妻の母方の伯父、清水逸三(しみずいつぞう)、が海軍の第五期甲種飛行予科練習生(五甲飛)でオーストラリア北部のポートダーウィン上空で零戦を操縦中に空戦となり戦死している。
義母が亡くなった時に彼の写真や手紙が出てきたので当時のことを調べてみることにした。家族あての手紙が何通かあり、二人の妹(恭子と律子)を可愛がっていて二人へも手紙を書いている。
このホームページのタイトルを「零戦と伯父」とし、零戦ばかりでなく海軍航空機全般や飛行予科練習生(予科練)、伯父の所属していた第三航空隊などを調べ彼の足跡をたどってみることにした。
妻の伯父とその度に書くと煩雑なので文中では伯父とする。
項目
・海軍の航空機
・零式艦上戦闘機(零戦・ゼロ戦)
・海軍飛行予科練習生
・第三航空隊
・伯父の足跡
・亀井凱夫
・黒澤丈夫
・特攻
・予科練平和記念館
・雄翔園・雄翔館
・あとがき


海軍の航空機
陸軍と違い海軍は主に洋上を飛び敵の艦船や基地・施設を攻撃するために航続距離が長かった。しかし、戦争後期になると本土防衛のために多くの戦闘機(局地戦闘機)も生産された。大別すると次の通り
・戦闘機 / ①艦上戦闘機、②水上戦闘機、③局地戦闘機、④夜間戦闘機
・爆撃機 / ⑤艦上爆撃機、⑥陸上爆撃機
・攻撃機 / ⑦艦上攻撃機、⑧陸上攻撃機
・偵察・哨戒機 / ⑨水上偵察機、⑩潜水艦搭載用水上機、⑪飛行艇、⑫艦上偵察機、⑬陸上偵察機、⑭哨戒機
・その他 / ⑮輸送機、⑯練習機艦上機:航空母艦(空母)に搭載し車輪がある。
艦載機:戦艦などに搭載しフロートがある。
陸上機:空母でなく陸上基地から運用する。

各用途ごとに代表的な機種を述べてみる。(写真:「日本軍用機事典 海軍篇 1910-1945」野原茂/イカロス出版)
戦闘機
①艦上戦闘機(艦戦):空母に搭載することを基本として設計されたが、戦争後半になると陸上基地での運用が多くなった。但し、陸上基地で使用する場合も名前は変えずに艦上戦闘機のままであった。
・九六式艦上戦闘機:太平洋戦争のときは旧式となり第一線からは姿を消しつつあった。
・零式艦上戦闘機:零戦とかゼロ戦と呼ばれて戦争全体を通じて主力戦闘機であった。空母だけでなく陸上基地でも活躍した。詳細は別の項目に述べる。
②水上戦闘機:陸上基地がなくとも海から飛び立てるようフロートをつけた戦闘機
・二式水上戦闘機:零戦にフロートをつけた戦闘機。水上戦闘機でありながら性能もよく戦争前半に活躍した。
・強風:二式水上戦闘機の後継機。使用された時は水上機が活躍する戦況ではなかった。
③局地戦闘機:陸上基地で使用され、基地の防衛当たる戦闘機。戦争後期になると本土防衛のため多く生産された。
・雷電:爆撃機のエンジンを搭載したため機体が大きい。戦争後期には 米軍爆撃機のB29の撃墜にも使われた。
・紫電:水上戦闘機の強風を改造した。中翼構造で脚が長いため離着陸が不安定で故障も多かった。
・紫電改(紫電21型):紫電を改良した機体。戦争後期に活躍した。
④夜間戦闘機:夜間に爆撃機を撃墜することを主とした戦闘機。
・月光:最初、二式陸上偵察機として採用されたが、後に爆撃機を迎撃する夜間戦闘機として活躍した。
①零式艦上戦闘機 ②二式水上戦闘機 ③局地戦闘機・雷電 ④夜間戦闘機・月光

爆撃機・攻撃機
⑤艦上爆撃機(艦爆):空母での運用を主として爆弾を搭載し急降下爆撃をする。
・九九式艦上爆撃機:太平洋戦争初期に大きな戦果をあげた。特にインド洋作戦では大活躍した。爆弾:370kg 乗員:2名
・彗星:高性能だが生産性が悪く、エンジンが液冷のため稼働率も低かった。
⑥陸上爆撃機:急降下爆撃ができて零戦並の速さと一式陸上攻撃機並みの航続距離を持ち雷撃の性能を求めた爆撃機。
・銀河:陸上爆撃機という新しい機種で要求特性を求め過ぎたために構造が複雑で稼働率が低かった。魚雷/爆弾:800kg 乗員:3名
⑦艦上攻撃機(艦攻):空母での運用を主体とし魚雷による攻撃をする。
・九六式艦上攻撃機
・九七式艦上攻撃機:日中戦争が始まると陸上基地部隊の所属機として中国大陸で活躍した。太平洋戦争開戦時のハワイ真珠湾攻撃では空母に搭載され雷撃や爆撃で米海軍・太平洋艦隊の戦艦群を壊滅させた。魚雷/爆弾:800kg 乗員:3名
⑧陸上攻撃機(陸攻):陸上基地からの運用
・九六式陸上攻撃機
・一式陸上攻撃機:九六式陸攻の後継機。双発機ながら最大速度(444km/h)や航続距離(4,290km)は四発機並みの性能であった。マレー沖海戦で活躍した。しかし、高性能を実現するために防弾装備がされてなく被弾すると簡単に火だるまとなり、米軍からはワンショットライターと呼ばれた。
魚雷/爆弾:800kg 乗員:7名
⑤九九式艦上爆撃機二二型 ⑥陸上爆撃機・銀河一一型

⑦九七式一号艦上攻撃機 ⑧一式陸上攻撃機
偵察機・哨戒機
⑨水上偵察機(水偵):空母以外の艦艇に搭載し、水上から離着水する。
・九五式水上偵察機:日中戦争中、敵の戦闘機を撃墜したほど運動性能は抜群だった。戦艦や巡洋艦への搭載機、さらに陸上基地部隊の主力機として太平洋戦争初期に活躍した。爆弾:60kg 乗員:2名
・零式水上偵察機:昭和14年(1939)11月の本機の就役により日本海軍の目として索敵・哨戒能力は一段と向上した。爆弾:250kg 乗員:3名 (操縦員、偵察員、無線/銃手)
⑩潜水艦搭載用水上機:狭い潜水艦に収容できるように小型で折り畳めるる構造だった。
⑪飛行艇:海面から飛び立ち、長時間の哨戒活動ができた。
・九七式飛行艇
・二式飛行艇:九七式飛行艇の後継機。戦争後期は特別攻撃隊の誘導や沖縄方面の米海軍艦隊への夜間哨戒任務が主となった。世界最高水準の四発飛行艇だったが、制空権のない空域で昼間行動は困難となりその性能を生かせなかった。魚雷/爆弾:2,000kg 乗員:10名
⑫艦上偵察機:
⑬陸上偵察機(陸偵):陸上基地から発進する。
・九八式陸上偵察機:陸軍の使っていた九七式司令部偵察機(司偵)を海軍仕様に改めた。昭和15年(1940)9月、重慶(中国)上空で新鋭の零戦が空中戦で勝利したのも九八式陸偵が事前に敵戦闘機の動きをつかんで情報を零戦隊に知らせた。乗員:2名
⑭哨戒機:
⑨零式水上偵察機一一型 ⑪二式飛行艇一二型 ⑬九八式陸上偵察機
その他
⑮輸送機:ダグラス社(米国)のDC-3輸送機を軍用に転用し国産化した。5機分の部品と材料を輸入し昭和飛行機で5機を組み立てた。その後、金星四三型発動機を搭載した国産の第1号機が昭和16年7月に完成した。零式輸送機は半官半民の「大日本航空会社」が海軍の委託を受け定期輸送を行った。乗員:5名 乗客:21名
⑯練習機:練習機用の航空機。
・三式初歩練習機
・九三式陸上中間練習機:需要が拡大するなかで、生産は海軍機メーカー7社を動員し大規模に行われ海軍練習機市場を独占した。練習航空隊で日常的に飛んでいて国民にも広く知られ、練習機用として目立つようオレンジ色に機体が塗られていたことで赤トンボの通称名で親しまれた。乗員:2名
⑮零式輸送機二二型 ⑯九三式陸上中間練習機


零式艦上戦闘機(零戦・ゼロ戦)
開発の背景
九六式艦上戦闘機と同じく敵の戦闘機や爆撃機、攻撃機から味方の艦隊を援護する戦闘機として開発される予定だった。しかし、敵を先制攻撃する味方の爆撃機や攻撃機を援護する戦闘機が必要な時代となった。
昭和12年(1937)に海軍より正式に三菱重工業へ「十二試艦上戦闘機」(じゅうにし かんじょうせんとうき / 零式艦上戦闘機の試作名)の開発を指示した。このために速度・上昇力・空戦性能の向上、さらに航続距離を長くする要求も出た。
三菱の主務設計者は堀越二郎(ほりこし じろう)であった。彼は日中戦争期の主力戦闘機である九六式艦上戦闘機の設計も務めたが、「十二試艦上戦闘機」に要求された航続力は彼の常識を超えるものであった。彼は海軍から要求された高性能を実現するために徹底した軽量化を図り、主翼骨格に住友金属が開発した新合金「超々ジュラルミン」を使用するなどした。
昭和14年(1939)4月、試作機の1号機が完成した。しかし、2枚プロペラによる振動発生があり3枚プロペラに変更された。1号機と2号機は三菱製の「瑞星」一三型発動機(875馬力)であったが、3号機からは中島飛行機が航空技術廠(海軍の航空技術部門)と共同開発していた中島製の「栄」一二型発動機(940馬力)にして性能向上も確認できたので中島製「栄」発動機を搭載することになった。昭和15年 (1940)7月に零式艦上戦闘機として正式採用された。
昭和15年(1940)9月13日、中国空軍戦闘機隊と初の空中戦を行いその多数を撃墜または撃破した。
(写真:①③は「軍用機の誕生 日本軍の航空戦略と技術開発」水沢光/吉川弘文館、②は「不滅の零戦 生きつづける名戦闘機」丸編集部/光人社)
①九六式艦上戦闘機 ②十二試艦上戦闘機

名称と機体略号
陸海軍の航空機の命名法として制式名称と機体略号があった。
制式名称は「年式 + 機種名」で呼び、機体略号は用途記号や計画番号、試作・生産会社の記号などがある。
零戦の場合は次の通り。
制式名称:零式艦上戦闘機一一型、二一型、三二型、二二型、五二型。
採用は昭和15年 (1940) であり神武紀元で2600年にあたるためにその下1桁をとって「零式」となる。九六式は神武紀元2596年(昭和11年、1936年)が正式採用なので下2桁をとって「九六式」。試作機の段階で名称は「十二試艦上戦闘機であり昭和12年(1937)に海軍より正式に計画提示があった。漢数字の10の位は機体の改造度合いを、1の位は発動機の換装度合いを示す。従って、最初の生産型は一一型となり、機体を改造したり発動機を換装すると漢数字がそれぞれ次の数字となる。
機体略号:一一型は A6M2であり、Aは機種別記号であり艦上戦闘機を、6は6番目に計画、Mは試作・生産会社の記号で三菱なのでM、2は機体・発動機の2番目の変更を示す。
機種別記号:A/艦上戦闘機、B/艦上攻撃機、C/艦上偵察機、D/艦上爆撃機、G/陸上攻撃機、H/飛行艇、K/練習機、L/輸送機 
試作・生産会社:A/愛知航空機、G/日立航空機、K/川西航空機、M/三菱重工業、N/中島飛行機、P/日本飛行機、Si/昭和飛行機工業

