7月15日〜7月22日


1日目:7月15日(日) 曇のち雨 走行距離/累計70km/70km
苫小牧 ⇒ 白老(しらおい)⇒ 登別 ⇒ 室蘭
宿泊:室蘭ユースホステル(YH)
昨日、飛行機で羽田から千歳へ。千歳駅から電車に乗り苫小牧駅へ移動し苫小牧の旅館に着いた。宅急便で旅館へ送っておいた輪行袋(自転車入りの袋)を受け取り組み立てた。

台風4号の影響で雨の予報なのでウィンドブレーカーを着て走り出す。2年振りの北海道の自転車旅行なので心が躍る。しばらく走ってから雨が強くなる。本格的な雨具は今晩泊まる室蘭ユースホステル(YH)へ宅急便で送ってあるので仕方なくウィンドブレカーもズボンも濡れたままで走る。社台ファーム(牧場)近くのコンビニでビニールの簡単な雨具(上下)を買いこの雨具に着替えた。

白老町のポロトコタンへ着く。「アイヌ民族博物館」を見学するが韓国、台湾、シンガポールからの観光客が多い。
小学生の頃に学校でアイヌの人々の映画を観たことを思い出した。
民族楽器(ムックリ)の演奏、ピリカの唄や踊りを見る。司会者の語りが軽妙であり見学者の笑いを誘っていた。白老の「綾小路きみまろ」!?
アイヌ民族初の国会議員となりアイヌ新法の制定に尽くした萱野茂(かやの しげる)さんの言葉が忘れられない。
「アイヌは自然のすべてに手をつけず自然からの利子で暮らしている。今の日本人は元本にまで手を出している」
白老・ポロトコタン 白老・ポロトコタン 綾小路きみまろ?
動画:祭りの儀式

室蘭YH
国道36号線に出て太平洋を見ながら走る。食堂で「ジンギスカン丼」の昼食を取る。

YHへ到着し家から送っておいた宅急便の荷物を受け取る。
高台にあるYHから歩いて東室蘭駅方面へ行く。駅前のラーメン屋へ入る。ビールを頼むが置いていないので、この店を出て近くの別の店へ入る。「鳥ザンギカレーラーメン」、「鳥ザンギ定食」と書いてある。店の人に聞くと、鳥ザンキは鳥のから揚げとのこと。生ビールと、この店でラーメンと思ったが最初のラーメン屋へ戻り味噌ラーメンを食べる。




2日目:7月16日(月) 晴 走行距離/累計25km/95km
室蘭YH ⇒ 地球岬 ⇒ 室蘭YH ⇒ いとこ(従兄)の家
宿泊:いとこ(従兄)の家(室蘭市)
朝4時頃に目が覚め窓の外を見ると朝日が昇るところ。第1回旅行の時(2003年7月)にサロマ湖で見て以来の朝日。
iPodにあるサラ・ブライトマンの曲を聴きながら日の出を眺める。

朝食前に自転車で地球岬まで行く。
地球岬からは雄大な風景が楽しめた。荷物を満載した自転車に乗っていた三十代の男性(奈良出身)と自転車旅行のあれこれを話す。彼は日本一周中。
地球岬でゆっくりしたかったが朝食に間に合うようYHへ戻った。

室蘭に住む従兄(父方)の家で泊まるので、 待ち合わせ場所は彼の勤務する「室蘭工業大」の正門とした。彼と会い大学の構内を彼の自転車について進む。
朝日 地球岬 室蘭工業大学正門

彼の家で奥さんに挨拶の後、彼の車で洞爺湖までドライブ。市内から白鳥大橋を渡り洞爺湖へ向かう。
有珠山と昭和新山を見て洞爺湖へ出た。牧場(レークヒルファーム)の美味しいアイスクリームを中年のおじさん二人で食べる。
来年のサミットの会場となる「洞爺湖ウィンザーホテル」の入り口まで行ったが中へは入らなかった。
洞爺湖の奥にある北湯沢温泉郷の「湯元名水亭」で日帰り入浴を楽しむ。

市内へ入りラジオのニュースが「新潟の柏崎で地震があり住民は小学校へ避難している」と言っている。3年前に中越地震があったばかりなのに、又、新潟で大きな地震が起きるとは驚きだ。

彼の家へ戻り奥さんも交え飲みながら昔話をして夜遅くまで盛り上がった。


3日目:7月17日(火) 晴のち曇 走行距離/累計92km/187km
いとこ(従兄)の家 ⇒ 伊達 ⇒ 豊浦 ⇒ 長万部
宿泊:民宿「シャマンの里」(長万部町)
有珠山
豊浦・文学碑公園
朝起きたら少々二日酔い気味。奥さんから「おにぎり」をいただき家を出発。国道37号線を伊達方面へ進む。白鳥大橋が見える公園で小休止。彼に教わったように黄金(こがね)あたりで国道を離れ並行して走っている海側の道を進む。確かに車が少なく快適!

