沖縄本島一周  6月23日〜7月4日

走った市町村名(読みにくい名前が多い)
・那覇市(なはし)
・浦添市(うらそえし)
・宜野湾市(ぎのわんし)
・北谷町(ちゃたんちょう)
・嘉手納町(かでなちょう)
・読谷村(よみたんそん)
・恩納村(おんなそん)
・名護市(なごし)
・本部町(もとぶちょう)
・今帰仁村(なきじんそん)
・大宜味村(おおぎみそん)
・国頭村(くにがみそん)
・東村(ひがしそん)
・宜野座村(ぎのざそん)
・金武町(きんちょう)
・うるま市
・沖縄市(おきなわし)
・北中城村(きたなかぐすくそん)
・中城村(なかぐすくそん)
・西原町(にしはらちょう)
・与那原町(よなばるちょう)
・南城市(なんじょうし)
・八重瀬町(やえせちょう)
・糸満市(いとまんし)
・豊見城市(とみぐすくし)
行った島の名前
・瀬底島(せぞこしま)
・屋我地島(やがじしま)
・古宇利島(こうりしま)
・平安座島(へんざしま)
・浜比嘉島(はまひがしま)
・宮城島(みやぎしま)
・伊計島(いけいじま)
・瀬長島(せながじま)


1日目:6月23日(木) 曇後晴 走行距離/累計6.5km/6.5km
自宅 ⇒ 羽田空港 ⇒ 那覇空港 ⇒ シティフロント春海ユースホステル(YH)
宿泊:シティフロント春海YH(那覇)
過去の旅で使用した自転車(ランドナー)でなく昨年の秋に購入した20インチの小径車で沖縄の旅をすることにした。前輪と後輪をはずし車体と一緒に輪行袋へ入れた。電車に乗り、羽田空港へ行くが小径車でも結構重く肩に吊りバンドがあたりきつい。航空会社のカウンターで搭乗手続きをし輪行袋は預かり荷物とする。自転車預かり代として千円取られた。
到着便の遅れで定刻より遅れて13:15に出発。隣りの席は30代と思われる夫婦。
彼女「かんちゃんが沖縄でスピーチするんだって」
彼「へえ〜あのかんちゃんが偉くなったもんだな〜」
彼女「???」
結局、2人に「かんちゃん」と言う名の共通の友人がいて、彼はその友人と思い、彼女は「菅(首相)」を言っていたのだ。

水納島(みんなじま)
那覇空港
窓側の席なので外がよく見える。
クロワッサンの形の水納島(みんなじま)が見える。20年前位に家族旅行で沖縄へ来た時にこの島へ来た家族は海岸にいたが島の奥を散策した。水納ハブ島と言われるほどハブが多い島と後で知ったが、家族から「お父さんは大胆過ぎる」と非難された。

那覇空港で輪行袋に入れた自転車を受け取り、空港ビルの外で自転車を組み立てる。
久し振りの組み立てで時間がかかった。夏の沖縄の空の下、自転車を走らせる。今晩の宿のユースホステル(YH)は泊小学校(那覇)の近くなのでこの小学校を目印に進む。途中、何人かに道を聞きYHに到着。個室を予約したので部屋でくつろぐ。持ってきた携帯ラジオを入れたら台湾語(中国語)の放送が聞こえ台湾に近いことを実感する。

ゴーヤチャンプル定食/食堂ルビー
夕食は外なので地元の人が行く食堂をYHに聞いたら「ルビー」という店を教えてくれた。確かに地元の人が大勢いて繁盛している食堂でメニューが多く迷ったが、「オリオン生ビール」と「ゴーヤチャンプル定食」を頼む。
店の新聞を読むと今日、6月23日、は「慰霊の日」と載っている。この特別な日は知らなかったが多くの本土の人は知らないと思う。日本軍の組織的な戦闘が終了したのがこの日とのこと。
お客さんの中には腕に「戦友」と刺青のあるアメリカ人(軍人?)や東南アジア系(インドネシア? フィリピン?)の若者も何人かいる。沖縄の初日に相応しい大衆食堂である。





2日目:6月24日(金) 曇後暴風雨 走行距離/累計73km/79.5km
YH ⇒ 浦添市 ⇒ 宜野湾市 ⇒ 北谷町 ⇒ 嘉手納町 ⇒ 読谷村 ⇒ 恩納村
宿泊:民宿「南恩納トロピカル」(恩納村)
YHでの朝食時に岩手県の盛岡市から観光に来ている年配の夫婦と話をする。旦那さんは65才で今年退職。先に離島から旅をしたそうで西表島にも行って海に潜り色々な魚を見て感激したとのこと。離島で奥さんはクラゲや虫に刺され薬をつけて大変だったが旦那さんは全然刺されなかったと言っていた。
YHの人から興味深い話を聞いた。
話の内容:
このYHでヘルパーをしていた日本の女性が1989年にオートバイでオーストラリアを旅している時に自転車世界一周の旅を始めたばかりの男性(オーストラリア人)と知り合い彼女も自転車に乗り換えて世界一周2人旅を開始。2000年末に彼女はガンにかかり帰国し手術。トレーニングの後に彼と海外自転車旅行を再開。何年か前に筑紫哲也氏の番組で彼女の特集をした。2人は今、奈良県の山村で自給自足の生活をしている。彼女の名前:エミコ・シール 彼女の本「ガンを越え、めざせ地平線」鹿砦社(ろくさいしゃ)