性能
出力:940馬力 (1,200馬力)、全重量:2,336kg (3,176kg)、最大速度:時速534km (531km)
航続距離:※2,220km (1,360km)、武装 (口径 x 数):20mm x 2 + 7.7mm x 2 (12.7mm x 6)
( ):米海軍の戦闘機F4F-ワイルドキャットの性能、※:落下タンクを追加すると3,500km になる。
①零戦 ②F4F ワイルドキャット

特徴
同時期に開発されたワイルドキャットと比べ、2割以上低い出力にもかかわらず他の性能は高い。これは全重量(全装備重量)をワイルドキャットの75%以下に抑えたためである。しかし、重量を軽くするために敵弾から操縦員や燃料タンクを守る防弾装置を施さなかった。

エンジン(発動機)
航空機の心臓とも言えるエンジンはその性能によって航空機の運命を左右するとも言える。日本は欧米と違う工業力を前提にエンジンの冷却方式を空冷とした。零戦の場合、基本的には中島飛行機の「栄(さかえ)」と呼ばれるエンジンが搭載されていた。三菱もエンジンは製造していたが、中島に比べ歴史が浅く、エンジン工場も小さく戦闘機用のエンジンではあまり実績がなかった。一方、中島はエンジンの製造で十分な実績と評価を得ていた。特に「栄」は、中島が航空技術廠(海軍の技術部門)と共同開発していたエンジンであった。

生産
日中戦争後期から太平洋戦争全期にわたり使用され、日本海軍機では最大となる1万425機が生産された。設計が三菱なので零戦は三菱のイメージが強いが、中島も機体をライセンス生産していて生産機数は中島の方が6,545機と三菱の3,880機より多かった。

型式
5種類の主要なタイプがあった。
・一一型:最初の生産型、当初は零式一号艦上戦闘機一型と呼んだ。戦争初期に最も活躍した。エンジン「栄12型」940馬力
・二一型:当初は零式一号艦上戦闘機二型と呼んだ。一一型を空母へ搭載するために翼端を折り畳む様に改良した。エンジン「栄12型」
・三二型:速度の向上を目指してエンジンを「栄21型」1,130馬力に換え翼端を切断し角型にした。航続力が二一型より劣った。
・二二型:三二型の航続力不足を解決するために両翼に燃料槽を増設した。翼端の切断部を折り畳みに戻した。エンジン「栄21型」
・五二型:兵装や高速化、横転性能が向上した零戦の完成型。翼端は丸型。各種の改良型(甲・乙・丙)があり戦争後期の主力で最も多く生産された。
(写真:「不滅の零戦 生きつづける名戦闘機」丸編集部/光人社)
一一型 二一型 三ニ型

二二型 五二型

5種類以外にも四一型や五四型、六二型など試作されたが敗戦となり量産はされなかった。

空中戦
真珠湾攻撃以来、日本軍は連戦連勝であった。零戦の活躍も華々しかった。当時の連合軍(米軍主体)の戦闘機は、グラマンF4FワイルドキャットやカーチスP39、カーチスP40などだった。しかし、空戦性能(速度や宙返り、旋回、20ミリ機銃など)に優れる零戦と一対一では闘えなかった。「ドッグファイト(一対一の空中戦)の禁止」や「零戦が高い位置から攻撃してきたら急降下して逃げる」というのが連合軍航空隊の決まり事ごとだった。
グラマン F4F ワイルドキャット カーチス P-40 ウォーホ-ク

昭和17年(1942)7月、米軍はアリューシャン列島の島に不時着した零戦二一型を復元して米軍の戦闘機と模擬空戦を繰り返して零戦の弱点を徹底的に調べた。それにより零戦との戦法をジョン・サッチ少佐がマニュアル化して「サッチ戦法(サッチ・ウィーブ)」として広めた。上空から機銃の全門一斉射撃で一撃を加えたのち、この先行機をおとりにして零戦を誘い込み、僚機が零戦の背後に回り込んで撃ち落とす戦法とした。零戦は後継機の開発がうまくいかないまま終戦まで主力機だったが、一方、連合軍は新型戦闘機のグラマンF6FヘルキャットやロッキードP-38ライトニング、チャンスヴォートF4Uコルセアなどを使い始めたので零戦は性能面でもかなわなくなった。
グラマン F6F ヘルキャット ロッキードP-38 ライトニング チャンスヴォート F4U コルセア

連合軍によるコードネーム
連合軍は日本のすべての軍用機に独自のコードネームをつけ、一般的に戦闘機は男子名だった。
零戦 (A6M):Zeke ジーク
零戦 (A6M3/三二型):Hamp ハンプ(三二型はそれまでの二一型と違い翼端が角張っていた)
零戦が掩護した一式陸上攻撃機(一式陸攻)の場合、女子名で Betty ベティだった。


海軍飛行予科練習生(通称 予科練)
海軍航空機の操縦員・偵察員の養成
階級別に分かれていくつかの養成コースがあった。自分の階級に合ったいずれかのコースを必ず卒業しなければならなかった。次のように分類される。
コース 訓練生の呼び名 内容
士官コース 飛行学生
飛行予備学生
海軍兵学校の出身で航空部隊の現場で指揮する者を養成する
大学・高等学校・大学予科・専門学校の卒業生で選抜試験に合格した者
下士官コース 乙種飛行予科練習生(乙飛)
甲種飛行予科練習生(甲飛)
艦隊勤務を経ずに最初から候補生として募集した。
兵卒コース 操縦練習生(操練)偵察練習生(偵練)
丙種飛行予科練習生(丙飛)
一定期間の海軍勤務を経て海軍内の飛行科試験に合格した者
昭和15年(1940)に操練・偵練を丙種予科練習生に名称変更した。






※1)航空予備員制度があり有事の際に招集され軍務に服する予備員がいた。
士官コースには次の二種類あった。
・予備将校航空術講習員制度:東京と神戸の高等商船学校出身者を招集して操縦員や偵察員に充てた。しかし、一期と二期の合計23名とその後に飛行学生に編入された者6名だけで終了した。
・航空/飛行予備学生制度:大学や大学予科、高専に在学中の学生を招集した。
※2)予科練出身者でも経験や年数で士官になることが出来た。

予科練の受験
甲種予科練(甲飛) (旧制)中学校4年1学期終了 16~20歳 
昭和16年(1941):甲13期から中学校3年終了程度
昭和19年(1944):甲16期から中学校2年終了程度 15~20歳
乙種予科練(乙飛) 尋常高等小学校終了 15~17歳
昭和16年(1941):14~18歳へ緩和
丙種予科練(丙飛) 海軍下士官・兵士 23歳以下







その後、さらに次の2種類を増加した。
・乙種(特):乙種の中から年長者を中心に一定の条件を満たした者
・丙種(特):台湾や朝鮮半島出身の一般志願兵で選抜された者

予科練の志願者には、第一次選抜試験(学力試験)と、身体検査・適性検査・口頭試問などの第二次選抜試験が課せられた。

予科練の教育
学科:普通学と軍事学の二つ
普通学:国語・漢文・幾何・代数・物理・科学・地理・歴史・外国語など
軍事学:航空術・砲術・整備・通信術・航海術・運用術・機関術・水雷術・陸戦術・兵術軍制など
訓練:短艇(たんてい)・陸戦・体操・武技(剣道・柔道・銃剣術・水泳・相撲)・体技(闘球・排球・篭球・綱引)・通信・運用・航海など
軍人精神を体得させるための精神教育が毎週月曜日に各分隊長により精神訓話として行われた。

飛行適性検査
入隊してから1カ月後に海軍三等飛行兵に進級し、分隊ごとに操縦要員と偵察要員に進路を分けるために飛行適性検査が行われる。
検査内容
1.クレペリンテスト(一桁の数字の足し算を制限時間内に行い処理能力や性格的な特徴をチェックする検査)
2.身体検査
① 握力・背筋力・視力・肺活量など
② 眼球検査・斜視・視野の精密検査・視覚反応
③ 平衡検査:機器による静平衡や回転機による動平衡検査
④ その他:運動神経に関する検査や観察力・計算力などの検査
3.地上操縦練習機(リンクトレナー)による操縦感覚の試験
予科練習生たちの多くは操縦員を希望していたが狭き門であった。しかし、搭乗員の半数は航法を受け持つ偵察員に育てないと長距離飛行を主体とする多座機(複座以上、戦闘機以外の全機種)が作戦できなくなってしまう。
飛行適性検査後に操縦分隊と偵察分隊に再編成して教育が行われた。操縦専修は飛行機の構造や操縦装置、発動機の構造や機能、飛行機の操縦理論などを学びグライダーでの滑空訓練も行った。一方、偵察専修は航法や通信、天測、写真撮影、爆撃、射撃などを学んだ。

霞ヶ浦
大正5年 (1916)、現在の土浦市および阿見町の湖畔一帯に海軍の航空施設が建設され飛行場ができた。シベリアを横断した飛行船グラーフ・ツェッペリン号が昭和4年(1929)8月19日に霞ヶ浦の海軍の飛行場に来航した。ツェッペリン号はその後に太平洋を渡り最終目的地の米国の海軍航空基地に着陸した。
チャ-ルズ・リンドバーグ夫妻(無着陸大西洋単独飛行を初めて成功させた)が米国~カナダ~アラスカ~国後島~根室を経て昭和6年(1931)8月26日に霞ヶ浦の海軍飛行場を訪れた。(写真:「特攻隊の<故郷>霞ヶ浦・筑波山・北浦・鹿島灘」伊藤純郎/吉川弘文館)
霞ヶ浦に着水するリンドバーグ機

土浦海軍航空隊までの沿革(写真:「軍用機の誕生 日本軍の航空戦略と技術開発」水沢光/吉川弘文館)
・昭和4年(1929)12月、海軍省令により予科練習生の制度を設ける。
・昭和5年(1930)6月、第一期生が横須賀海軍航空隊に入隊。
・昭和11年(1936)12月、予科練習生から飛行予科練習生に改称。
・昭和12年(1937)9月、甲種予科練習生制度を設け、第一期生が入隊。従来の練習生は乙種予科練習生と名前を改められた。
・昭和14年(1939)3月、横須賀海軍航空隊の追浜基地が手狭となり、予科練の教育を霞ヶ浦海軍航空隊に移す。
・昭和15年(1940)11月、霞ヶ浦海軍航空隊から分離独立し予科練生教育専門の練習航空隊の土浦海軍航空隊を新設し予科練教育を開始。
・その後、日本各地に練習航空隊が設立され予科練教育を開始。
予科練教育を担当した練習航空隊は終戦までに全国で19隊を数えた。この中で土浦航空隊は歴史的な背景から「予科練揺籃の地」と言われた。
横須賀海軍航空隊 霞ヶ浦海軍航空隊 土浦海軍航空隊