室蘭本線の「伊達紋別駅」を過ぎて国道に戻ると有珠山と昭和新山が見えてくる。「道の駅とようら」で奥さんからいただいた「おにぎり」で昼食。道の駅を出てしばらくして国道を離れ海岸線の道を行く。この選択は正解だった。大岸に出て海岸沿いの道を走るとキャンプ場があちこちにある。

「文学碑公園」があり休憩。与謝野晶子や斉藤茂吉などの文人や歌人の歌碑や随筆碑が建っている。礼文駅を過ぎて国道へ合流する。礼文華トンネル、静狩峠と続く峠越えは厳しかったが、峠から長万部へ向けての下りは快適! 海岸へ出ると一直線(約9km)で走っても道が終わらない。

民宿に到着。10畳の広い和室。食堂で夕食中、おじさんが入って来たので話を聞く。木古内(きこない)(函館と松前の間にある町)出身の65才でこの宿に長期滞在している。仕事を聞いたら「チェーンソー・マン」との返事。すぐに理解出来なかった。「チェーンソー」は木材を切るときのエンジン駆動の鋸なので知っているが、それに「マン」をつけて「チェーンソー・マン」とした職業名は初めて聞いた。建材やパルプ用の「とど松」を切る様子を説明してくれた。


4日目:7月18日(水) 曇 走行距離/累計98km/285km
長万部 ⇒ 八雲 ⇒ 森 ⇒ 鹿部
宿泊:民宿大洋荘(鹿部町)
おじさんのチェ−ンソーが廊下においてある。

民宿を出発し長万部駅を通過。国縫(くんぬい)の地名を見て私のお客さんの工場が確か共和町国縫と気がつく。国道5号線は別名「大沼国道」であり大沼公園と駒ケ岳が特徴。八雲町へ入るが牧草地帯にあるKFCカーネル牧場へはかなり長い上りなので断念。

「榎本武揚上陸の地」の看板があり立ち寄る。出発前の下調べでは分からず、まったく偶然に見つけた。
「榎本軍鷲ノ木上陸地跡」の碑文
「明治元年旧10月20日、噴火湾中央部の鷲ノ木村に榎本武揚(旧驀臣)艦隊が上陸。旗艦「開陽丸」ほか七艦(回天、播龍、長鯨、神達、鳳凰、回春、大江)で、このときの人員は、榎本はじめ松井太郎、大島圭介、土方歳三、古屋佐久左衛門ら二千人以上と言われ、上陸したのは主に陸兵」。
案内看板 榎本武揚上陸の地 説明板

「道の駅YOU・遊・もり」へ寄りスタンプ帳にスタンプを押した後、海方向へ下り森駅へ行き、売店で「いかめし」を買う。
森町の漁港に腰を下ろし森駅で買った「いかめし弁当」の昼食。岸壁で大勢の人が釣りをしている。小さな魚(名前:はつめ)が釣れていた。前方に駒ケ岳を見ながら走る。
森駅 いかめし弁当 駒ケ岳

鹿部町に入り旅館「太洋荘」に到着。三代目の若い夫婦が経営している。主人曰く「ビール飲むのでしたら前のコンビニで買っていいですよ。うちのは高くて誰も飲んでくれないので・・・」お言葉に甘えてコンビニでロング缶2本を買う。
宿泊している工事関係の人達が食堂で宴会をするので部屋食になる。イカ刺しが旨い! ビールも旨い!


5日目:7月19日(木) 曇 走行距離/累計100km/385km
鹿部 ⇒ 南茅部(みなみかやべ)⇒ 椴法華(とどほっけ)⇒ 恵山岬 ⇒ 湯の川温泉 ⇒ 函館
宿泊:函館ユースゲストハウス
北斗号カッター
南茅部・昆布の乾燥
朝食前に自転車で散策すると海側に「北斗船」のモニュメントとカッターボート(ライフボート)の「北斗号」があった。船村徹作曲、星野哲郎作詞、鳥羽一郎の歌った「北斗船」を記念した小さな公園だった。

宿へ戻り朝食。主人の父親の代までは、公共工事の関係者の宿泊が多かったとのこと。「地デジ放送になったら13部屋のテレビの買い替えに頭が痛い」と嘆いていた。頼んでいないのに奥さんからオニギリをいただく。間欠泉へ寄り足湯に浸かりながら間欠泉の噴き上げを見る。



