中島飛行機
陸軍の航空機(機体)の生産会社
三菱重工業、中島飛行機、愛知航空機、川西航空機、九州飛行機、日立航空機、日本飛行機、昭和飛行機工業<

海軍の航空機(機体)の生産会社
三菱重工業、中島飛行機、愛知航空機、川西航空機、九州飛行機、日立航空機、日本飛行機、昭和飛行機工業

陸海軍機体の生産数(単位:機)1941年~1945年の5年間
三菱重工業:51,534 35.6%
中島飛行機:36,440 31.3%
日立航空機:13,571 11.6%

零戦用機体の生産工場
三菱重工業/名古屋製作所、中島飛行機/小泉製作所、日立航空機(練習用零戦)

零戦用発動機(エンジン)の生産工場
三菱重工業/名古屋発動機製作所大江工場、中島飛行機/多摩製作所(のち武蔵製作所)、石川島航空工業
最盛期(昭和16年~20年平均)の航空機生産(陸海軍)のうち、中島飛行機は機体で28%(2位三菱18%)、発動機で31%(1位三菱36%)のシェアを誇ったように三菱重工業と並び大企業であった。しかし、三菱重工業ほど今の人たちには知られていないと思われる。零戦と言えば殆どの人が三菱重工業をイメージする。確かに零戦を設計したのは三菱の若手技術者の堀越二郎であったが、機体の全てを三菱が生産したのでなく機体総数の60%以上は中島飛行機の工場で生産されていた。又、搭載するエンジンは中島製であった。
創業者の中島知久平(なかじま ちくへい)の略歴は次の通り。(写真:ウィキペデア)
年号 出来事
明治17年 (1884) 1月17日 群馬県新田郡尾島町に誕生
明治36年 (1903) 10月 海軍機関学校に15期生として入学
明治40年 (1907) 4月 同校を席次3番の「銀時計」で卒業、海軍に入る
明治41年 (1908) 1月 海軍機関少尉に任官
明治42年 (1909) 8月 海軍機関中尉に任官
明治43年 (1910) 3月 巡洋艦「生駒」に乗り組み中、ロンドンで開催された日英博覧会に「生駒」が派遣された。マルセイユで途中離艦しフランスの航空界(各種型式の飛行機や飛行学校、機体工場、発動機工場など)を視察。40日後にイギリスから帰途の「生駒」が再びマルセイユに寄ると乗艦した。
明治44年 (1911) 10月 日本最初の飛行船・イ号飛行船試験飛行(日本で2番目の操縦員)
海軍大学校選科に入学し飛行船と飛行機を研究
12月 海軍機関大尉に任官
明治45年 (1912) 6月 海軍大学校を卒業
7月 海軍航空技術委員会委員として米国に出張、飛行士免状取得(日本人で3人目)
大正2年 (1913) 横須賀鎮守府海軍工廠造兵部員として配属
大正3年 (1914) 1月 造兵監督官としてフランス航空界を視察
12月 造兵部員・飛行機工場長となり飛行機の試作に従事
大正6年 (1917) 5月 群馬県尾島村(現 太田市)に「飛行機研究所」を創設
12月 希望通り海軍を退官し予備役となる。
大正7年 (1918) 4月 「中島飛行機製作所」に改称
大正8年 (1919) 2月 四型6号機の試験飛行成功
4月 陸軍から20機(中島式五型複葉機)を初受注
大正14年 (1925) 11月 東京工場が完成し発動機の生産開始
昭和5年 (1930) 2月 第17回衆議院議総員選挙に群馬1区から無所属で立候補し初当選
3月 立憲政友会に入党
昭和6年 (1931) 中島飛行機製作所の所長の座を弟の喜代一に譲る 関係する企業の代表を全て返上
12月 犬養内閣の商工政務次官に就任
昭和9年 (1934) 国政一新会を結成 3月 政友会顧問となる
昭和12年 (1937) 2月 鳩山一郎らとともに政友会の総裁代行委員に就任
昭和13年 (1938) 6月 第1次近衛内閣の鉄道大臣として初入閣
3月 政友会顧問となる
昭和14年 (1939) 4月 政友会の分裂により中島が第8代目総裁となる
昭和15年 (1940) 7月 政友会(中島派)は新体制運動により解党
10月 大政翼賛会に合流し参議に就任
昭和16年 (1941) 中島飛行機の一式戦闘機が陸軍に正式採用
昭和17年 (1942) 2月 翼賛政治体制協議会の顧問となる
昭和20年 (1945) 8月 終戦直後、東久邇宮内閣で軍需大臣および商工大臣として敗戦処理にあたる
12月 GHQよりA級戦犯に指定されたが、病気を理由に中島飛行機三鷹研究所内の泰山荘(※)で自宅拘禁扱いとなる
昭和24年 (1949) 10月29日 脳出血のため泰山荘にて亡くなる、享年65















