練習航空隊
内容は次の通り。
年号 航空隊(海軍は省略) / 開隊日 ※補足
昭和5年 (1930) 横須賀航空隊 / 6月1日
昭和14年 (1939) 霞ヶ浦航空隊 / 3月1日 ※横須賀より移動
昭和15年 (1940) 土浦航空隊 / 11月15日 ※霞ヶ浦より独立 ※昭和20年(1945)6月 航空特攻要員教育に変更
昭和16年 (1941) 岩国航空隊 / 11月28日
昭和17年 (1942) 三重航空隊 / 7月30日 ※土浦より一部移動
昭和18年 (1943) 鹿児島航空隊 / 4月1日
美保航空隊 / 10月1日
松山航空隊 / 10月1日
昭和19年 (1944) 福岡航空隊 / 6月1日
滋賀航空隊 / 8月15日 ※三重より一部移動後改組
三沢航空隊 / 9月1日 ※土浦より一部移動
清水航空隊 / 9月1日 ※土浦から一部移動
小松航空隊 / 9月1日 ※美保より一部移動
小富士航空隊 / 10月1日 ※鹿児島より一部移動改組 ※昭和20年(1945)6月 水上水中特攻要員教育に変更
瀬戸航空隊 / 11月1日 ※松山より一部移動
倉敷航空隊 / 11月1日 ※三重より一部移動 ※昭和20年(1945)6月 水上水中特攻要員教育に変更
昭和20年 (1945) 奈良航空隊 / 3月1日 ※三重より一部移動後改組 天理教の宿舎を兵舎とした
高野山航空隊 / 3月1日 ※三重より一部移動後改組 高野山の宿坊を兵舎とした
宝塚航空隊 / 3月1日 ※滋賀から一部移動改組
西宮航空隊 / 3月1日 ※三重より一部移動
宇和島航空隊 / 3月1日 ※松山より一部移動改組
























七つボタン
予科練志望者の憧れであった「七つボタン」だが当初は水兵服であった。甲種三期生は水兵服に不満を持ち海軍兵学校生徒のような七つボタンに短剣の制服の要求を出した。この結果、短剣は認められなかったが昭和17年(1942)11月1日に「七つボタン」の制服が誕生して、甲種は第八期生からこれを着用するようになった。その後は予科練の代名詞となった。伯父は甲種五期生でありこの制服ではなかった。

若鷲の歌(わかわしのうた)
別名「予科練の歌」は戦意高揚映画「決戦の大空へ」の主題歌として作られた。作詞の西城八十と作曲の古関裕而は土浦海軍航空隊へ一日入隊してこの時の体験をもとに作詞と作曲をした。古関は長調と短調の二つのメロディを作曲したが、予科練生に直接聴いてもらい多数決により短調が選ばれた。昭和18年(1943)9月10日に霧島昇と波平暁男の歌によりレコード発売され大ヒットとなった。映画「決戦の大空へ」は昭和18年(1943)9月16日に公開され藤山一郎が歌い原節子も出演している。原節子は予科練生が週末に遊びに行く一般の家(倶楽部と呼ばれた)にいる姉役。土浦海軍航空隊が撮影に全面的に協力し主題歌「若鷲の歌」とともに予科練を一躍有名にした。

予科練卒業後の訓練
飛行練習生教程
(写真:「特攻隊の<故郷>霞ヶ浦・筑波山・北浦・鹿島灘」伊藤純郎/吉川弘文館)
霞ヶ浦上空を飛ぶ九三式中間練習機
予科練を卒業した操縦専修生のうち陸上機は谷田部(やたべ)航空隊(後から百里原航空隊・筑波航空隊も加わわる)で、水上機は鹿島航空隊でそれぞれ飛行練習生教程(略称:飛練)(ひれん)に進み教育を受けた。一方、偵察専修生は鈴鹿航空隊で同じく飛行練習生教程(飛練)の教育を受けた。
陸上機の操縦専修生は九三中練(九三式中間練習機・通称 赤トンボ)の前席に、教官もしくは教員が後席に座り訓練を行った。教官は准士官以上で教員は予科練出身の下士官が多かった。教官(教員)との同乗飛行を終えるといよいよ単独飛行となる。編隊飛行、夜間特殊飛行、無視界飛行や作戦行動などの訓練が続いた。谷田部航空隊の操縦専修生は、卒業飛行で霞ヶ浦飛行場へ飛んだ。3個中隊27機編成で移動訓練を行い霞ヶ浦飛行場へ着陸。帰りは教官が操縦し専修生は後席でお客さんだった。
実用機教程
飛行練習生教程(飛練)の教育を終えると実用機教程が始まる。陸上機の操縦専修生は機種別(戦闘機や攻撃機、爆撃機)に進路を分けられた。戦闘機は大分航空隊、艦爆(艦上爆撃機)・艦攻(艦上攻撃機)・中攻(九六式陸上攻撃機・一式陸上攻撃機)は宇佐航空隊でそれぞれ訓練を受けた。一方、水上機の操縦専修生は博多航空隊で訓練を受けた。
実用機教程を履修して一人前の搭乗員となる。やがてそれぞれ艦船部隊や基地部隊へ配属されて行く。

甲飛と乙飛
予科練はもともと甲も乙もなかった。昭和5年6月に横須賀海軍航空隊に一期生が入隊した。応募者5807人に対し、採用は79人であり73.5倍もの競争率であった。昭和12年9月に甲種飛行予科練習生(甲飛)制度を設けた為に従来の練習生は乙種飛行予科練習生(乙飛)と改められた。このようにして甲・乙という両制度ができてしまった。甲・乙という優劣を表す名前と甲飛の方が入隊後の昇進が早く、同年代だけに練習生の間で対立もあった。しかし、同時期に予科練教育や実機訓練を行った甲飛と乙飛は人によってはお互いに顔なじみにもなり結びつきもあったようだ。
倉町秋次著「予科練外史」によれば、乙飛十期生の大場晴夫は予科練時代の教官へ次のような手紙を出している。
「慌しく内地を発ってから一月半、漸く目的地に着きました。九期性も八期生も甲種の五期生も皆顔馴染が沢山居ります」昭和17年(1942)4月13日 台湾高雄海軍航空隊気付 海軍亀井部隊第七分隊
又、乙飛十期生の野口祐も次のような手紙を出している。
「私たちと甲飛五期が同クラスになって作業していますが仲よくやっていますから御心配くださらぬよう」昭和17年(1942)4月13日 台湾高雄海軍航空隊気付 海軍前原部隊第一分隊
伯父は甲種五期生であり昭和17年(1942)4月6日に高雄海軍基地経由でケンダリー基地(セレベス島)に着任している。亀井部隊第三分隊なので分隊は違うが大場晴夫と一緒だったことになる。

甲種第五期飛行予科練習生(甲五飛)
甲五飛は258人が入隊したが戦闘機(零戦)の搭乗員となった者は42人だった。
伯父と同じ零戦搭乗員だった同期生の二人を取り上げてみる。従って、二人とも予科練卒業後は伯父と同じく谷田部航空隊で飛行練習生教程を受け、さらに大分航空隊で実用機教程を受けた。
二人の戦場であったソロモン諸島(地図:「歴史群像シリーズ決定版太平洋戦争5」学研パブリッシングを加工)

辻野上 豊光(三重県出身)
昭和18年(1943)4月18日、山本五十六大将(連合艦隊司令長官)がブイン基地(ブーゲンビル島)やバラレ基地(ブーゲンビル島近くの島)の前線視察のためにラバウル東飛行場(ニューブリテン島)から一式陸攻の1番機に幕僚と共に乗り込んだ。2番機には宇垣纒中将(連合艦隊参謀長)が幕僚と一緒だった。護衛には零戦2個小隊の6機がついた。辻野上 豊光(一飛曹)は護衛する零戦の第1小隊2番機であった。米軍は山本長官の視察の暗号電文を事前に解読していてヘンダーソン基地(ガダルカナル島)からP-38ライトニング戦闘機18機が出撃した。出撃後に2機が故障のため基地へ戻ったが、16機はブーゲンビル島上空で一式陸攻2機を発見し攻撃した。零戦はP-38ライトニング戦闘機1機を撃墜したが、1機の一式陸攻を守っているともう1機の方が攻撃を受け、結局 山本長官の乗る1番機は撃墜されジャングルへ墜落し山本長官は戦死。2番機は被弾炎上し海上へ不時着し宇垣中将と幕僚1名、操縦員1名の3名は救助された。零戦の1機は山本長官と宇垣中将の陸攻2機が撃墜された直後にバラレ基地(ブーゲンビル島近くの島)へ着陸し報告した。残りの5機はブイン基地(ブーゲンビル島)に着陸し報告。その後、6機は合流しラバウル基地へ帰還した。この事件は後から「海軍甲事件」と呼ばれた。
(写真:ウィキペデア)
山本長官の激励

辻野上は同年5月に上飛曹に進級した。山本長官護衛の大任を果たせなかった6人はその後も過酷な戦場に出撃し、空戦中に右手首を失う重傷を負った柳谷飛兵長は内地へ送還された。辻野上は同年6月16日、ルンガ泊地(ガダルカナル島)を攻撃のときに米軍のF4Fワイルドキャット戦闘機の攻撃を受け被弾し重傷を負った。コロンバンガラ島へ不時着し日本軍の野戦病院へ担ぎ込まれたが、航空隊司令部ではなぜか未帰還扱いだった。同年7月1日にレンドバ島(ソロモン諸島)付近に現れた米軍の上陸輸送船団を攻撃のため第3小隊の小隊長として出撃しレンドバ島上空で約40機の敵機と空戦し戦死。最終階級は飛曹長。

本田 稔(熊本県出身)
昭和17年(1942)1月に第22航空戦隊司令部付戦闘機隊に着任。同年4月、鹿屋航空隊に配属、9月ラバウルへ進出。同年11月、鹿屋航空隊は第253航空隊に改称。昭和18年(1943)3月1日の「ダンピールの悲劇」を陸攻の掩護で出撃し目撃している。同年4月18日、ブイン基地(ブーゲンビル島)にいて山本長官来訪の準備を終えた後に山本長官護衛機の零戦5機が着陸。長官機が撃墜されたことを知った。着陸した零戦5機のうち辻野上とは甲五飛の同期生であり二人の胸中は複雑だったことだろう。内地へ移動するまでの10カ月間ソロモン航空戦を戦った。
昭和18年(1943)5月、大分航空隊に教官として着任。昭和19年(1944)4月、第361航空隊の第407飛行隊へ着任。同年12月、第407飛行隊は第343航空隊(防空戦闘機紫電改の戦闘機隊・通称 剣部隊)に編入される。昭和20年(1945)8月6日、本田稔少尉は姫路市の川西航空機で真新しい紫電改を受け取り、大村基地(長崎県)へ向けて飛び立った。広島市の街並みを眼下にしたときに大きな衝撃に突き上げられ紫電改は吹き飛ばされた。本田は機体を立て直して地上を見ると広島の街並みが消えていた。同年8月9日、長崎市へ原爆投下されたときに登山訓練中の山中で原爆投下を目撃した。
戦後、航空自衛隊へ入りパイロットの養成やテストパイロットを務める。昭和38年(1963)、航空自衛隊を退職し三菱重工業へ入社し戦後初の国産双発機MU-2のテストパイロットを務めた。(写真:ウィキペデア)