家から持ってきた衣類や小物類が多かったのでダンボール箱に入れYHで預かってもらった。本島を一周して7月4日にこのYHへ戻ってくるまで保管してもらうことにした。

米軍・海兵隊施設・キンサー
米軍・嘉手納空軍基地
国道58号線(通称:ゴッパチ)を北上する。
今回は米軍の基地をこの眼でしっかりと見たいと思っている。海側に海兵隊施設のキャンプ・キンサーが見える。ずいぶん広い施設だ。 さらに進むと右手側にフェンスのある広い基地があった。極東一と言われる嘉手納空軍基地だ。哨戒機が離陸前のエンジンテスト中でかなりの騒音がする。道路を米軍の大型トラックが通り過ぎる。沖縄の人々にとってこのような風景は普通になっているのだろうか。道路際に嘉手納町が建てた「非核宣言都市」の碑がある。

歩いている沖縄顔のお兄ちゃんに残波岬への道を聞く。「気をつけて行ってくださ〜い」と明るく言ってくれる。途中、ローソンで昼食用の弁当とお茶を買う。そう言えば沖縄にはセブンイレブンはなくローソンとファミリーマートそれに地元資本のココストアしかないそうだ。

残波ビーチで昼食。写真を撮ってもらおうと男の子を連れた若い夫婦に頼むと英語で答えてきた。台湾から3泊4日で観光に来ていて台湾から那覇まで飛行機でたった1時間とのこと。やはり琉球は日本でなく台湾や東南アジア圏と思う。

残波岬にある灯台へ行く。先ほどビーチで会った台湾の家族に再び会い立ち話をする。
岬の全体は公園となっている。バスを改造した売店がありソフトクリームを食べる。地元のおばぁが5〜6人いて賑やかだ。「沖縄を一周したら次は世界一周か?」と質問してくる。しかし、おばぁ同士で話す言葉は全然理解できない。公園にシーサーがあった。何だ〜この大きさは〜!
バス改造の売店 巨大シーサー

58号線に戻らず海岸線の県道を走ると「国・登録有形文化財 琉球村」の看板があり進む道から離れているが見学することにした。
施設内には昔の民家が何軒か建っていた。広場でショーがあり見学する。これだけ豊かな文化のあった琉球は薩摩藩と日本政府と主人が変わり、さらに戦後に米国(米軍)となり歴史に翻弄されてきた。
琉球村 琉球村

琉球村の見学を終え宿へ電話して58号線へ戻り南恩納の民宿へ進む。民宿のホームページ(HP)の地図を印刷してあり近くの目印はシェルのGSと恩納小学校とある。途中の民宿で恩納小学校を聞くと「2つも3つも上っては下りでまだまだ先」と言う。

結構走ったところで58号線が二つに分かれていて「万座ビーチ方面」と「名護市方面」とある。
HPの地図には一本の道しか書いてなく本道と思われる名護市方面へ進む(この分岐点で宿へ電話し確認すべきだった・・、後悔先に立たず)。曇り空の下、大きな広い道路を走る。突然、強風が吹き大雨が降ってきたので道端の大きな木の下へ避難し、ザックにカバーをかけて出発。風と雨は止みそうになく暴風雨の中を走る。
目印のGSも恩納小学校を見つからない。「みゆきビーチホテル」の前を通りしばらく進むと小学校があった。「安富祖小・中学校」とあり生徒に聞くと「恩納小学校は通過していてずい分戻らなければならない」と言う。
宿へ電話すると「ずい分先まで行っていますね〜」。仕方がなく来た道を戻る。走っているとまたまた横なぐりの風と大雨となりバス停に避難する。すっかり暗くなったのでザックからライトを取り出そうとしたが、こういう時に限ってライトが見つからない。探しているうちにザックの中身が道端に落ちてしまう。
宿に電話するがお互いに要領が得ない。バス停の近くに停車していた人に携帯を渡し宿の人と話してもらう。結局、宿の主人が軽トラックでバス停まで迎えに来てもらい自転車を荷台に乗せて宿まで行った。
ご主人はHPの地図に1本の道しかないことを恐縮していたが、間違えて先へ進んだ道は今年の5月に完成した「58号線バイパス」であった。
暴風雨の中を道を間違えて走り疲労困憊。



3日目:6月25日(土) 暴風雨 走行距離/累計0km/79.5km
宿泊:民宿「南恩納トロピカル」
暴風雨(部屋から撮影)
朝から大雨。台風5号の影響なのだろう。新聞の天気予報を見ると「大雨、強風、洪水、波浪注意報」とあり今日は宿でゆっくりすることにした。

宿で新聞(琉球新報)と雑誌を読む。
新聞の主な記事:
・台風5号 先島地方が暴風域 本島など強風域
・宮古島で100世帯停電
・ギンバル訓練場 来月末返還
・年内にも台湾・先島 貨物船就航
・本部高校の比嘉真美子 日本女子アマチュアゴルフ選手権で決勝進出
・24日石垣のビギンのライブコンサート 台風のため中止
・小笠原 世界遺産に決定
・埼玉の熊谷で24日 気温39.8度を観測 国内の観測史上 最高記録を20年ぶりに更新

昼食のため傘をさして食堂を探す。2〜3軒あったが「かよう亭」に入り海ぶどう入りの「海鮮そば」を頼む。隣りの女性は「タコライス」

宿のご夫婦は2人とも神奈川県の横須賀出身。男の子が3人(5才、3才、1才)。1番下の子は歩き始めなので目が離せない。

宿に新しいお客さんが来た。神崎町(千葉県)にある造り酒屋のご夫婦(ご主人が24代目)で女の子2人(6才と3才)。何回かこの宿へ来ているとのこと。ご夫婦が宿へお土産に持ってきたおいしい酒をいただく。



