と船匠の三人の写真がある。他に砲兵の写真もある。100人位しか写真がなく、係員に聞いたら「特に学童の分は、19年10月10日の那覇を中心とする米軍の空襲で家が焼け写真が残っていない場合が多い」との返事。
・十十(じゅうじゅ)空襲:昭和19年10月10日に南西諸島一帯が米機動部隊の無差別爆撃にさらされた空襲のこと。
・米潜水艦のBOWFIN(ボーフィン)号:1942年12月17日、真珠湾攻撃から1年後、に進水。ニックネームは「真珠湾の復讐者」。真珠湾の「ボーフィン記念公園」内に実物が展示されている。

記念館を出て歩いて国際通りへ出てから土産物屋へ寄り何点か土産物を買い自宅へ宅急便を頼んだ。
1カ月の旅の疲れを取る為に「マッサージ」の店で70分(35分足+35分体)4千円のコースで足と体とほぐしてもらう。足のマッサージは初めて。痛いが気持ちよい。背中が凝っていると言われた。

夕食は昨晩も行った「むつみ食堂」でゴーヤチャンプルと刺身の定食。
むつみ食堂 定食

部屋へ戻るとオーナーから電話があり、談話室にタンザニア(アフリカ)をハーレー(バイク)で旅行した女性がいるので来ないかとのこと。
談話室で彼女と話をする。この宿に来る前は与論島に2カ月いて友人がたくさん出来て与論島を離れるのが辛かったそうだ。姉がタンザニアでNPO活動しているので姉のところへ行きバイクで旅行した逞しい26歳の女性。
実家は府中市(東京)で小生の隣りの市なので東八(とうはち)道路沿いのラーメン屋の話題などで盛り上がった。女子サッカーの澤選手が府六(府中第六中学校)出身と言っていた。

TVでは「中国の高速鉄道が淅江省温州付近で脱線し2両が橋から落ちて11人死亡、89人が病院へ運ばれた」と報道している。

明日は那覇新港からフェリー「飛龍21」に乗船し東京港(有明埠頭)へ戻る。



長距離フェリー


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