予科練出身者の戦死
予科練平和記念館のパンフによれば「15年間で約24万人が入隊し、うち約2万4千人が飛行練習生課程を経て戦地へ赴きました。なかには特別攻撃隊として出撃したものも多く、戦死者は8割の約1万9千人にのぼりました」とある。入隊者の全員が飛行練習生課程を終了したわけではなかった。それにしても飛行練習生課程を終え戦争に参加した若者が8割も戦死した。
入隊者数と戦死者数及び戦死率は「予科練の戦争 - 戦争を生き抜いた元少年航空兵たち」久山忍/光人社に各種別各期別に全て載っている。
種別の集計は次の通り。
種別 入隊者数 戦死者数平均戦死率
甲種(16期まで) 139,730人 7,114人 5%
乙種(24期まで) 87,531人 4,984人6%
丙種(17期まで) 7,362人 5,454人74%
特乙種(10期まで) 6,840人 1,348人20%
241,463人 18,900人8%
このうち昭和19年以降は大量の採用で入隊者数は全入隊者数の約73%、176,505人にもなる。

甲種の場合、伯父の5期生は入隊者258名のうち215名が戦死した。戦死率:83%
13期以降は採用数が非常に多く、13期(入隊日:昭和18年10月と12月)は2万8千人、14期(入隊日:昭和19年4月~10月)は4万8千人、15期(入隊日:昭和19年9月~11月)3万7千人、16期(入隊日:昭和20年4月~8月)は2万5千人であった。
この大量採用には次のような背景があった。
ソロモン諸島の戦闘で海軍航空隊の消耗が激しかった ⇒ その為に飛行機の搭乗員が大いに不足した ⇒ 乙種より養成機関が短い甲種の採用を急激に増やした
彼らは同時期の乙種や他の種も含めて飛行機に乗る機会が殆どなく一部は人間魚雷「回天」やベニア製の高速艇「震洋」などの特攻兵器に乗り組んで海底に散って行った。
沖縄戦が終わってからは本土決戦に備えて飛行機も搭乗員も温存し待機のままで終戦を迎えた。
戦死率は13期 4%、14期 1%、15期 0.8%、16期 0.5%であった。


第三航空隊(三空)第二〇二航空隊
陸上基地をベースとする基地航空隊と母艦(航空母艦)をベースとする母艦航空隊があった。海軍戦闘機隊は三つに分けられ、航空母艦(空母)搭載の艦船部隊、陸上基地の戦闘機部隊、水上基地の水戦部隊であった。
海軍戦闘機部隊の主力となっていたのは、空母、基地航空隊でありそれぞれ零戦であった。
太平洋戦争の開戦当初の海軍航空隊には地名をつけた常設航空隊と数字をつけた特設航空隊があった。地名のつく常設航空隊は固有の基地に留まる部隊であり、数字を冠したナンバー航空隊は勃発した戦争や事変など外戦の内容に応じて編成される部隊である。台湾の場合、高雄航空隊(陸攻部隊)は高雄基地が、台南航空隊(戦闘機部隊)は台南基地がそれぞれの基地であった。一方、第三航空隊のようにナンバーをつけた航空隊はベースとなる基地を持たず戦線とともに利用する基地を転々とした。

昭和16年(1941)(地図:「零式艦上戦闘機」清水政彦/新潮社)
12月8日の真珠湾攻撃はよく知られているが、同時期にフィリピン・ルソン島にある米空軍のイバ基地とクラーク基地を日本海軍が攻撃したことはあまり知られていないのではなかろうか。戦争を継続するために南方の資源確保は重要な課題であった。その為にもハワイの太平洋艦隊と同じようにフィリピンの米空軍は開戦と同時に排除すべき対象であった。
その準備として昭和16年9月から台湾南部にある台南基地に台南航空隊(台南空)を、高雄基地に第三航空隊(三空)の二つの戦闘機部隊を新たに編制した。
フィリピンの進攻に対して司令部は、零戦の航続力に疑問を持っていたので小型空母三隻に零戦を載せてフィリピン近海から発艦する計画を立てた。しかし、現場の指揮官たちから「空母でなくて台湾の基地から出撃したい」と要望が出た。
台湾の基地から出撃可能の根拠を出せと司令部から言ってきたので飛行長たちは零戦の燃費試験を行った。
その結果、片道926kmの長距離が可能で機体のタンクに520リットル、増槽に330リットルで合計850リットルの燃料が積めるので巡航速度で飛ぶだけなら約9時間半、約3500キロは飛べるデータを出した。これにより司令部は空母の使用を取りやめた。
出撃 航空隊 攻撃目標
高雄基地 第三航空隊 / 零戦 53機 ※1
高雄航空隊 / 一式陸攻 54機
鹿屋航空隊支隊 ※2 / 一式陸攻 54機
イバ基地、クラーク基地
クラーク基地
イバ基地
台南基地 台南航空隊 / 零戦 36機
第一航空隊 / 一式陸攻 27機、九六式陸攻 27機
クラーク基地
クラーク基地
※1:基地を発進後に2機が引き返す。1機は脚が収納できない故障、もう1機は機銃の不発故障
※2:本隊は12月16日の「マレー沖海戦」に参加

各陸攻隊が爆撃を終えて帰途につくと、三空の零戦隊は迎撃してきた敵の戦闘機(P-40)の10数機を撃墜し、さらにイバ基地に駐機中の20機以上を銃撃で炎上させた。三空の零戦隊の一部はそのままクラーク基地へ向かい、ここでも銃撃を加え地上の敵戦闘機や爆撃機(B-17) を炎上させた。
三空の零戦隊は午後5時10分までに高雄基地へ帰着した。零戦の損害は、三空で2機、台南空で5機の計7機が行方不明だった。
(写真:「闘う零戦 隊員たちの写真集」渡辺用洋二編集/文藝春秋)
高雄基地より出撃の三空・零戦 帰還後の祝い酒に寛ぐ三空・搭乗員たち

12月8日にルソン島の米軍基地を攻撃の後も何度も攻撃を繰り返し、12月25日からミンナダオ島のダバオ飛行場に進出した。伯父はケンダリー基地(セレベス島)に昭和17年4月6日に着任したのでフィリピンの攻撃には参戦していない。
蘭印(オランダ領東インド、現 インドネシア)方面の作戦は、第11航空艦隊の担当で戦闘機隊はフィリピンでの航空戦を終えた三空と台南空が配置されていた。ダバオを拠点とする三空はセレベス島(現 スラウェシ島)、ブル島・セラム島、チモール島、バリ島などの蘭印を担当することになった。輸送船団の上空を哨戒したり、セレベス島のメナドやケンダリー、セラム島のアンボンを偵察・攻撃した。

昭和17年(1942)
第三航空隊の戦闘区域 セレベス島

東部蘭印方面

1月中旬にメナドのランゴアン飛行場へ進出し、陸軍のアンボン攻略作戦を支援。さらに1月下旬にセレベス島のケンダリーにも進出した。
セレベス島とボルネオ島の制空権を確保した三空はジャワ島への進攻を開始した。
2月3日、バリクパパン飛行場(ボルネオ島)から敵の飛行艇基地のあるジャワ島のスラバヤを爆撃する高雄空の一式陸攻27機を掩護するために三空の零戦27機がバリクパパン飛行場を発進した。蘭・英・米の連合軍戦闘機編隊と空戦となり、数十機の航空機を撃墜大破(地上の飛行艇を含む)させた。
三空の損害は、4機(陸上偵察機1機と零戦3機)だった。
3月3日、豪州北部にあるブルーム基地とウィンダム基地を攻撃。
3月4日、豪州北部のポートダーウィンを爆撃する高雄航空隊の一式陸攻を護衛随伴のために出撃した。以後、高雄空の護衛および敵機迎撃に従事。
三空へも6月のミッドウェー海戦で「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」の4空母と372機の航空機、さらに多くの熟練の搭乗員も失うという大惨敗の情報は伝わってきた。
8月23日、ポートダーウィンを爆撃する高雄空の一式陸攻を護衛中に敵機と空戦になり中隊長を含む4機を失う。伯父はこのときの1機に乗っていて戦死(詳細は「伯父の足跡」の戦闘行動調書にある)。
9月17日、ガダルカナル島での戦闘の応援で21機をラバウルへ派遣、台南航空隊の下で防空に従事。
11月から各海軍航空隊(基地航空隊)と各特設航空隊(ナンバー航空隊)は3桁の数字(輸送機隊は4桁)の番号を割り当てられ改称した。
数字 百の位(航空機の種類) 十の位(所管鎮守府)一の位(常設・特設の別)
-横須賀鎮守府
偵察機 同上奇数:常設航空隊
艦上戦闘機 同上偶数 :特設航空隊
局地戦闘機呉鎮守府
水上偵察機同上
艦上爆撃機・艦上攻撃機佐世保鎮守府
艦載機同上
陸上爆撃機・陸上攻撃機同上
飛行艇舞鶴鎮守府
海上護衛同上
一〇 輸送機-












第三航空隊(三空)は艦上戦闘機部隊であり横須賀鎮守府の所管、特設航空隊であったので第二〇二航空隊(百の位:艦上戦闘機、十の位:横須賀鎮守府、一の位:特設航空隊)に改称した。台湾での戦闘機部隊として三空の兄弟航空隊であった台南航空隊は第二五一航空隊に、掩護した攻撃隊(一式陸攻)の高雄航空隊は第七五三航空隊にそれぞれ改称した。
第二五二航空隊がラバウルへ到着したので派遣されていた零戦は原隊へ戻った。

昭和18年(1943)
3月2日からポートダーウィンの爆撃を再開した一式陸攻を護衛随伴に従事。スピットファイアと初めての空戦。
9月20日、第十三航空艦隊の二十三航空戦隊に編入。

昭和19年(1944)
3月4日、第十四航空艦隊の二十二航空戦隊へ転籍。トラック島に転戦後、メレヨン島・ポナペ島・ペリリュー島に分散配置され防空に従事。
6月13日、あ号作戦(マリアナ諸島方面におけるアメリカ機動部隊への撃滅作戦)に参戦し壊滅。
7月10日、解隊。