4日目:6月26日(日) 快晴 走行距離/累計48km/127.5km
宿 ⇒ 万座毛 ⇒ 名護市 ⇒ 瀬底島(本部町)
宿泊:民宿「やどかり」(瀬底島)
南恩納トロピカル
万座毛
朝食は自家製の天然酵母のパン。
遊んでいる宿の男の子やお客さんの女の子を見ると孫たちを思い出してしまう。
出発前に千葉のご家族と記念写真を撮る。

58号線(元々の)を走り万座毛へ行く。
台湾(or 中国)からの観光客が多い。土産物屋はしきりに声をかけている。小雨が降ってきたのでザックにカバーをかけて走り出す。一昨日に通った「みゆきビーチホテル」前で雨宿り。ホテルの人が来て「台風は沖縄を通過したが大きな雨雲がかかっている。九州は大雨になっている」と言う。
小降りになったので走り出すが、しばらくして強い風と大雨となり上り坂では川のように水が流れてきて靴と靴下はぐっしょり、長袖シャツとTシャツ、ズボン、パンツも全て濡れて気持ちが悪い。
2〜3ケ所で雨宿りして靴の中の水を出し、靴下とシャツを絞った。
乾燥中
海水浴場がありシャワーもあるので休憩。着ているものは全て脱いで新しいものに着替えた。ベンチがあり濡れた衣類を干して泳いでる人たちを眺める。
親子連れの家族と話す。神戸空港からスカイマークで那覇空港に着いてレンタカーで遊びに来ているとのこと。小2の男の子と幼稚園年少の女の子は、貝殻やヤドカリを入れたビニール袋を持っている。お父さんは小生のチャリの一人旅を羨ましがっていたので、「いずれ子供たちが独立しお父さんも退職したら出来るのでそれまで頑張って」と激励した。

名護市街に入ると大雨。ルートイン名護ホテルの玄関前で雨宿り。名護十字路を目指し出発。オリオンビールの工場が見える。20年前位に家族旅行で来た時は名護十字路がキーワードだった。20年ぶりに来たがこんなに小さな十字路だったのか。

「八重食堂」の「沖縄そば」を食べたいので何人かに聞くが教えてもらった場所が間違ったりしていて見つけるのに苦労した。地元の人や観光客で満席。1人座れるイスがあり「ソーキそば  大」を注文する。前の老人に注文したそばが来た。店の人はスープの入ったヤカンを置いておく。老人はヤカンからスープをそばの入った丼に注いだ後に食べだした。これがこの店の正しい食べ方。ついに注文したそばにヤカンが付いてきた。スープを入れずに麺だけ食べるが美味しくない。スープを入れて食べると美味しい。骨付き豚肉もうまい。
八重食堂 ソーキそば
名護市役所の建物がユニーク。
名護市役所

県道449号線に入り走る。海岸沿いの遊歩道は広く距離も長く快適。民家も商店もなくここで大雨になったら悲惨だろうなと思いながら走る。
瀬底島と瀬底大橋が見える。本部港へ寄って小休止。ここから屋平島などへフェリーが出ている。

瀬底大橋を渡る。側道は広く快適。上りきった橋の真ん中で小休止。ゆっくりと遠くを眺め橋の下を見る。車だとこうはいかない。
橋を渡って宿へTELし場所を聞いて進むと宿の主人がスクーターで迎えに来てくれ後をついて行った。
家の2階にお客さん用の部屋が4つあり、「や」「ど」「か」「り」。「ど」の部屋に入った。洋室(シャワー・トイレ付)のなかなか良い部屋。夕食はどこかへ食べに行こうと思ったが、大雨の中を走ったので主人の言うようにスーパーでお弁当や好きなものを買って宿でゆっくりと食べた方がよい。主人の車で橋の向こうにあるスーパー「Max Value」へ行き缶ビールやニギリ寿司、もずくなどを買った。

夕食前に主人手作りのお風呂へ入る。遠くに水納島が見えて雰囲気のあるお風呂だ。
夕食を主人と一緒にと思い下のベランダへ行くとすでに家の中でビールを飲んでいた。ベランダで食べようとしたら庭にテラスに案内してくれた。買ってきた豪華ディナーをテーブルに並べ貸切で食事。
民宿「やどかり」 テラスで夕食

部屋へ戻りTVを見たら女子アマチュアゴルフ選手権で優した本部高校の比嘉さんが那覇空港に到着して歓迎セレモニーのニュースをやっている。



5日目:6月27日(月) 曇のち晴 走行距離/累計60km/187.5km
宿 ⇒ 美ら海水族館 ⇒ 今帰仁城跡 ⇒ 屋我地島 ⇒ 古宇利島 ⇒ 屋我地島 ⇒ 大宜味村(おおぎみそん)
宿泊:民宿「マリン」(大宜味村)
朝食にスーパーで買っておいたバナナを食べる。

美ら海水族館
美ら海水族館
瀬底大橋を渡り海洋博公園の先にある美ら海水族館へ入る。水槽が大きくて迫力がある。
大水槽で3匹のジンベイザメや大きなマンタや種々の魚が回遊している。見学者はなかなか動こうとせずじっと泳いでいる魚たちを見ている。
ちょうど餌の時間でジンベイザメは立ち泳ぎして食べている。
大水槽の上も見学した。
外でイルカショーを見る。家族で来たときにも見たが子供たちはまだ小さかった。
美ら海水族館 美ら海水族館

海岸沿いの道から今帰仁(なきじん)城跡へ行くが長い坂道で大変だった。
琉球衣装の若い女性が2人城跡へ歩いている。案内係りと思ったが、千葉から来ている見学者で貸衣装(1人千円)とのこと。城跡と歴史文化センターがセットになっていてどちらも見応えがあった。
今帰仁城跡 琉装の女性 今帰仁城跡入り口
城跡の中 城跡の中 歴史文化センター

