8月1日〜8月5日


1日目:8月1日(日) 曇のち晴 走行距離/累計95km/95km
小樽 ⇒ 石狩 ⇒ 厚田 (あつだ) ⇒ 浜益 (はまえき)
宿泊:民宿(石狩市浜益区)
昨日、飛行機で羽田から千歳へ、千歳からバスで札幌の知人宅へ寄った。3年前に亡くなったMK(ガデリウス時代の同期生)の奥さんが札幌に住んでいる。お線香をあげにお宅へ寄らせてもらった。

小樽の旅館
銭函駅

小樽の旅館で送っておいた自転車入りの袋を受け取り組み立てた。高垣君(学生時代の友人)のセリフ「増し締めは大切だよ!」を思い出し、各ボルト・ナット部をチェックの上増し締めをした。持参した小さい空気入れより家庭にある空気入れの方が入れやすいので旅館の女性に頼んだところ、旅館に手伝いに来ている人でわざわざ自宅へ戻り空気入れを持って来てくれた。「空気入れは1階の物置に置けばいい」とのことでそのようにした。

旅館を出て走るが何箇所かトラブル。近くの小学校で調整し走り出す。旅館を出発して30分も経ってしまった。やれやれ、これじゃ先が思いやられる!

銭函駅方面の道へ入る。なるべく海岸線を走りたいので海へ向かう下りの坂を快適に進むと行き止まり。上り坂を汗をかきながら元の道へ戻る。行き止まりの看板を出してくれ〜。銭函駅で小休止。

石狩新港エリアの長い長い道を走り、「厚田30km 浜益60km」の標識が出ている「石狩河口大橋」を渡る今晩の宿の浜益まで60kmもある。小樽からの距離と合わせると95kmになり、初日に95kmは厳しいものがある。厚田で泊まりにすれば良かった。
道路標識 石狩河口大橋

厚田の「夕陽の見える公園」にて小休止。女房から携帯に留守電が入っていた。「空気入れを宿に忘れていると小樽の宿から家へ連絡がありました」との内容。思わず自転車に取り付けてある小型の空気入れを見てしまう。宿へ連絡し「宿にある空気入れはお手伝いの女性から借りたもので物置に入れておくよう言われました」と伝える。宿のご主人は勘違いしたのだろうが、家庭用の空気入れは自転車に積み込むには大き過ぎますよ。宿から連絡を受けた女房も驚いたそうだ。

ここからトンネルがいくつか続く。浜益まで20km位から足が重くギアを落としても楽にならない。トンネルへの長い上りを汗をかきヒイヒイ言いながら上る。長い長い上りをこなすと快適な長い長い下り。長い下りを走る爽快さは経験者でないと説明出来ない。爽快な長い下りを「ごほうび」と名前を付けた。上りは嫌いだが上りがなければ「ごほうび」もない。滝ノ沢トンネル、大島内トンネルを通過。トンネルを出たところで足がつるのでストレッチで筋肉を伸ばす。本日の最後の送毛トンネル(1,900m)は安全を優先し自転車に乗らずに歩いた。宿までもう少しの気の緩みと足の状態を考えれば最善の策である。

宿の奥さんは戦後に樺太から引揚げてこの地に定着したとのこと。


2日目:8月2日(土) 曇のち豪雨 走行距離/累計63km/158km
浜益 ⇒ 雄冬岬 ⇒ 増毛 (ましけ) ⇒ 留萌 (るもい)
宿泊:旅館「福広館」(留萌市)
浜益・民宿
日方泊トンネル
朝のニュースで低気圧が接近し大雨の予報。
持っている北海道新聞社出版「慟哭の海」のメモを奥さんに見せた。船名等詳細を聞くと、ぽつりと「死ぬかと思った」と微笑する。船は樺太を出て留萌に着いたとのことでこれ以上当時のことをあれこれ聞いてはいけない気がしたので止めた。

小雨なのでサイドバッグにカバーをかけて宿を出発。これから多くの覆道とトンネル(T)を走ることになる。雄冬T、武好T、岩尾T、汐の岬T、日和T、黒岩T、日方泊T(2,900m)、大別刈T(1,900m)。雄冬Tを通過したら後ろからバイクが4台通り過ぎて行くが、どのバイクも手を挙げて挨拶してくれる。疲れている時には元気づけられますね。私も手を挙げて返礼をする。