五甲飛の同期生
三空・二〇二空に所属し戦死した同期生を甲飛戦没者名簿(海軍戦闘機搭乗員名簿)で調べたら次の通りだった。
・三空                          ・二〇二空
氏名 戦死年月日戦死場所
江口 正徳 17(1942)・8・21デーリー基地
川又 文五郎17(1942)・7・?クーパン基地
野津 吉郎17(1942)・9・29ガダルカナル
谷口 譲二17(1942)・10・3ガダルカナル
富田 正士17(1942)・10・3ガダルカナル
前田 直一17(1942)・10・25ガダルカナル
氏名 戦死年月日戦死場所
後藤 庫一 18(1943)・9・9ニューギニアメラウケ
酒井 國雄18(1943)・5・10ステワード島豪州
寺井 良雄18(1943)・9・7ポートダーウィン
徳岡 時寛18(1943)・5・9タクチント島



歴代司令
亀井凱夫大佐:昭和16年(1941)4月10日 - 昭和17年(1942)8月24日
梅谷薫大佐:昭和17年(1942)8月25日 - 昭和17年(1942)10月4日
岡村元春中佐:昭和17年(1942)8月25日 - 昭和18年(1943)9月14日
内田定五郎中佐:昭和18年(1943)9月15日 - 昭和19年(1944)3月15日
根来茂樹中佐:昭和19年(1944)3月16日 - 昭和19年(1944)7月10日解隊


伯父の足跡
履歴の調査
旧軍人軍属の履歴を調べるのに海軍の場合は厚生労働省、陸軍の場合は各都道府県庁が窓口となる。伯父は海軍であり厚生労働省へ調査を申し込んだ。
申請者は故人の三親等以内なので妻が申請者となったが、妻が結婚後に姓が変わった書類も必要だった。
窓口:厚生労働省 社会・援護局 援護・業務課 調査資料室
必要な書類
①旧軍人軍属の個人情報開示申請書 x 1通
②申請者の本人確認ができる書類:本人の住民票 x 1通
③遺族であることを証する書類
1)伯父と申請者の母親との関係がわかる戸籍謄本(原本)x 1通 
2)申請者と母親の関係がわかる戸籍謄本(原本)x 1通
3)申請者が結婚後に姓が変わったことがわかる戸籍謄本(原本)x 1通
④調査対象者の死亡年月日が確認できる書類 x 1通
申請してから3カ月後に次のような回答があった。
1.履歴について:当課保管の旧海軍から継承した人事記録(死没者調査票、功績調査票、功績審査票)の写しを、別添のとおり添付します。
2.戦没状況について:第三航空隊附としてクパン航空基地(インドネシア)に転進し勤務のところ、豪州方面(ダーウィン)攻撃隊援護任務のため、昭和17年8月23日 零式艦上戦闘機を操縦中に敵戦闘機と交戦、消息不明となり、同日戦死したものと認定されております。

足跡
伯父の戦闘行動は飛行機隊戦闘行動調書により分かっていたが、各航空隊への移動の日にちが分からず苦労した。しかし、個人情報が開示されたことにより予科練から各海軍基地航空隊への移動の詳細が判明した。
さらに伯父の兵籍番号が横志飛第1737號と分かった。
「横」:横須賀鎮守府、「志」:志願兵、「飛」:飛行兵
鎮守府は他に「舞」:舞鶴鎮守府、「呉」:呉鎮守府、「佐」:佐世保鎮守府
徴兵の場合は、「徴」
兵科は他に「水」:水兵、「機」:機関兵、「整」:整備兵、「工」:工作兵

年号 出来事
大正10年
(1921)
9月17日 誕生
昭和14年
(1939)
10月1日 第五期甲種飛行予科練習生(五甲飛)として霞ヶ浦海軍航空隊へ入隊
11月1日 海軍三等航空兵
11月16日 海軍二等航空兵
12月1日 海軍一等航空兵
昭和15年
(1940)
11月15日 霞ヶ浦海軍航空隊から土浦海軍航空隊へ転隊 
※予科練生教育専門の土浦海軍航空隊が新設された
昭和16年
(1941)
3月31日 予科練を卒業
4月1日 第15期飛行練習生(略称・飛練)・操縦専修生として谷田部海軍航空隊へ転出
5月1日 海軍三等航空兵曹
6月1日 海軍三等飛行兵曹(三飛曹) ※航空兵科が飛行兵科に改称された
9月25日 谷田部海軍航空隊での操縦基礎訓練を終了し実用機訓練のため大分海軍航空隊へ転出
12月8日 太平洋戦争始まる
昭和17年
(1942)
1月27日 大分海軍航空隊での実用機訓練を終了し横須賀海軍航空隊へ転出
3月30日 第三航空隊に配属される
4月4日 官用飛行機便にて高雄基地経由でケンダリー基地(セレベス島)に着任
5月1日 海軍二等飛行兵曹(二飛曹)
7月15日 ポートダーウィン偵察 / 九八式陸上偵察機 x 1機、零戦 x 4機中の1機に搭乗
7月16日 コロノダレ、ポソ湖付近索敵攻撃 / 第一偵察攻撃隊 零戦 x 2機中の1機に搭乗
7月30日 ポートダーウィン攻撃隊掩護 / 零戦 x 27機中の1機に搭乗
8月23日 ポートダーウィン上空制圧 攻撃隊掩護 / 零戦 x 27機中の1機に搭乗 空戦後未帰還
8月23日 海軍一等飛行兵曹(一飛曹)
飛行練習生時代

南方の基地にて






手紙
彼は家族へ何通か手紙を出している。封筒の裏にその時に所属した部隊名が書いてあるが、最後の手紙には「高雄海軍航空隊気付 亀井部隊三分隊」とある。
後で調べて分かったのだが、南方を含め外地にいる航空隊と内地との手紙類のやり取りは一度 各航空隊の母基地が窓口となる。
第三航空隊の場合、母基地は高雄海軍航空隊なので高雄で郵便物を仕分けられて各部隊へ輸送船か航空機で届けられた。

彼から家族宛の手紙・葉書 の一部は次の通り。
①消印:昭和16年2月1日 家族への手紙
発信地:土浦航空隊11分隊1班
今日は、飛行場でグライダーの飛ぶのを見ました。初め飛行機に曳航され、高度1500m位迄上がり綱を外してユウユウと飛んでゐました。青く澄んだ空にまるで紙の飛行機の様に軽やかに、スイスイと自由自在に空で遊んいでいました。クルリと見事に宙返りしたと思ふと反転、横転をしながら次第次第に降りてきました。一寸 羨ましい感じがしました。が、もうすぐで飛行機に乗れると思ふと何だか嬉しいい様な怖い様な気がします。本日、陸上班か水上班か希望を出しましたが、私は陸上班を希望致しました。陸上班は航空母艦に乗るのです。もつと簡単に言えば、車輪のついた飛行機に乗るのです。水上班はフロート いわゆる下駄履の飛行機に乗るのです。戦闘機、爆撃機、攻撃機 何れも車輪の飛行機です。私は攻撃機に乗りたいと思ってゐます。寒稽古も終わりました。知らないうちに休暇から早一ケ月を経てしまひました。明日は武技の競技です。私は柔道の選手に選ばれました。一生懸命やつて勝ちますよ。又、昨日よりお汁粉屋が出来ましたが、一週間に二度しか食べれないのです。でも、今晩は食べられる日だつたので、四杯食べました。久し振りのお汁粉 とてもおいしかつたです。もう二杯位食べたいでした。お腹の具合はとてもよく、近頃余り腹の痛くなる様なことはありません。大分 生活に慣れ食べる事に慣れた故もありませう。又、二月に入つてから寒くなると云ふ話です。御両親様も充分注意して体を御大切に無理をなさらない様に呉々も。私は至つて元気です。今夜、難問の試験が有りましたが、あまり香しいことはなかったです。
今夜は雲間より新月が細くのぞいています。星は降る様に・・・・ 又、明日も良い天気でせう。










②消印:昭和16年2月23日 父への葉書
発信地:土浦航空隊11分隊1班
父上 その後お体は如何ですか。私は非常に元気です。父上も治りかけカケが大事なのですから「ダイジョウブダ」なんて言はずにお母さんの言うことをよく聞いて養生して下さい。もう三十何日かで卒業です。追々 卒業試験も一つ減り二つ減りしてゆき、すぐ卒業です。もう残る課業も殆ど整備です。休みに一寸話した来浦は駄目でせうね。お父さんが悪くちゃ東京へ出るなんてできませんからね。では くれぐれもお体に気を付け無理なさらぬ様に。皆にもよろしく、風邪を引かぬ様。私は一度もカゼのカの字も引きません。




③消印:昭和16年5月8日 母への葉書
発信地:谷田部航空隊3分隊
直ちにお知らせする所 未だ任官通知出してなかったかも知れません。父上も大分お元気におなりになったらしく来る11日に面会にゆくかもしれぬとのお手紙受け取り喜んで居ります。今度 写真送ります。今日 乙種の者が鈴鹿まで飛んでゆきました。朝行って夕方帰ってきました。早いものです。私達は相変わらず離着陸の同乗です。早く単独になる様に頑張っています。父上も兄上も先日 私達を映した空の少年兵の映画を見たと言って来られました。お体お大事に。乱筆御免




④消印:昭和16年5月29日 妹への手紙
発信地:谷田部航空隊3分隊
雨雲が筑波山の頂きをかすめる様に飛んで行く。後ろに遠い彼方の空にモコモコでいた雲が。雨上がりの飛行場 まるでむしかえされる様な暑さだ。じっと座っていても飛行服の背がじっとりとしてくる。飛行帽をぬぎたいようだ。飛行場の芝生もあたりの木々も目に染みる様な緑に・・・・。一機、二機、三機・・・・十六機、十七機 まるで秋の赤とんぼの様に飛んでいる。卒業する練習生たちの大編隊が囂々と爆音をたて近いづいてくる。翼がキラリとる。なんて書くと一寸良いでせうが、実のところすごく張り切る故 相当ヘバルのですよ。君も課外を受けている様子。 何やってるんだい、国語、数学、英語かしっかりやり給え。土浦の下宿は、土浦自動車株式会社支配人様の宅です。蓄音機もあるし子供もいるしいい家です。






⑤消印:昭和16年6月6日 妹への手紙
発信地:谷田部航空隊3分隊
その後 皆 如何あらせらるるや。多分 元気一杯張り切って御座ろう。俺様も元気にて飛行作業に励み居る故 安心あれかし。当時吾輩らも特殊飛行を始め垂直旋回、宙返り、失速反転、横転と空も所せまきまで空中でアバレていますと言いたいが、教員に乗せられてフラフラして目を回さんばかりです。離着陸は、どうにか飛行場で降りる事が出来るようになりました。だんだん暑くなり梅雨も近くなり嫌な日もありますね。父上 その後よろしき様子 早く彦根に帰って欲しいでせう。夏休みも近づいた七月の終り頃 帰る予定なり。早く色々な話をしてやりたいね。君のお腹が割れて水が飛び出す程 笑わせてやりたいね。一寸 暇な時に又 ユクワイな手紙をたまわれ。俺は士官じゃない下士官だぞ。まだ士官まで四年あるんだ。その内 下手な写真送れる事と思ふ。心待ちにしていたまえ。金はいくらあっても足り申さん。何とかかんとか隊の拂ひで手許に七、八円位しか残らんよ。そしてその内から下宿料四円也引くとトホホ・・・。土浦までバスが80銭 一月に四回五回の外出。ちと懐がさびしいよ。といっても金を送ってといふのではない。金がなくともよいよ。一日天気の良い日など青天井の山でハーモニカでも吹いてねころがっているよ。では、わが妹へ 迷パイロットより 追伸 6月1日より海軍三等飛行兵曹となり申す。略して三飛曹(さんぴそう)と Good bye