泰山荘(たいざんそう)
三鷹研究所は昭和16年(1941)12月、中央線をこえて武蔵野製作所の南側の約60万坪も用地を確保して着工した。この研究所は当初の計画では総合的な研究機関となる予定であったが、実際にはエンジンや機体の試作だけにとどまった。昭和25年(1950)に泰山荘を含む大部分の用地(約55万坪)を国際基督教大学 (ICU) に売却した。現在、泰山荘は大学で管理されており、ICUの学園祭で泰山荘の見学ツアーがあり実際に見たことがある。
(図:「知られざる軍都 多摩・武蔵野を歩く」洋泉社)
三鷹研究所地図

機体組立専門工場の概要

製作所名 太田 小泉 宇都宮 半田
所在地 群馬県新田郡太田町 群馬県邑楽郡小泉町 群馬県宇都宮市 愛知県半田市
生産年度 1939年~1945年 1941年~1945年 1944年~1945年 1944年~1945年
生産機種 (陸軍)・九七式戦闘機
・一式戦闘機「隼」
・重爆撃機「吞龍」
(海軍)・九七式艦攻
・零戦・二式水戦
・夜間戦闘機「月光」 
(陸軍)
・一式戦闘機「隼」など
(海軍)
・艦攻「天山」
・艦偵「彩雲」
生産機数 10,506 8,907 727 1,357

合計生産機数:21,664 (生産機数:「中島飛行機の研究」高橋泰隆/日本経済評論社)
小泉製作所 小泉製作所
(写真:「不滅の零戦 生きつづける名戦闘機」丸編集部/光人社)

原動機専門工場の概要
武蔵野製作所:昭和13年(1938)4月に陸軍用発動機工場として完成
多摩製作所:昭和16年(1941)11月に海軍用発動機工場として完成
武蔵製作所:昭和18年(1943)11月に武蔵野と多摩の両製作所を統合し名称を「武蔵製作所」に改め陸海軍発動機生産を一元化。
陸軍用の武蔵野製作所は東工場、海軍用の多摩製作所は西工場と呼ばれるようになる。
製作所名 武蔵野 多摩 武蔵 大宮 浜松
所在地 東京府北多摩郡武蔵町 東京府北多摩郡武蔵町 東京府北多摩郡武蔵町 埼玉県大宮市 静岡県浜松市
生産年度 1939年~1943年10月 1941年~1943年10月 1943年11月~1945年 1945年 1945年
生産基数 12,437 9,414 18,660 1,311 353

1939年(昭和14年)から敗戦までの間に4万以上の原動機を生産した。(生産基数:「中島飛行機の研究」高橋泰隆/日本経済評論社)