運天港への道を離れて屋我地島への大きな橋を渡る。全長315mで2010年(平成22年)12月に開通の新しい橋だ。屋我地島の中を進むと古宇利島への古宇利大橋があった。
古宇利大橋は通行料無料の橋としては日本最長。橋を渡った先のビーチで休憩。大勢の海水浴客がいる。再び大橋を渡り道路工事中の人に道を聞いて来たときと別の屋我地大橋を渡り58号線へ出る。
ワルミ大橋 古宇利大橋 古宇利大橋

津波被災地跡の碑
58号線への手前で「津波被災地跡」の石碑があったので自転車を止めて石碑を見る。
説明文
「1960(昭和35年)5月のチリ中部の近海でマグニュチュード8.5の地震が起き大津波が発生した。
<中略>太平洋を横断 翌24日未明には日本海岸を襲い、死者139人を出した。沖縄では同日午前5時30分ごろからおもに久志村・羽地村(現 名護市)、石川市等で数回にわたって来襲、甚大な災害を被った。当地には真喜屋小学校があったが、津波によって全校舎・校地が破壊され校地移転を余儀なくされた。地域では死者3人、学校裏の護岸及び屋我地大橋(146m)、奥武橋が全壊した。この被災を教訓として地震・津波の防災のために生かしたい」。

宿へ行く前に「前田食堂」の名物の「肉そば」を食べたいので寄った。ボリュームのある「肉そば」に満足。
店を出たら6時過ぎで店の人がノレンを下ろしていた。レンタカーで来たカップルが閉店を知って帰って行った。
前田食堂 肉そば

前田食堂の近くにバス停「第一津波」があった。
「つなみ」でなく「つは」と読むのだが、どうしても「つなみ」と読んでしまう。
特に今年の3月11日に東北地方の太平洋岸に大津波があっただけにどきっとする漢字だ。

宿の「マリン」に到着。
6畳の和室に1人で前は海岸。
30分位前に「肉そば」を食べたばかりだが、宿のレストランで頼んでおいた夕食を取る。
バス停「第一津波」 バス停「第一津波」 民宿「マリン」



6日目:6月28日(火)快晴 走行距離/累計48.2km/235.7km
宿 ⇒ 道の駅「ゆいゆい国頭」 ⇒ 辺戸岬 ⇒ 奥
宿泊:民宿「海山木みやぎ」(国頭村奥)

宿のレストランで古宇利島を見ながら朝食。

快晴の下を走る。古宇利島が見える。
浜辺で休憩。「ハブクラゲに注意」の看板がある。宿にも「泳ぐ時はお酢を持って行って」とあった。
向こうに古宇利島 注意看板

国頭村(くにがみそん)にある道の駅「ゆいゆい国頭」で1時間ほどゆっくりする。
観光案内所があり、東海岸の民宿リストとサイクリングマップを入手。「東海岸の山道は厳しい」と会う人から言われていたので明日は無理に走らず途中の安波(あは)の民宿に予約した。
揚げたての「かまぼこ」を食べる。その後、クニガミドーナツを食べるがどちらの食べ物もガイドブックに載っていた。

「新与那トンネル」を過ぎると「オオガニ横断注意」の看板がある。さらに進むと「気をつけてクイナが飛び出すさぁ」の看板もある。

「座津武トンネル」「ウテンダトンネル」があり、さらに「宜名真トンネル」(本島最長の1,045m)を通る。北海道のトンネルは長いものが多かったが沖縄は数も少なく長いトンネルはない。

辺戸岬
祖国復帰闘争碑
辺戸岬(へどみさき)に到着。
遠くに伊平屋島と与論島が見える。
「祖国復帰闘争碑」がある。
碑文「全国のそして全世界の友人へ贈る 吹き渡る風の音に耳を傾けよ 権力に抗し復帰をなし遂げる大衆の乾杯の声だ 打ち寄せる波濤の響きを聞け 戦争を拒み平和と人間解放を問う大衆の雄叫びだ・・・・・・・・・」

岬にある食堂で「沖縄そば」と「オニギリ」を食べながら店のおばちゃんと話す。土地の言葉なのでわかりずらいが最近の若者について雑談。


ヤンバルクイナ注意
岬から宿のある「奥」まで約8kmだが長い上りはきつかった。
途中、「ヤンバルクイナ飛び出しに注意」の看板を何度か見る。

宿の「海山木」(みやぎ)を見つけたが時間が早いので近くの海岸へ行き足を海につけて到着の開放感を味わう。

宿へ行くとアゴヒゲをはやした上半身裸の主人が出て来て部屋へ案内してくれる。
広い敷地で小さな公園の中にある宿の感じがする。
家の中はどこも開けっぱなしで虫や蚊や蝿が自由に出入りしている。

アルコールの持ち込みはOKなので集落の中にある共同売店でロング缶2本を買う。
夕方、青年がスクーターで到着した。囲炉裏のある別棟で夕食。宿の主人は最初から「泡盛」の水割りを飲んでいる。ダジャレの好きな面白い人だ。話も多岐にわたる。
青年は神戸から来た25才でフリーター。酒は飲まない。主人の泡盛をもらい話が盛り上がる。
主人はトイレなのか席を離れて待っていても戻ってこない。彼と話すがお互いに眠くなり解散。



7日目:6月29日(水) 雨のち快晴 走行距離/累計26.4km/262.1km
宿 ⇒ 楚州(そす) ⇒ 安田(あだ) ⇒ 安波(あは)
宿泊:民宿「安波」(国頭村安波)