⑥消印:昭和16年7月10日 妹への手紙
発信地:谷田部航空隊3分隊
さて、私達 今度のお休みが取り止めになりました。皆 がっかりしています。晴れの下士官姿を見せそこねて、どうして取り止めになったのかわかるでせう。毎日 新聞を読んでいる君のことだから、世界の情勢は愈々重大になってきましたね。何時 日本もやるかわからない様な状況です。故に休みだなんてのんきにやっていられないのです。支那の方さえままならないのに世界の方に又 手を出す様になればどうしても強い兵隊が入用になるのですからね。私達もすぐ戦争に出される事でせう。君達と会ったのも土浦航空隊卒業前のノンビリした私だったのですね。これからどうなる事やら。もう会う機会がないとも限りません。君もしっかり立派な大和撫子になって下さいよ。夏休みに土浦へこないか。一緒に水戸へ行くぜ。水戸に待っていれば俺が水戸へ行くでもよい。吾々は特殊飛行も済んで編隊訓練だ。三機づつ行儀よく並んであれがとてもむづかしい。前の飛行機が逃げてしまうのでね。では体を大切に 元気でやれよ。So Long bye, Your brother







⑦消印:日付け不明 妹への手紙
発信地:大分海軍航空隊第二分隊
元気でせうね。私も元気で毎日 戦闘機で訓練しています。今日から防空演習ですね。大分の女学生もモンペをはいて学校へ当直で出ていますよ。大分の女学生は私よりも色が黒いです。恭子も少し安心したでせう。多分 南の国に育ったからでせう。今日は日曜日なので別府へ行って見ました。別府とは名ばかりで少しも面白い所ではありません。もっとも時間がないので急いでいた故かも知れませんが。君も五年生なのでせう。受験準備で忙しい事でせう。今年の冬 皆で大分へ来られるといいんですが。土曜日の昼頃 隊へ来られれば父母ならば土曜日に皆と一緒に宿屋へ泊ってもいいし、日曜日一日又 遊ぶ事も許されます。御両親へこの事をお伝え下さい。私の方は一月末まで修行の筈、それ以後は戦地へ多分やられる事と思っています。もう会う事もないでせう。冬 休暇もない事です故。そうそう眼は治りましたか。先日はショボショボした眼をしていましたが、もういいのかい。では 元気で。又 お便りする。乱筆御免 戦闘機乗りのアンチャンより








⑧消印:日付け不明 妹への手紙
発信地:不明
恭子君 お手紙有難う。皆 元気の由 結構結構。お前さんももう五学年になったのだね。考えれば早い様なものだね。でも、小生も海軍生活を始めて三年になりましたからね。先日 空襲警報の時 娑婆の皆様如何でした。吾々は手グスネ引いて今か今かと待って居りました。朝は毎日三時に起き待機、暗い宵から哨戒に飛びだし夜は十時になる事も普通。時には終夜起きている事も多々あり、昼間も仕事が多く居眠りをする時間がなく ヤセマシタ。君達もお休みになったら又、小生の所へ面会に来ないかね。然し今の時勢じゃ東京へ出て来るなんておよそ意味ないね。小生達 ヤット一人前になれ外出も入湯上陸といって外泊を許されました。今は海軍の新鋭戦闘機にて関東の大空を飛び廻っています。又、暇な時 手紙を下さい。近所の皆様によろしくご伝言ありたし。御両親に孝養を盡してくれ。小生は何一つ孝行出来ず かへって不孝者だったと考え恥じている。親愛なる妹よ トカイッチャッテ 二等飛行兵曹ニナリツツアル 三飛曹の逸チャンより

律子ちゃん お元気ですか。この間 彦根に大雪が降ったのですつてね。律子ちゃんは雪の中にうまつたかと思ひましたが大丈夫でしたか。今日などは雪がとけて道がべちやべちやになってゐるでせう。学校へ行くとき ころばないように。今日は逸ちやんはグライダーを見ました。早く夏休みがくればいいのに。律子君の自転車にのるのもみたいし。又 泳ぐのも見たいですね。サヨナラ












⑨ 消印:日付け不明 父への手紙
発信地:高雄海軍航空隊気付 亀井部隊第3分隊
拝啓 元気で蘭印の○○へ着きました。便り下さい。皆さんによろしく。内地からの手紙が唯一の楽しみです。慰問袋 送って下さい。雑誌、新聞 etc さようなら 御両親様




上記の日付け不明の手紙は各航空隊への移動から次の通りと考えられる。
⑦日付け:昭和16年9月~12月
⑧日付け:昭和17年1月~3月、発信地:横須賀海軍航空隊
⑨日付け:昭和17年4月~6月、発信地:ケンダリー基地(セレベス島)

律子さん(逸三さんの妹)の思い出
・私が幼稚園へ行くときに中学生(旧制彦根中学校 現 彦根東高校)の兄が幼稚園へ送ってくれた。途中、パンを食べさせてくれて「お父さんとお母さんには内緒だよ」と言われた。
・琵琶湖で兄に泳ぎを教えてもらった。頭を水につけさせられてお尻だけポコット浮いていた。
・大分航空隊へ2組に分かれて面会に行った。まず父と姉が行き、次に母と私が面会に行った。教官の人が兄に甘えた声を出している私を見て笑っていた。
・兄が未帰還との連絡があった時、家族は「どこかジャングルに落ちて生きてるのではないか」と話していた。
・合同葬儀が東京であり父が出席した。彦根でも陸海軍の戦死した地元出身者の合同葬儀があった。葬儀委員会から「写真があればもらいたい」と申し入れがあったので、戦地から送ってきた写真を焼き増しして提出した。二番目の兄が骨壺の蓋を開けたら中にお骨はなく提出した写真だけが入っていた。

戦闘の詳細
飛行機隊戦闘行動調書(国立公文書館 アジア歴史資料センター)は次のように記録している。
機種の略号 / fco 及び fc:零式艦上戦闘機(零戦)、fr98:九八式陸上偵察機(陸偵)

実施年月日:昭和17年7月15日
任務:ポートダーウィン偵察
指揮官:大尉 菅原 信
参加機種機数:fco x 4 fr98 x 1 計 5
行動経過概要
09:00 fr x 1 fco x 4 クパン基地発進
12:50 ダーウイン着 偵察開始 地上ニ小型2機 中型ラシキモノ2機  空中敵機ナシ 湾口付近ニ哨戒艇ラシキモノ 1 其ノ他 汽船 1
14:30 fr x 1 fco x 4 クパン帰着
実施年月日:昭和17年7月16日
任務:コロノダレ、ポソ湖付近索敵攻撃
参加機種機数:fc x 4 計 4
行動経過概要
第一偵察攻撃隊(コロノダレ付近索敵攻撃)ケンダリー基地
15:00 fc x 2 基地発進
15:15 トコアヤ上空通過偵察
15:50 コロノダレ上空着偵察開始
16:00 偵察終了 上空哨戒開始
16:30 上空哨戒終了
16:40 ポソ湖着 上空偵察開始
17:20 コロノダレ上空通過 偵察
18:00 fc基地帰着 敵ヲ見ズ
第二偵察攻撃隊(コロノダレ付近索敵攻撃)ケンダリー基地
15:00 fc x 2 基地発進
15:15 トコアヤ上空通過偵察
15:50 コロノダレ上空着偵察開始
16:00 偵察終了 上空哨戒開始
16:30 上空哨戒終了
16:40 ポソ湖着 上空偵察開始
17:20 コロノダレ上空通過 偵察
18:00 fc基地帰着 敵ヲ見ズ

実施年月日:昭和17年7月30日
任務:ポートダーウィン攻撃隊掩護
指揮官:大尉 黒澤 丈夫
参加機種機数:fc x 27 計 27
行動経過概要
10:20 fc x 27 クーパン基地発進(3 2/1 発動機不調ノ為出発セズ)
11:20 基地 ダーウイン中間海上々空
10:20 fc x 27 基地発進
12:52 ダーウイン市街北端 2中隊1,2小隊 空戦
12:55 ダーウイン上空 突入
13:05 1中隊2,3小隊 3中隊1,2,3小隊 空戦
13:07 1中隊1小隊 空戦
13:15 空戦終了
14:20 ダーウイン 基地 中間海上々空(帰途)
15:45 fc x 25 基地帰着(1機自爆)撃墜16機(内 三 不確実)
実施年月日:昭和17年8月23日
任務:ダーウィン上空制圧 攻撃隊掩護
指揮官:大尉 戸梶 忠恒
参加機種機数:fc x 27 計 27
行動経過概要
08:55 fc x 27 クーパン基地 発進定針
09:30 基地、ダーウイン 中間海上々空 高度3500 ニテ進撃
11:20 ペロン島上空 空戦開始 敵機13機撃墜(内 不確実2機)
11:40 ダーウイン南飛行場上空 攻撃隊爆撃
12:15 フォークロイ岬上空 空戦終了
12:20 ダーウイン、基地 中間海上々空
14:50 fc x 23 基地帰着 未帰還4機





飛行機隊戦闘行動調書とは別に飛行機隊編成調書があり搭乗員全員の名前が所属する隊ごとに載っている。
この編成調書によれば27機は次のような編成だった。
○第1中隊 (9機) / ・第1小隊 (3機) ・第2小隊 (3機) ・第3小隊 (3機)
○第2中隊 (9機) /・第1小隊 (3機) ・第2小隊 (3機) ・第3小隊 (3機)
○第3中隊 (9機) / ・第1小隊 (3機) ・第2小隊 (3機) ・第3小隊 (3機)

戦闘機は3機で1小隊を編成し、「小隊」の1番機である小隊長機を先頭に、その左後ろに2番機、右後ろ3番機がついて三角形の編隊を組む。
指揮官の戸梶忠恒(とかじ つねただ)大尉は第1中隊第1小隊の1番機に搭乗し、2番機に古川信敏 二飛曹、3番機に伯父が搭乗していた。
伯父は指揮官が直卒(じきそつ)する第1小隊の一員であった。空中戦となると3機は一直線となり攻撃するのは隊長機の1番機だけであり、列機(れつき)と呼ばれる2番機と3番機の任務は1番機の護衛である。
指揮官を含めて第1中隊第1小隊の3名全員が未帰還となった。
未帰還のもう1名は第2中隊第3小隊3番機の平田義之 三飛曹であった。
尚、伯父の最期の日となった8月23日の行動経過概要には「未帰還4機」とあるが、飛行機隊編成調書では名前の上に行方不明と赤いスタンプが押してある。
8月23日の出撃では伯父と同期の前田直一(1中隊3小隊2番機)と富田正士(2中隊1小隊2番機)、野津吉郎(3中隊2小隊2番機)の3名もいた。3名は無事に帰還したが、9月10月のガダルカナルの戦いにおいて戦死した。