武蔵製作所への大空襲
昭和19年(1944)11月1日、5日、7日と連続してB29の1機が武蔵製作所を偵察飛行した。高度1万メートルから詳細な空中写真が撮られていた。
第1回目:11月23日に第20空軍のB29の大編隊が武蔵製作所を目標に飛来した。この時の被害は、死亡57名に負傷75名の計132名であった。
第2回目:12月3日、死亡60名 負傷21名の計81名
第3回目:12月27日、死亡8名 負傷40名の計48名
第4回目:昭和20年(1945)1月9日、死亡6名 負傷8名の計14名
第5回目:2月17日、死亡80名 負傷115名の計195名 米海軍第5艦隊の艦載機が60機以上飛来し急降下して爆弾を投下の後に舞い上がってから機関砲と機銃を撃ちまくった為に最大の被害となった。さらに機械工場の工作機械172台も破壊された。
第6回目の空爆:4月2日、死亡3名 負傷2名の計5名
第7回目の空爆:4月7日、死亡3名 負傷2名の計5名
第8回目:4月12日、死亡1名 負傷1名の計2名
第9回目:8月8日、死亡4名 負傷3名の計7名
合計9回の空爆:死亡220名 負傷266名の計488名
(写真・図: ①②は「戦闘機大百科 第二次大戦編」アルゴノート社、③④は「武蔵野から伝える戦争記録体験集」平成24年度 武蔵野市、⑤は「知られざる軍都 多摩・武蔵野を歩く」洋泉社)
①爆撃機・ボーイング B29 スーパーフォートレス
②戦闘機・ノースアメリカン P-51 マスタング



③武蔵製作所・工場配置図 ④武蔵製作所・被弾図
⑤武蔵製作所地図

海軍の航空機(零戦など)の完成組立をしていた小泉製作所も昭和20年(1945)に二度空襲を受けた。
2月25日 アメリカ海軍機による空襲
4月3日 B29による空襲

糸川英夫(いとかわ ひでお)
彼は東大工学部航空学科を卒業後の昭和10年(1935)に中島飛行機に就職し、陸軍の一式戦闘機「隼」などの設計をした航空機エンジニアであった。戦後、東大の教授に就任し、ペンシルロケットの開発などで「日本の宇宙開発・ロケット開発の父」と呼ばれ大きな功績を残した。
中島飛行機には技術関係の研究誌の「中島研究報告」があった。第1巻第1号は昭和11年(1936)に発行され、昭和18年(1943)10月の第7巻第5号が最終号だった。執筆者はすべて中島飛行機の社員や技術者あるいは関係者であった。糸川英夫も昭和14年(1939)3月の第4巻第1号と同3号に「横及び方向の安定性及び操縦性」という論文を載せている。

中島飛行機の戦後
戦後処理命令により富士産業に改称。さらにGHQから4大財閥に準ずるものとして財閥解体命令を受け12社に分けられた。
昭和27年(1952)、富士精密工業(中島飛行機荻窪工場が母体)は立川飛行機(中島飛行機から隼などの生産を請け負っていた)と提携しプリンス自動車を設立した。プリンス自動車はスカイラインなどの名車を生み出したが、その後 日産自動車に買収された。
昭和28年(1953)、富士工業(太田、三鷹工場)を中心としてグループ5社が出資し富士重工業が誕生し自動車(スバルなど)を生産。
平成29年(2017)、富士重工業は(株)SUBARU に社名変更した。

あとがき
中島飛行機の原動機工場のあった武蔵野市は隣の市であり吉祥寺へは時々行くので中島飛行機には前から関心があった。さらに、三鷹市に中央研究所があったがその大部分は現在 国際基督教大学や附属高校になっていてウォーキングコースの野川公園の隣りにある。武蔵野市は非核宣言都市であり戦争を風化させないために時々 図書館などで戦争に関する展示会を行っている。
主な参考文献
・「中島飛行機の研究」高橋泰隆/日本経済評論社
・「軍用機の誕生 日本軍の航空戦略と技術開発」水沢光/吉川弘文館
・「日本の飛行機王中島知久平」渡部一英/光人社文庫
・「不滅の零戦 生きつづける名戦闘機」丸編集部/光人社
・「知られざる軍都 多摩・武蔵野を歩く」洋泉社
・「武蔵野から伝える戦争体験記録集 第Ⅰ~第Ⅲ集」武蔵野市
・「中島飛行機武蔵製作所物語 季刊むさしの 昭和の武蔵野・番外編より」武蔵野市
・フリー百科事典「ウィキペディア」

center

Top Page


inserted by FC2 system