民宿「海山木」
朝方、雨。昨晩は飲み過ぎた。朝食時に神戸の青年と話す。彼は高校までバスケの選手でNT大へ進学しバスケ部に入部。バスケ部の新入生歓迎会で無理やりに酒を飲まされた為に2日で退部。結局、大学は2年で中退した。歓迎会の酒の経験で酒はまったく飲む気がないとのこと。
小生も大学の入寮コンパで酒をしこたま飲まされて翌日のオリエンテーションは出れなかった。但し、酒は今でもそれなりに飲んでいるが・・・・・。

ここからは国道58号線でなく県道70号線となるが、宿を出たら長い上り坂で二日酔いの体にはこたえる。今まで会った沖縄の人の大多数が「北部(やんばる)の東側の山道は厳しいよ」と言っていた。
アップダウンの山道をへとへとになりながらペダルを漕ぐ。神戸の青年はこの道でヤンバルクイナを見たそうだ。

きれいなビーチがあり休憩。「アダンビーチ」と書いてあるが展望台で休む。快晴なので昨日の洗濯物が乾いていないので展望台に干しておいた。この天気なので1時間もすれば乾くだろう。貸し切りの状態で人がいない。しばらくすると車が来ておばちゃんが2人降りてきた。この休憩所の人かと思い展望台の洗濯物の件を話すとタコを取りに来た人だった。腰に竹製のカゴをつけ手に弓ヤスを持って引き潮の海へ入って行く。
ビーサンを履いて海辺へ行くと小さな熱帯魚がたくさんいる。こんな磯辺で熱帯魚を見れるとは思わなかった。
おばちゃんたちはどんどん沖へ歩いて行く。快晴の空と海と白い砂浜のコントラストが最高!!
結局、このビーチに2時間いた。
アダンビーチ タコ取りのおばちゃん

再びアップダウンの山道を走る。長い急な上り坂は最初から呼吸が荒く全エネルギーを使いながら漕ぐので体力を消耗する。何回も水分を補給する。下り坂は快適! 「やっほ〜」と大声で叫びながら下りて行く。この繰り返し。

闘争の碑
県道の脇道に石碑を見つけた。「闘争の碑」とある。説明文の要約「1970年12月米軍が伊部岳で実弾射撃演習を通告してきた。国頭村の安田・安波・楚州の3集落の住民が着弾地点に座り込んで演習を阻止した。森と水とやすらぎの里の山原の自然を守り育てた先人達の偉業を語り継ぐための碑」
車では見過ごす目立たない所に立っている碑であったが自転車なので気がついた。

「やんばるくいな観察小屋」を見学。剥製はあるが、残念ながら今まではクエークエーと甲高い鳴き声を聞いただけで見ていない。

上り坂道を走っていたら側溝の落ち葉がガサガサと音がしてヤンバルクイナが突然飛び出してきた。森の中へ走って行ったが、ついにヤンバルクイナを見た!! 

宿のある安波集落に早く着いたので「安波共同売店」でカップ麺を買いお湯を注いで店の前の休憩所で遅い昼食。ヨーグルトやお茶を飲みゆっくり過ごす。
宿は小学校の近くと聞いていたが宿が見つからない。電柱で工事をしていた人に教えてもらった。
宿で夕食の時、工事をしていた人達もこの宿に泊まっていて話をする。地デジ対応の有線の工事をしていて、僻地では電波が弱いので有線となるとのこと。



8日目:6月30日(木) 曇のち快晴 走行距離/累計54km/316.1km
宿 ⇒ 高江 ⇒ 魚泊(ゆどまり) ⇒ 東村(ひがしそん) ⇒ 嘉陽(かよう) ⇒ 汀間(ていま) ⇒ 瀬嵩(せだけ)
宿泊:民宿「海と風の宿」(名護市瀬嵩)

朝食時に昨晩 西原町からロードレサーで来た青年がいた。大坂出身の35才。沖縄県の団体職員。若い頃からの自転車野郎で日本一周済みで1日に200km走ったこともあるとのこと。左膝を痛め前ほど自転車で走れなくなったとぼやいていた。

かなり長い上り坂で途中 休憩しながら走る。
道に「ヤンバルクイナに注意」の看板が何回も出てくる。

米海兵隊・ジャングル戦訓練場
米軍の施設がある。「US MARINE CORPS JUNGLE WARFARE TRAINNING CENTER」とある。鉄条網に「WARNING 警告 THIS FACILITY PATROLLED BY MILITARY WAORKING DOG TEAMS. この施設は軍用犬により巡視される」と札がかかっている。この現実を直視しなければならない。

高江地区に入ると道端にテントと車がある。「北部訓練場の無条件返還を」「辺野古の新基地建設反対」「高江ヘリパッド工事を中止せよ」
抗議行動 抗議行動

バス停「魚泊」と共同売店
魚泊(ゆどまり)バス停の前の「魚泊共同売店」で休憩。
スーパーやコンビニがない集落にはこのような「共同売店」が必ずある。携帯が圏外で連絡できないので店の公衆電話を使うことにする。十円玉や百円玉はすぐになくなるのでテレフォンカードを買おうと思い売店のおばぁに聞くと売っていないとのこと。諦めていたらおばぁがカードを1枚出して使ってくれと言う。
私「もらう訳にいかないのでお金を払います」
おばぁ「もらったカードなのでお金はいらない」
なんかカードの大きさが違うような気がしたが使わせてもらうことにした。公衆電話のカード差込口にカードを入れるが入らない。カードをよく見たら「クオカード」で買い物に使う500円分のものだった。おばぁにその旨を話しカードを返した。