死亡認定書
横志飛1737號 海軍一等飛行兵曹 清水逸三 右の者 昭和十七年八月二十三日 第三航空隊司令海軍大佐亀井凱夫ノ命ニ依リ「ポートダーウィン」攻撃隊掩護ノ任務ヲ以テ海軍大尉戸梶忠恒ノ指揮セル戦闘機隊第一中隊第一小隊三番機トシテ零式艦上戦闘機ヲ操縦シ午前八時四十五分勇躍基地ヲ発進長躯五○○浬ノ洋上ヲ翔破シ攻撃隊前方ヲ僚機五機ト共ニ守リツツ午前十一時五十分目的地上空ニ突入爆撃前ヨリ我攻撃隊ニ反撃シテ来レル敵戦闘機二十数機(P-40 P-39)中前方ヨリ反撃シ来レル敵三機ニ対シ指揮官海軍大尉戸梶忠恒及同小隊二番機海軍二等飛行兵曹古川信敏ト共ニ突撃シタルヲ同前方護衛ノ第一中隊第二小隊一番機海軍一等飛行兵曹XXXX之ヲ認メタルモXX小隊ハ之ト殆ド同時ニ後上方ヨリ反撃シ来レル敵四機ニ突入シタル為分離見失ヘリ爾後大空中戦展開サレシ為清水機を認メタルモノ全ク消息不明トナレリ以来既ニ二ケ月ヲ経過セルモ未ダ何等ノ情報モ無ク當ヨノ空戦ノ状況ニ照シ萬生存ノ疑ナキヲ以テ昭和十七年八月二十三日戦死セルモノト認定ス 昭和十七年十月二十八日  第三航空隊司令海軍中佐 岡村基泰

拳銃
十四式拳銃
飛行服を着た伯父の写真を見ると、拳銃を身に着けている。航空搭乗員の戦時における拳銃装備については厳密な規定はなく、将校は各自が所持している私物の拳銃を携行するか、艦船や部隊が装備する拳銃を適宜に携行していた。伯父のような下士官の場合でも、艦船や部隊が装備する拳銃を携行していた。携帯方法としては「拳銃嚢(ホルスター)」で肩から腰にかけて装着する方法が通例であるが、機内が狭い零戦の場合、拳銃嚢を使わずに拳銃をそのまま縛帯や救命胴衣に差し込んで携帯する時があり、伯父も縛帯に差し込んでいる。海軍の下士官・兵用には「南部式拳銃」(陸軍制式の将校用拳銃)をベースにした「十四年式拳銃」を「十四式拳銃」の名称で制式採用していた。
(写真:「不滅の零戦 生きつづける名戦闘機」丸編集部/光人社)


亀井凱夫(かめい よしお)
伯父の最後の手紙にあった亀井部隊とは、第三航空隊司令の亀井凱夫大佐の率いる部隊のことであった。
(写真: ①はウィキペデア ②③は「闘う零戦 隊員たちの写真集」渡辺洋二編著/文藝春秋)

亀井大佐の略歴は下記の通り。
年号 出来事
明治29年 (1896) 3月21日 東京に生まれる
大正2年 (1913) 3月 東京高等師範学校附属中学校卒業
大正4年 (1915) 4月 海軍兵学校46期として入学
大正7年 (1918) 11月 同校卒業
大正8年 (1919) 8月 海軍少尉に任官
大正9年 (1920) 12月 第6期航空術学生を拝命
大正10年 (1921) 7月 卒業、戦闘機搭乗員となる
12月 海軍中尉に昇進
大正13年 (1024) 12月 海軍大尉に昇進
昭和2年 (1926)3月~
昭和3年 (1924)8月
操縦術研究のために欧米に滞在
昭和5年 (1930) 11月 横須賀海軍航空隊分隊長に就任
昭和年 (1920) 2月 海軍少佐に昇進
昭和8年 (1933) 10月 空母「龍驤」飛行長に就任
昭和9年 (1933) 11月 空母「加賀」飛行長に就任
昭和11年 (1936) 12月 霞ヶ浦海軍航空隊飛行長に就任
昭和15年 (1940) 11月 海軍大佐に昇進
昭和16年 (1941) 4月 第三航空隊司令に就任
昭和17年 (1942) 11月 空母「龍鳳」艦長に就任
昭和19年 (1944) 3月 第521航空隊司令に就任
7月 マリアナ航空隊司令に就任
8月11日 グアム島で自決 
※戦死後、1階級特進し小将となる

②昭和16年12月8日/フィリピンへ出撃する三空搭乗員に答礼する司令・亀井凱夫大佐 高雄基地

③昭和17年(1942)4月/三空の部隊葬(セレベス島ケンダリー基地)最敬礼する第二三航戦司令官・竹中龍造中将、座るのが司令・亀井凱夫大佐

彼は妻子宛に送った百通を超える手紙と戦地での日記を残している。
その内容を武田頼政が「零戦の子 伝説の猛将・亀井凱夫とその兄弟」を文藝春秋から出版している。
伯父の戦死した昭和17年(1942)8月23日について亀井凱夫は日記に次のように書いている。
「今日の攻撃隊の進入法も、いつもと逆方向のものであったが引き揚げに際して執拗な敵戦闘機の攻撃を受けた。しかし我が戦闘機の奮戦により、中攻隊は三名の負傷者を出したほか、損害なく(片発動機帰還のもの一機)全機帰還したが、戦闘機隊は十四機撃墜の戦果を挙げたけれども、近来見ない四機の不帰還機を出した。一個小隊纏まって帰って来ないなどということは、当隊開戦以来初めての事であって、何か戦況において謎があるように思われてならないのだが、まったく知る由もない。ホークロイ岬付近において敵が攻撃し来ったとき、彼我いずれともわからないが、何だか空中衝突でもしたように黒煙をあげて二機降下して行くのを見たものがある。乱戦の裡に事故にでもあったのではないかと思われる節がある

伯父を含め四名の行方不明者が出た2日後の8月25日、ケンダリー基地の三空で亀井大佐の送別会が行われた。
亀井は日記に次のように書いている。
「今日までの撃墜、撃破は実に五百三十機におよぶ。自分は世界最強の部隊を指揮したということになる。生涯の誉れと思わざるを得ない。しかも幸いにして、恐らく航空隊として最小の損耗であろう。合計三十九名の戦死者に過ぎなかった。しかし、これだけの犠牲者を出したということ。そのこと自体は終生の胸の痛みである。必ずしも道徳的に突き詰めて考えるわけでもなく、戦場の常で已むを得ざるものと言うたところで、部隊長としての感情はまさにかくの通りで、何としても致し方がない。自分自身只今、ともかくも生還しうることを思うとき、真にたまらない感がする」


黒澤丈夫(くろさわ たけお)
伯父は、昭和17年(1942)7月30日のポートダーウィン攻撃隊掩護の零戦27機の内の1機に搭乗した。この時の指揮官は、黒澤丈夫大尉であり指揮官が率いる第一中隊の第三小隊の2番機に搭乗していた。この時の戦闘行動は、上記の「伯父の足跡」に載せてある飛行機隊戦闘行動調書の実施年月日:昭和17年7月30日行動経過概要で詳細が分かる。

黒澤大尉の終戦までの略歴は下記の通り。(写真:ウィキペデア)
年号 出来事
大正2年 (1913) 12月23日 群馬県上野村に生まれる
昭和7年 (1932) 4月 海軍兵学校63期として入学
昭和11年 (1936) 11月 同校卒業
昭和12年 (1937) 9月 第29期飛行学生として霞ヶ浦海軍航空隊に転出
昭和13年 (1938) 5月 佐伯海軍航空隊に転出し戦闘機操縦士として訓練を受ける
11月 第十二航空隊に配属され漢口(中国)に着任
昭和14年 (1939) 9月 霞ヶ浦海軍航空隊の教官となる
11月 訓練中の事故で入院
昭和15年 (1940) 11月 元山(朝鮮)海軍航空隊へ分隊長として着任
昭和16年 (1941) 9月 元山の戦闘機隊は新しく編成された第三航空隊(三空)へ編入され高雄(台湾)へ移動
12月8日 ルソン島(フィリピン)の米軍基地を空襲
12月末 ダバオ(ミンダナオ島)に進出
昭和17年 (1942) 1月 メナド(セレベス島)へ進出
2月 バリクパパン(ボルネオ島)やクーパン(チモール島)に進出
3月 ブルーム(豪州北部)の空襲開始から豪州北部へ本格的な空襲を行う
中国で罹患していたアミーバ赤痢が悪化し、秋に日本へ帰還
10月 大村海軍航空隊飛行隊長
12月 佐世保海軍航空隊飛行隊長
昭和18年 (1943) 9月 三八一海軍航空隊(館山)飛行隊長
昭和19年 (1944) 3月 バリクパパンに進出
10月 臨時編成のS戦闘機隊の飛行機隊総指揮官
昭和20年 (1945) 6月 第五航艦第七二航空戦隊作戦参謀
終戦時は海軍少佐





















終戦後は第二復員省の復員官として業務についた。第二復員省を辞めて昭和21年(1946)9月に出身地の群馬県上野村へ帰った。しかし、海軍少佐の職業軍人だったので公職追放のために農業を始めるしかなかった。昭和40年(1965)6月に上野村村長となる。昭和60年(1985)8月12日、羽田から大阪へ向かう日本航空123便の墜落事故が発生した。墜落現場は黒澤が村長を務める上野村の御巣鷹山であった。彼は陣頭指揮をとり消防団を現場に派遣したり、救援の自衛隊や機動隊および報道陣の受け入れ態勢に当たった。この時の彼の落ち着いた対応や遺族に対する配慮は多くの人々の記憶に残った。平成7年(1995)8月から4年間、全国町村会会長として幅広く活躍した。平成23年(2011)12月22日、逝去、享年97。


特攻
特攻について詳細を書くとホームページの別ページにするくらいの量になるのでここでは印象に残っていることを述べてみたい。

昭和19年 (1944)10月のフィリピンでの神風特攻隊から敗戦の昭和20年 (1945) 8月までに数多くの航空特攻(主に零戦を改修し250キロ爆弾や500キロ爆弾を搭載し艦上戦闘爆撃機とした)がなされた。
戦争末期になると前線の搭乗員の損耗が激しく、搭乗員の補充を急ぐために大量に予科練生や予備学生を採用した。しかし、彼らを乗せる飛行機が少なく飛行機以外の特攻兵器に志願させて訓練し戦場へ送った。
・水中特攻:「回天」(人間魚雷)、「海龍」(特殊潜航艇)、「伏龍」(人間機雷)※海龍と伏龍は本土決戦が回避された為に実戦なし
・水上特攻:「震洋」(ベニア板製の高速艇)
・空中特攻:「桜花」(一式陸攻に吊り下げられ敵艦に特攻する人間爆弾)
陸軍の航空部隊による特攻も数多く行われ、敗戦の日までに陸海軍合計の特攻出撃数は2,831機、これに直掩機314機を加えると3,145機。予科練出身者も含め無数の若者たちが機と共に南の海へ散って行った。