もうトンネルはうんざりと思っていたら、最後の大別刈Tが残っていた。トンネル通過後は「ごほうび」の長い長い下りを楽しむ。

別刈のバス停を見つけ小休止。樺太からの引揚者を乗せた小笠原丸がこの沖で潜水艦の攻撃を受け沈没。62人(乗組員34人、海軍兵8人、引揚者20人)がこの別刈へ上陸するも残り600名余りの人が死亡。わずか63年前の夏の惨事。沖に向かい合掌。
バス停「別刈」 別刈の浜

増毛の「漁師の店(食堂)」へ入る。「海鮮ラーメン」にしたが、これが間違いだった。スープが熱くなく、麺も今ひとつすっきりしない。やはりメインの「いくら丼」や「いくら・うに丼」にすべきだったか。
増毛・食堂 海鮮ラーメン

留萌へ向けて走っていると大粒の雨が降ってきた。市街の手前に黄金岬へ向かう脇道へ入る。ものすごい土砂降り。仕方なく岬は諦めて元の道へ戻り市街の宿へ向かう。ハンコ屋さんの店先で雨宿りするが、土砂降りの雨はやまない。このような大雨は北海道の自転車の旅では初めてである。店の人に宿への道順を教えてもらい自転車を押しながら雨の中傘をさしてやっと宿に到着した。

引揚者の慰霊碑のある千望台へタクシーで行く。「樺太引揚三船殉難者慰霊之碑」があり、昭和37年建立。
碑文「昭和20年8月22日早暁の海は北西の風小雨霧視界を覆う。この日小笠原丸 第二新興丸 泰東丸の三船は戦乱の樺太より緊急疎開の老幼婦女子乗組員5,082名を乗せ留萌沖にかかりしが、突如潜水艦の雷撃砲撃に遭い、瞬時にして沈没或いは大破し1,708名の尊き生命を奪う。畢生の地樺太を脱し数刻夢に描きし故山左舷にしてこの惨禍に遭う悲惨の極みなり。星霜ここに17周年我等同人この碑を建て永く聖霊を祈念す」
高台のこの千望台より遠くの海に向かい合掌。
三船殉難平和碑の案内版 平和の碑 千望台


3日目:8月3日(日) 曇 走行距離/累計101km/259km
留萌 ⇒ 鬼鹿(おにしか)⇒ 苫前(とままえ)⇒ 羽幌(はぼろ)⇒ 遠別(おんべつ)
宿泊:旅館「ふじや」(遠別町)
国道232号をひたすら北へ走る。小平(おびら)町の「道の駅おびら鰊番屋」へ到着。ここには旧花田家番屋、郷土資料館、遭難慰霊碑があり、いずれも興味深く1時間半もいた。旧花田家番屋:国の重要文化財であり、漁夫、船大工、鍛冶職、屋根職等総勢200人前後の人を収容。鰊漁家特有の平面構成で豪壮な番屋だった。親方の間の柱に気圧計があり、親方はこれを見て天候の具合を判断していた。私の親父も漁船の船主・船頭だったが、家に気圧計があり「針(ハリ)」と呼んでいた。
花田家番屋 番屋の内部 番屋の内部

郷土資料館:樺太引揚船の「泰東丸」はこの鬼鹿沖でソ連潜水艦の攻撃を受け沈没。667人の死者・行方不明者を出した。資料や海底から引揚げた遺品を展示してあった。攻撃したソ連の潜水艦L-19号の本部への行動記録(ロシア語)のコピーもあった。

海側に慰霊碑があり今までと同じく沖に向かい合掌。これで今回の旅のポイントである引揚船に関する3カ所へ立ち寄り手を合わすことが出来た。太平洋戦争の末期、南の沖縄で悲惨な結果となり、その後の広島と長崎への原爆投下で終戦。しかしながら、終戦後の8月22日にもかかわらず樺太からの引揚船がソ連の潜水艦に攻撃され惨事となった。マストに航海灯をつけ自船の位置を明らかにする無線信号(米軍に照会し入手)を発しながら航海し、「この信号を出している船を攻撃することはない」と米軍から連絡を受けていたのだが・・・・・。戦争のもたらす悲劇を忘れてはならない。北海道新聞社から本が出版されている。「慟哭の海」"樺太引揚げ三船遭難の記録" (1988年8月10日発行)。この本では「国籍不明の潜水艦」となっているが、その後の調べでソ連の潜水艦L-12号とL-19号が特定されている。
三船遭難慰霊碑 資料館 資料館