とにかく山の道のアップダウンが続く。今日はすでに1.5リットルの水を飲んでいる。

野菜チャンプルー定食/食堂東ん浜
「花と水とパインの村 東村 日本一のパイン村」の大きな看板が体育館の壁にかかっている。
食堂「東ん浜」へ入ると昼食時なので満員。メニューが多い!! お客さんに出す料理が厨房のカウンターにあった。美味しそうなので名前を聞くと「野菜チャンプルー」とのことでこれを頼む。美味しかったので大満足。女子プロゴルファーの宮里藍さんの出身地なので店の中に彼女の色紙や新聞の切り抜きが貼ってある。

毎度お馴染みの山道の上り下り。下りは大歓迎だが上りはもうたくさん。

嘉陽に到着。
浜辺へ行くと網を揚げていて小さな魚が入っている。「嘉陽共同売店」の中でアイスを食べる。年配の男性が座っていて話を聞いて驚いた。この人は沖縄出身の女子プロゴルファーが小学生の頃にゴルフを教えた人だった。特に「諸見里しのぶ」さんの基礎を厳しく教えたとのこと。この人はアマチュアだがハンデ3だそうだ。沖縄出身の女子プロゴルファーや高校野球の話を面白く聞く。
売店の女性がカップ麺を食べていたのでカップ麺を頼んだ。お湯を入れて出来上がったカップ麺を持って来てくれた時、「おにぎり」と「お新香」をサービスしてくれた。
年配の男性が店を出てから、女性が「今のは一番上の兄」と言うので驚いた。女性とあれこれ世間話をする。

宿へ到着前に夕食を取るので宿から紹介された汀間にある食堂「さらばんじ」へ行く。
とにかく「ビール」が飲みたいので頼む。冷えたビールがきたのでぐっ〜と飲む。味が今ひとつ物足りない。よく見たら「ノンアルコールビール」だった。どうして?
ゴーヤチャンプル定食がきた。すごいボリュームである。
精算の時に「ノンアルコールビールだった」と言うと「自転車の人もアルコールを飲んで走ってはいけないのでノンアルコールにした。ビールを飲んで警察に捕まった自転車の人もいますよ」との返事。確かに彼女の言う通りだと納得した。
食堂「さらばんじ」 コ゛ーヤチャンフ゜ルー定食

瀬嵩へ入る。民宿「海と風の宿」は久志小学校の近くなのですぐにわかった。
宿の人は、昨日電話した時に聞いた声から想像していた人と違ってごつい感じの人。2人の子供を連れた女性が談話室にいる。住まいは浅草(東京)で旦那さんは仕事で来れなかったが子供(4才の女の子と2才の男の子)を連れてこの宿に2週間滞在するとのこと。小さい子供を連れてレンタカーは大変なので那覇から路線バスで来たそうだ。さっぱりとした女性で娘と同じ年令だった。又、彼女の実家は西東京市の保谷で小生の隣りの町。彼女は「隣の部屋ですが、子供がうるさいのですみません」と言うので、「息子のところの子供達と同じ年頃なので慣れていて大丈夫ですよ」と答えた。

最初に会った宿の男性は昭和28年生まれでこの宿で半年位アルバイトしていて日本のあちこちの民宿で気の向くまま暮らしているとのこと。
若い男性が来た。大垣(岐阜)出身で19才の時に初めて沖縄へ来て気に入って昨年住所を移し測量士になる為に名護市の学校で勉強中。あれこれ話していると奥から車椅子に乗った男性が談話室へやって来た。この人がオーナーで昨日電話で聞いた時の爽やかな声を思い出した。



9日目:7月1日(金) 晴 走行距離/累計67.3km/383.4km
宿 ⇒ 辺野古 ⇒ 宜野座村 ⇒ 金武町 ⇒ 旧石川市 ⇒ 旧具志川市 ⇒ 海中道路 ⇒ 浜比嘉島(はまひがしま)
宿泊:民宿「ゆがふの郷」(うるま市浜比嘉島)

宿の外壁に「戦争に協力しません 無防備地域宣言 NO MORE WAR」のステッカーが貼ってある。出発前にオーナーと写真を撮る。
民宿「海と風の宿」 民宿のオーナー

「CAMP SCHWAB GATE2」(キャンプ・シュワープ)の前を通る。さらに走ると「US MARINE CORPS FACILITY」がある。丘の上に多くの軍用トラックがある。普天間基地の移設先の辺野古はぜひ見たいと思っていた。浜辺への道を進むと「移設反対テント村」がある。フェンス越しに米軍施設があり滑走路の予定地を見る。「ここは琉球の地 非暴力 不服従・・・・・・」との板がフェンスにかけてある。「テント村」で話を聞く。カンパをしようとしたら色々な関係資料があり本を買った。
テント村 移設予定地 抗議の看板

「UNITED STATES MARINE CORPS CAMP HANSEN GATE 1」があり、基地の前に飲食店街があった。米兵相手のバーやクラブもある。

「UNITED STATES MARINE CORPS CAMP COURTNEY GATE 1」の前を通る。
宜野座村と金武町は米軍の施設が多い。
米軍の陸軍施設がありフェンスの向こうに家族住宅がある。芝生が整備され遊具で遊んでいる子供達がいる。戦後66年経っても沖縄は米国に占領されたままと実感する。

海中道路
海岸沿いの道を進むと海中道路が見えた。
4,700mの海中道路を渡るが中間に「道の駅あやはし館」があり休憩。駐車場に韓国の現代自動車のレンタカーが目に付く。多分、那覇のレンタカー会社が韓国からの観光客を目当てに用意しているのだろう。