美濃部正(みのべ ただし)
美濃部正少佐(海軍兵学校64期)の部隊は芙蓉部隊と呼ばれ、三個飛行隊の主力は「彗星」だがその内の一個分隊だけは零戦を併用した。彼は安易な特攻作戦へは反対であった。昭和20年2月、連合艦隊主催で木更津基地の第三航空艦隊司令部で開催された会議に出席した。沖縄に迫る米軍との決戦を想定した「菊水作戦」の研究会である。
彼は手記「大正っ子の太平洋戦記」で会議の内容を次のように書いている。(文中のGFは連合艦隊、AFは航空艦隊の略語)
「参加者は3AF、10AFの幕僚およびの指揮下の部隊長、飛行長、横須賀鎮守府航空部隊飛行長。いずれも航空の先輩。私は最若輩の少佐、末席にいた。<中略>抗命罪覚悟、一人くらいこんな愚劣な作戦に反対、それで海軍から抹殺されようとも甘んじて受けよう!<中略>『全力特攻、特に速力の遅い練習機まで繰り出しても、十重二十重のグラマン防御網を突破することは不可能です。特攻の掛け声ばかりでは勝てないのは比島戦で証明済み』 GFの参謀は、末席の若造、何を言うかとばかり色をなした。『必死尽忠の士4000機、空を覆うて進撃するとき、何者がこれを遮るか。第一線の少壮士官の言とも思えぬ』敗北思想の卑怯者と言わんばかり。満座の中で臆病者とばかりの一喝。<中略> 列席の将官、大中佐80余名。誰一人異議を申し出る人はいない。軍隊統帥の厳然たる大海軍、GF主席参謀の説明した基本方針は、取りも直さず最高指揮官GF司令長官の方針。軍人勅諭 [上官の命令は朕が命令と心得よ] 命令一歩前の方針といえども拝服するのは軍律の基本である。戦局は日本国存亡の岐路にある。一介の少佐の批判を許す雰囲気ではなかった。<中略>練習機まで注ぎ込んだ戦略戦術、幼稚な猪突でほんとうに勝てると思っているのか。
『200機の練習機を駆り出す前に、ここにいる古参パイロットが西から帝都に進入されたい。私が箱根上空で、零戦で待ち受けます。1機でも進入できますか。艦隊司令部は芙蓉部隊の若者たちの必死の訓練を見ていただきたい』」
彼の抗弁の結果、芙蓉部隊は特攻編制から除外され、夜襲部隊として菊水作戦に参加することになった。

宇垣纒(うがきまとめ)
敗戦の日の8月15日に第五航空艦隊の宇垣纒(うがきまとめ)司令長官(中将)が部下を連れて大分海軍航空基地から沖縄へ向けて11機(艦上爆撃機の彗星)で飛び立った。実際の指揮官は中津留達雄大尉。いわゆる「宇垣特攻」と呼ばれ未帰還機8機の中に佐渡出身の北見武雄中尉(海兵73期)も3番機に搭乗していた。残りの3機は機体不良により鹿児島に不時着し1名死亡5名が生存した。
特攻で戦死の場合、本来なら2階級特進だが「宇垣特攻」での戦死者は一般戦死者並に1階級しか特進しなかった。これは連合艦隊副官による公文書(昭和20年10月1日付)による処分であった。宇垣長官を除く出撃者22名中の予科練出身者は15名。
昭和58年(1983)4月に行われた慰霊祭の後で中津留大尉の父親は次のように答えていた。
「戦後ずうっと永い間、わたしゃ宇垣さんを怨み続けてきました。どうして自分一人でピストルで自決せんじゃったろうか、戦争は済んだというのに、なにも若い者たちをよおけ連れて行くこたあなかったのにと怨んできました。しかしもうこれで諦めます。こうやって慰霊祭をひらいてもろうて、わたしも諦めがつきました。これも何かの因縁じゃったと思います」


予科練平和記念館(茨城県阿見町)

令和元年 (2019)秋に予科練平和記念館を見学した。事前に(公益財団法人)海原会(うなばらかい)へ連絡をして当日記念館で事務局長の方にお会いすることができた。会の活動などをお聞きしてから館内の展示を見て回った。館内は写真撮影禁止なのでメモを取りながらじっくりと見学した。7ゾーンに分かれている。
1 入隊 2 訓練 3 心情 4 飛翔 5 交流 6 窮迫 7 特攻
伯父と五甲飛で同期の福山資さんと菊池克久さんの履歴が展示されてあった。さらに「日本ニュース」(日本映画社)による当時の映像(練習航空隊など)も見ることができる。

設立趣旨(パンフより)
茨城県阿見町は大正時代に、霞ヶ浦海軍航空隊が開隊されて以来、昭和14年には飛行予科練習部いわゆる「予科練」が、神奈川県横須賀からここ阿見町に移転し、終戦まで全国の予科練教育・訓練の中心的な役割を担うことになりました。
このように、海軍の町としての歴史を歩んできた阿見町は、わが国の近現代史の中でも特別な時代を過ごし、日本が経験してきた戦争と平和を考えるうえで、忘れることのできない多くの事柄をその風土と歴史の中に刻み込んでいます。
このような歴史的背景の中で、貴重な予科練の歴史や阿見町の歴史の記録を保存・展示するとともに、次の世代に正確に伝承し、命の尊さや平和の大切さを考えていただくために「予科練平和記念館」を建設しました。


雄翔園(ゆうしょうえん)・雄翔館(ゆうしょうかん)(茨城県阿見町)

予科練平和記念館の見学を終えてから道を隔てた隣りにある雄翔園・雄翔館へ歩いて行く。陸上自衛隊土浦駐屯地武器学校の敷地内にある施設で通用門から中に入る。雄翔園には「予科練の碑(予科練二人像)」があり倉町秋次による碑文がある。中央に広い芝生があり静かな庭園だった。

隣りにある雄翔館(旧予科練記念館)へ向かうと山本五十六の銅像がある。
山本五十六は海軍の航空機部隊の生みの親で早くから戦争における航空機の重要性を見抜いていた。雄翔館の館内は予科練平和記念館と同じく館内は撮影禁止。予科練戦没者の遺書や遺品などが1500点あまり収蔵・展示されている。戦没者の写真に出身地が書かれていて戦没した年月日と場所が大きなパネルに展示されている。
伯父の同期生は次の三名が展示されていた。
・伊藤和夫(大阪)昭和19年6月11日 敵機動部隊夜間攻撃
・近藤伊三男(三重)昭和19年8月19日 マリアナ沖
・久保田吉朗(樺太)昭和20年3月21日 沖縄周辺(神風特攻菊水銀河隊)
三人のパネルの前で合掌。
雄翔館は(公益財団法人)海原会が管理していて昭和43年 (1968年)に開館した。


あとがき
亡き義母の戸籍謄本を見たら、義母の兄の欄に「昭和拾七年八月弐拾参日 豪州北部に於テ戦闘中戦死」とあった。戦地からの最後の手紙に「高雄海軍航空隊気付亀井部隊三分隊」とあったので、高雄海軍航空隊(高空)に所属していると思い高空を調べ始めた。
「国立公文書館アジ写真ア歴史資料センター」の「高雄航空隊 飛行機隊戦闘行動調書 自 昭和17年5月 到 昭和17年9月」をネットで閲覧した。
昭和17年8月23日 ダーウイン南飛行場攻撃 一式陸攻 27機 行動経過概要 3個中隊/9個小隊/搭乗機番号毎に搭乗員(主・副 操縦、主・副 偵察、先・次 電信員、先・次 搭発員)の名簿があった。伯父の名前を27機の操縦員計54名(1機あたり2名搭乗)から見つけ出そうとした。しかし見つからないので念のために偵察員計66名(1機あたり2名だが3名の搭乗機もあった)も調べたがなかった。さらに8月23日以前の行動調書も見たが彼の名前はなかった。

予科練出身者や遺族、賛同者で構成される(公益財団法人)海原会(うなばらかい)があると知り、伯父の情報を問い合わせたところ次のような回答があった。
「所属部隊:第三航空隊、戦没状況:分隊長 戸梶忠恒大尉の3番機としてクーパンよりポートダーウィン上空制圧に出撃、空戦 未帰還」
この情報から伯父が所属したのは戦闘機部隊の第三航空隊と分かったので関係する資料や書籍で詳細を調べることが出来た。
高雄海軍航空隊気付とあるのに高空の所属と早合点して調べるのに遠回りした。
防衛省の敷地内にある「防衛研究所」へ行って史料閲覧室で「飛行機隊編成調書」の原紙を閲覧し、昭和17年8月23日のページに伯父の名前を見つけた時は感無量だった。

伯父に捧げる歌
・腰に差す黒き拳銃首に巻く白きマフラー零戦の伯父
・「蘭印の○○にいる」と記してあり零戦の伯父の最期の手紙に
・開戦の翌年八月戦死せし零戦の伯父二十歳のままで
・豪州の空はるかより帰還せず零戦の伯父二十歳の夏よ (2020年8月 朝日新聞・歌壇入選)


主な参考文献
・防衛省庁防衛研究所史料閲覧室
・国立公文書館アジア歴史資料センター
・「豫科練外史」倉町秋次/予科練外史刊行会
       <1>雛鷲の日々、初陣の羽搏き  <2>湖畔の明け暮れ、若鷲の勇戦  <3>嵐に向かう、凱歌のかげに
       <4>ソロモンの空、その頃予科練は  <5>制空権の行方  <6>絶対国防圏の推移、満天の星は涙す
・「予科練の戦争 - 戦争を生き抜いた元少年航空兵たちの証言」久山忍/潮書房光人社 
・「日本軍用機事典 海軍篇 1910-1945」野原茂/イカロス出版
・「闘う零戦 隊員たちの写真集」渡辺洋二/文藝春秋
・「零式艦上戦闘機」清水政彦/新潮社
・「不滅の零戦」丸編集部/光人社
・「軍用機の誕生 日本軍の航空戦略と技術開発」水沢光/吉川弘文館
・「祖父たちの零戦」神立尚紀/講談社
・「零戦の子 伝説の猛将・亀井凱夫とその兄弟」武田頼政/文藝春秋
・「大正っ子の太平洋戦記 復刻版」美濃部正/方丈社
・「歴史群像 蘭印進攻作戦 通号102号 2010年8月」/学研パブリッシング
・講演会「元特攻兵(回天・伏龍・震洋)岩井兄弟(99歳、97歳)からの最後の証言」2019年11月19日早稲田大学9号館
・「私兵特攻 - 宇垣纒長官と最後の隊員たち」松下竜一/新潮社
・予科練平和記念館http://www.yokaren-heiwa.jp/
・海原会http://yokaren.jp/
・NHK戦争証言アーカイブスhttp://www.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/
・戦場体験史料館http://jvvap.jp/
・フリー百科事典「ウィキペディア」


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