鬼鹿で時間をかけたので速度を上げて走る。
海岸線の道は日本海オロロンラインと呼ばれている。オロロンの名称は羽幌の沖合いの天売島に生息する絶滅危機種のオロロン鳥(ウミガラス)に由来する

羽幌に天売島と焼尻島へ行くフェリー乗り場へ行くと中に「みなと食堂」があり昼食とする。
店のご主人お勧めの「ウニ・エビ丼」にするこれが大正解であった。とにかくうま〜い! ご主人は天売島出身で昔、島でも食堂をやっていたとのこと。ウニは天売産、エビは羽幌産。羽幌がエビの水揚げ日本一とは知らなかった。この食堂はお薦めです!! 但し、冬季は休業。
フェリー乗り場 フェリー ウニ・エビ丼

「道の駅ほっと はぼろ」へ行きスタンプを押す。建物がりっぱで年間の運営費を考えてしまう。

遠別の宿に到着。部屋のTVで高校野球を見る。新潟代表の新潟県央工業高校が報徳学園を相手に試合をしている。佐渡高校は県の決勝戦で県央工業高校に敗れて甲子園に行けなかったが残念。


4日目:8月4日(月) 快晴 走行距離/累計100km/359km
遠別 ⇒ 天塩 (てしお) ⇒ 稚咲内 (わかさきない) ⇒ 抜海 (ばっかい) ⇒ 稚内
宿泊:稚内モシリパユースホステル(YH)(稚内市)
女将さんと世間話。何年か前の夏に東京からこの宿に1カ月滞在した人がいた地元の人からすると暑いのに「寒い寒い」とぼやいていたそうだ。
「天塩から海沿いの道を行けばいいが、ダンプカーの出入りがあるので注意して。今日は天気がいいので利尻山がきれいに見えますよ」と言ってくれた。

天塩町の「道の駅てしお」に寄る。熱いコーヒーを飲みたいが食堂はオープン前なので販売機で熱い缶コーヒーを買った。

稚内への国道232号でなく海岸線の道道106号を北上する。快晴の下、気分良くペタルを漕ぐと天塩川(北海道で2番目に長い川)が見えた。
「天塩河口大橋」を渡る前に小休止。
橋を渡ると「利尻礼文サロベツ国立公園」の看板。風力発電の大きな羽根がゆっくりと回っている。20基以上ある大規模な風力発電だ。

動画:天塩河口大橋

動画:風力発電

進行方向を歩いている人がいる。まずこのような所で歩いている人は見かけない。なんと歩いて北海道1周中の人であった。
しばらく立ち話をする。埼玉に住んでいる人で65才、背中に「歩 旅」と大きく書いたTシャツを着てカートを引きながら歩いている。名刺をもらったが、表に住所と名前の他に大きく「人生死ぬ迄元気」と書いてあり、裏に過去に歩いた記録が書いてある。例:神戸駅〜自宅 約 670km 16日間 東海道、青森駅〜東京駅 約781km 19日間 奥羽街道、本州沿岸1周 6,207km 267日。すごい人がいるものだ。
歩き人

サロベツラーメン
利尻山を望む

稚咲内にあるお土産やさん兼食堂へ入る。「サロベツラーメン」を頼む。これは正解だった。熱いスープと具(カニとホタテ)それにサロベツ牛乳がついている。牛乳はこくがあり美味しかった。ここで稚内から来たチャリンコの若者(住まい:栃木県)に会う。真っ黒に日焼けし北海道を終わったら本州を縦断するとのこと。稚内からこちらへは強い向かい風で大変だったそうだ。青春に幸あれ!!