平安座島(へんざじま)へ着き食堂を探したが漁協直営の店は5時で閉店していた。
売店でカップ麺、天ぷら、ソーセージと缶ビールを買った。浜比嘉大橋を渡り浜比嘉島へ到着。宿はわかりにくく大変だった。女性2人のサイクリストが到着した。「こんにちわ」と声をかけるが返事なし。バリバリのサイクリストの感じがする。

食堂でビールを飲んでいると宿の奥さんが「アイゴ」の酢ずけを持ってきてくれ世間話をする。奥さんの父親は、太平洋戦争中に南洋で米軍の捕虜になりハワイの収容所に送られた後に終戦を迎えたとのこと。ハワイに奥さんの従妹達が住んでいるが父親はハワイの収容所から帰国後 一度もハワイへ行かなかったそうだ。

結局、2人の女性は部屋から出て来なかった。同じサイクリストとして意見交換出来るかなと思っていたのだが。又、宿の人との語らいも楽しいのだが彼女達は興味がないのだろう。人それぞれなのでまぁいいか。



10日目:7月2日(土) 晴 走行距離/累計43.3km/426.7km
宿 ⇒ 平安座島 ⇒ 宮城島(みやぎじま) ⇒ 伊計島(いけいじま) ⇒ 海中道路 ⇒ 勝連城跡 ⇒ うるま市 ⇒ 沖縄市
宿泊:ウィクリーマンション「Purari」(沖縄市)

伊計大橋からの眺め
浜比嘉大橋を通り平安座島へ渡り政府の石油備蓄基地の前を走り宮城島に入る。上り坂の途中で道路工事の為に「片側交互通行」の看板。車が5〜6台 青信号になるのを待っている。青信号になり車を先に通らせてから最後に進むが向こうの信号まで300m位の上り坂でしんどい。坂道の途中で止められると自転車は不利なのだ。伊計大橋から見えるエメラルド色の海が素晴らしい! 伊計島のビーチに到着。ビーチへ入るだけで300円取られた。コーヒーを飲んでゆっくりするが米軍の家族と思われるグループがバーベキューをしている。

海中道路の道の駅で昼食。バイキングが種類が豊富で外の眺めもよくて満足。冷たい水ばかり飲んでいるので熱い飲み物にした。「さんぴん茶」を飲んだら美味しかったので店に聞いたら「ジャスミン茶」を沖縄では「さんぴん茶」と言うそうだ。

世界遺産になっている「勝連城跡」を見学する。高台にあり遠くの眺めもよい。自転車で旅行中と思われる若い男性が城跡の下にいた。沖縄へ来て初めて自転車で旅行している人を見た。城跡を出たら彼は城跡へ入ったのかいなく話が出来なかった。
勝連城跡

糸満まで行って泊まろうと思ったが、時間も遅くなり疲れてもいるのでどこか宿を探すことにした。2〜3人に聞いたが民宿はわからなかった。沖縄市へ入り大きな焼肉レストランの駐車場で交通整理しているおじさんに宿を聞いた。
おじさんは「この先のマクドナルドの反対側に宿泊料金が出ているホテルがたくさんあるよ」と言う。
探すが見つからず「お好み焼き」の店でホテルを聞くと、主人が「ファッションホテルならこの先にたくさんあるよ」と笑う。ラブホテルのことだった。奥さんが電話帳を調べたり友人に聞いてくれたりしてその宿へ行くことにした。確かにラブホテル街で坂道の両側にラブホテルがたくさんある。急坂なので自転車を降りて歩く。
「サンタ・クルーズ」「ラスベガス」「ASUKA」「たぬき」「シルクロード」「オクトバームーン」「ミントハウス」など色んな名前のラブホがある。「平日泊まり4,500円 カラオケ完備 ジャグジー風呂完備」などの看板が出ている。
教えてくれたあのおじさんはラブホテルと知ってたのか?それとも冗談だったのか? ラブホテル街を通り高台のウィクリーマンションへ到着。このマンションはきれいで部屋も大きくお風呂も広く眺めもよくて大正解!! 
ウィクリーマンション 部屋

お好み焼き屋の夫婦
「お好み焼き」の店のご夫婦にお礼を言いたいし、夕食もまだなので店へ行く。大坂出身のご夫婦(マスターは昭和27年生まれ)で店の名前は「やっぱ好きやねん」。
2人とも北海道のファンでもある。お好み焼きの店を北海道か沖縄にするか迷ったが、結局は沖縄になった。その理由:「北海道は冬に雪かきをしなければならない」
「沖縄で店を開いて14年になるが沖縄の人はお好み焼きに馴染みがなく最初の3〜4年は赤字やった」と奥さんが笑いながら話す。奥さんお奨めの「ねぎ焼き(京野菜)」と生ビールで夕食とする。沖縄でお好み焼きを食べるとは思わなかったが、これも旅の出会いでよかった。




11日目:7月3日(日) 快晴 走行距離/累計53.8km/480.5km
宿 ⇒ 北中城村(きたなかぐすくそん) ⇒ 中城村 ⇒ 与那原町(よなばるまち) ⇒ 知念半島 ⇒ 平和祈念公園 ⇒ 糸満市
宿泊:民宿「ヤポネシア」(糸満市大度)

知念岬公園
北部の山道のような急な上り坂がなく海沿いの道を快適に走る。知念岬公園手前の道の駅で熱いコーヒーを飲み休憩。空と海の色がいかにも沖縄と思わせる。
知念岬公園へ行き近くの島を見る。地元のおじさんが話しかけてくる。棒で地面に色々な漢字を書いてその由来を説明してくれる。前歯がほとんどなく笑うと口の中が丸見え。きわどい話もしてくれて思わず周りに人がいないか見てしまう。「おじさん、こんな昼間に青空の下でそんな話していいの〜」
年令を聞くと「23年のネズミどし」と言う。え〜小生と同じ年なのか!?