左手に利尻山をたえず見ながら追い風に助けられて快適に走る。反対側から欧米人の男女のチャリンコ集団とすれ違う。「Enjoy cycling!」と声をかけると手を挙げて通り過ぎて行った。

抜海を過ぎノシャップ岬目指して走る。稚内市街方面の急坂と岬方面行きの道があり岬方面への平らな道を進む。思ったより長い距離を走るとノシャップ岬に出た。売店で孫へのお土産の「夕張メロンゼリー」を買う。
岬にある青少年科学館へ入館。南極観測と観測船「宗谷」に関する展示があり興味深く見た。
ノシャップ岬 ノシャップ岬モニュメント

晩から2泊する「稚内モシリパユースホステル」に到着し、早速、洗濯をする。
同室のオートバイライダーの人に今回で北海道1周を完了したと伝えると祝杯を挙げようとなり外の居酒屋へ行き夕食兼祝賀会となった。長野に住んでいる方だった。学生時代はヨット部の主将だったそうで私の船乗り時代の話も含め盛り上がった。
さらに、戦争、平和、軍備、仕事など語り合った。
YH「モシリバ」


5日目:8月5日(火)走行距離/累計30km/389km
YH ⇒ フェリーターミナル ⇒ ヤマト運輸 ⇒ 稚内空港 ⇒ 副港市場 ⇒ YH 
宿泊:稚内モシリパユースホステル 
2003年7月に行った第1回北海道自転車旅行は稚内から出発した。稚内空港から出発し宗谷岬へ行ったので気持ちの上では稚内市内で終わりたくなかった。従って、稚内空港まで行くことにした。又、2つのサイドバッグと礼文・利尻へ持って行かない衣類や本日買うお土産などをヤマト運輸の営業所から自宅へ送ることも決めていた。

北防波堤ドーム
サハリン行きフェリー

まず北防波堤ドームを見学する。
70本の太い円柱に支えられた半アーチ型の防波堤で若いバイクライダー達がドームの中央あたりでテントにいた。ここなら雨風は心配ないだろう

次にフェリーターミナルへ行く。ターミナル内の売店で孫たちへのお土産を買う。礼文島用の岸壁と利尻島用の岸壁があり夏場は利用するフェリー便が多い。国際旅客ターミナルからサハリン州のコルサコフ(旧大泊)へ向かうフェリーが出航して行く。

ヤマト運輸でバッグなどを1箱にして自宅へ送る。「稚内はお盆を過ぎると寒くなりますよ」と係りの女性が言う。

稚内空港入口
稚内/樺太航路図
宗谷岬方面と稚内空港方面の道路標識を見て空港への道を走る。5年前はここから宗谷岬方面へ自転車を走らせたのだと感慨深いものがあった。空港入口を示す看板にロシア語も出ている。
空港ビルの壁に自転車を立てかける。5年前、まさしくこの場所で自転車を組み立てて北海道を走り出したのだ。空港ビルで絵葉書を買い食堂へ行った。食事の後に絵葉書を書く。

YHへ戻る途中に「副港市場」があったので立ち寄る。内部はレトロ調で昔懐かしい雰囲気を出している。海産物売り場、樺太へ連絡船が通っていた頃の船客待合室、樺太とサハリンに関する展示室などがありじっくり見て回った。稚泊(ちはく)航路:稚内と大泊(樺太)を結び航海時間8時間。稚斗(ちと)航路:稚内と本斗(樺太西海岸)を結び航海時間7時間。冬場は結氷し大変だったようだ。大泊、豊原、真岡、本斗などの町の説明もある。
その他、樺太の探検家であった間宮林蔵、松田伝十郎や最上徳内についてのコーナーもあった。
昔の乗船改札口 宗谷丸 壱岐丸

YHへ戻り自転車を置いて高台にある稚内公園へ歩いて行った。「氷雪の門」や「九人の乙女の像」がある。「氷雪の門」は樺太で亡くなった人々の慰霊碑である。「九人の乙女の像」は終戦間際の1945年(昭和20年)夏、真岡町の電話局の9人の女性交換手がソ連軍が来る前に青酸カリにより自決した事件を悼むものだ。測量の碑(東経141度40分17.0427秒 北緯45度25分07.0684秒 標高102.000m)があり「サハリン・クリリオン岬62km 東京1,090km 沖縄県石垣市2,813km」とある。高台なので稚内の市街がよく見える。晴れていればサハリンも見えるのだろう。
氷雪の門 氷雪の門碑
動画:稚内公園の高台から



8月6日〜8月10日


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