「平和祈念公園」へ寄る。戦争で亡くなった人達の名前が書かれている「平和の礎」がある。「平和祈念資料館」を見学する。第1展示室「沖縄戦への道」、第2展示室「鉄の暴風」、第3展示室「地獄の戦場」、第4展示室「証言」、第5展示室「太平洋の要石」。どの展示場も内容が重く言葉が出ない。
平和祈念公園 平和の礎

「展示のむすびのことば」として大きな白い紙に黒い文字が書かれている。
沖縄戦の実相にふれるたびに
戦争というものは
これほど残忍で これほど汚辱にまみれたものはない
と思うのです
この なまなましい体験の前では
いかなる人でも
戦争を肯定し美化することは できないはずです
戦争をおこすのは たしかに 人間です
しかし それ以上に
戦争を許さない努力のできるのも
私たち 人間 ではないでしょうか
戦後このかた 私たちは
あらゆる戦争を憎み
平和な島を建設せねば と思いつづけてきました
これが
あまりにも大きな代償を払って得た
ゆるすことのできない
私たちの信条なのです

糸満市の宿に到着。宿の女の子「しょーこ」ちゃん(6才)に浜辺へ連れて行ってもらう。この大度海岸はジョン万次郎が仲間2人と一緒にハワイから上海に向かう米国の捕鯨船から小舟(アドヴェンチャー号)を下ろし1851(嘉永4)年2月4日に上陸した浜である。この浜に彼が上陸したと思うと感慨深いものがある。
大度海岸

宿のご夫婦は本土出身(ご主人は埼玉県)で「しょーこちゃん」は本土で生まれたとのこと。ご夫婦は縁があって6年前にこの宿の管理を頼まれたそうだ。



12日目:7月4日(月) 快晴 走行距離/累計39km/519.5km
宿 ⇒ しらゆりの塔 ⇒ 喜屋武岬 ⇒ 糸満漁港 ⇒ 糸満市場 ⇒ 豊見城市役所 ⇒ ジョン万次郎記念碑 ⇒ 瀬長島 ⇒ 那覇空港
宿泊:シティフロント春海YH(那覇市)

朝食の飲み物は「ハイビスカスのハーブティ」にする。
本来はこの宿で2泊の予定だったが、台風の為に恩納村で2泊したのでここは1泊となった。
しょーこちゃんが幼稚園へ行くのを見送ってから出発した。

「ひめゆりの塔」へ寄り「ひめゆり平和祈念資料館」を見学する。
修学旅行の高校生達がガイドさんから説明を受けている。平和祈念公園の「平和祈念資料館」と同じくこの資料館の展示物にも複雑な気持ちにさせられる。
ひめゆりの塔 ひめゆり平和祈念資料館

喜屋武岬
糸満漁港
喜屋武岬(きゃんみさき)へ行く。展望台と灯台があり眺めがよい。展望台で休んでいると軽ワゴン車に乗った中年の男性が2人下りて展望台へ来た。2人と雑談するが昼休みの時間なので弁当を食べている。2人は缶ビールを飲んでいる。
沖縄は飲酒による交通事故が多く道路に「飲酒運転撲滅」などの看板がよく出ている。又、警察が何度もキャンペーンをやっているが事故は減らないとTVや新聞で報道している。

糸満漁港へ出て近くの市場へ行く。市場の中にある食堂「ビストロゆう」で焼肉定食を頼む。アイスコーヒーがサービスでついていた。


ジョン万次郎記念碑
豊見城市(とみぐすくし)にある「ジョン万次郎記念碑」を見たいが道路に案内の看板が出てない。
市役所で記念碑の場所を聞き来た道を戻り見つけた。
沖縄ジョン万次郎会による記念碑の建立趣旨
「シ゛ョン万次郎が、アメリカの帰りにこの地に滞在しました。1851年2月・旧暦1月漂流でアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に救助された万次郎は、アメリカの教育を受けました。時は鎖国時代です。そのため帰国の手段に琉球を最初の地に選んだとされています。摩文仁海岸に上陸 薩摩藩の取調べの後、首里王府により帰国まで豊見城村翁長に滞在を命ぜられました。半年の間、我豊見城村の先代は、万次郎に温情あふれる接遇をしました。日本開国先駆者ジョン万次郎が翁長に滞在された史実と、人間味あふれる先代の行動に感謝しこの地に記念碑を建立する」
ジョン万次郎がアメリカ軍の基地の多い今の沖縄を見たら何んとコメントするのだろうか?




瀬長島
三線のお父さん
瀬長島へ渡る。この島は那覇空港のすぐ傍の島で那覇空港を発着する飛行機を見ながら休憩。 年配のご夫婦がいて話をする。ご主人は久米島出身で奥さんの母親は佐賀県出身。定年後しばらくはすることがなくここで毎日 飛行機を見ていたとのこと。その後、三線(サンシン)を始めてからここでも練習しているそうだ。家で作ったという「大福もち」をいただいたが美味しかった。

今回の出発点である那覇空港へ無事に戻ってきた。明日は空港から宮古島へ飛行機で行くので自転車を分解し袋に入れ空港の荷物預かり所に預けた。これで今晩泊まるYHまで自転車なしでモノレールで行ける。

YHの人から「無事に本島一周おめでとう」と言われ喜びを新たにした。
夕食は例の食堂「ルビー」へ行きオリオン生ビールで本島一周ゴールの祝杯を挙げた。




宮古島・池間島・伊良部島・下地島




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