椴法華
浜ラーメン
南茅部町(現在、函館市と合併)に入ると昆布があちこちの作業場に干してある。さらに乾燥させる為に小屋でバーナーの火炎で乾燥している。小屋の前を通る度に昆布の良い匂いがするが、原油高のおり燃料代も相当かかるのだろう。

椴法華(とどほっけ)村(現在、函館市と合併)の「銚子トンネル」(2,617m)は一段高く幅もある歩道にフェンスがあり、しかも下りで良かった。トンネルを出た銚子ビーチの「ミナト食堂」(店主の名前:湊)で浜ラーメンを食べていると、新潟ナンバーの車から老夫婦が食堂へ入ってきて隣のデーブルに座る。話してみると三条(新潟県)の80代の方で新潟からフェリーで小樽へ着いて道内をあちこち旅行しているとのこと。私が「佐渡の両津出身です」と言うと驚いてご主人が「両津の夷に知り合いがいる」と話す。この広い北海道で新潟の人と出会い、しかも両津の夷に知り合いがいるとは! 

国道278号線から離れ恵山岬への道へ入る。恵山岬への急坂は自転車を押して登る。恵山岬の灯台で休憩。
恵山岬

国道278号線まで戻り坂道を上っていたらキタキツネが道路を横切って行った。霧雨で寒かったので「道の駅なとわ・えさん」に寄る。熱いコ−ヒーで体が温まる。湯の川温泉を経て「啄木小公園」で休憩。啄木像の前で写真を撮ったが、あいにくの曇り空で海も荒れていてバックの函館山も霞んでいた。迷いながら「函館ユースゲストハウス」へ到着。

YHお勧めの店の中から居酒屋の「R」へ行く。
「まずビール」が普通だが、寒いので「熱燗一本」を頼む。ご主人と四方山話。
デンバーに住んでいる娘さんのところへ遊びに行った時、娘さんに「お父さん、日本語なまりの英語で子供達に話しかけないでよ」と注意されたと笑っていた。
お孫さんは9月11日生まれだが世界貿易センタービルの崩壊事件の日と同じなので9月12日生まれにした。当時はほとんどの親が子供の誕生日を変えたとのこと。


6日目:7月20日(金)晴 走行距離/累計0km/385km
函館ユースゲストハウス ⇒ 函館山 ⇒ ハリスト正教会・カトリック元町教会 ⇒ 北方歴史資料館 ⇒ 高田屋嘉兵衛資料館 ⇒ 朝市 - いとこ(従姉)の家 ⇒ 函館ユースゲストハウス
宿泊:函館ユースゲストハウス
室蘭で会った従兄の姉が函館に住んでいるので函館へ行った際に会いたい旨室蘭から連絡をしておいた。従姉の家へ遊びに行くのは午後なので午前中市内見学をする。

ロープウェーで函館山へ行き山から市内を一望する。
1967年(昭和42年)、大学1年生の時に練習船「銀河丸」で函館に寄港した時に函館に住む叔母さんと市内観光バスに乗り函館山で記念撮影をした。あれからもう40年が経った! 1975年(昭和50年)に新婚旅行で北海道へ来た時も叔母さんにお会いした。その叔母さんも亡くなった。

教会を見学の後、坂道を下り「ハリスト正教会」を見て「北方歴史資料館」へ入る。幕末のロシアとの交流や事件に関する資料、特に高田屋嘉兵衛のロシアとの外交交渉の資料、が多くあり興味深かった。海岸の方にある「高田屋嘉兵衛資料館」へも立ち寄る。彼の持ち船の船頭旗が場内に立て掛けてあった。
函館山からの眺望 ハリスト正教会 高田屋嘉兵衛資料館

赤レンガ倉庫街の前を通り朝市へ行くが、時間が遅かったので店仕舞いしつつある店も多い。
「きくよ食堂」で好きな魚貝類を3種類選ぶ三色丼を頼む。うに/いくら/かに丼を食べたが店内に著名人の色紙が多くある。
赤レンガ館 朝市 三色丼

駅前から市電に乗り最寄の電停で下車。待ち合わせの「函館中部高校」の正門前で従姉に会い家へ行く。新婚旅行で函館へ来た時に従姉と会ったが、それ以来の対面である。旦那さんともお酒を飲みながら楽しく歓談した。又、孫娘もいて小生の孫を思い出した。函館ユースゲストハウスの門限が10時なので従姉の家を出る。
市電に乗ったが酔っている為に眠ってしまい「函館どっく」まで行き結局タクシーでYHへ戻る。
市電


7日目:7月21日(土) 曇のち雨 走行距離/累計120km/505km
函館ユースゲストハウス ⇒ 七重浜 ⇒ 木古内(きこない)⇒ 知内(しりうち)⇒ 福島 ⇒ 松前 ⇒ 江良
宿泊:民宿「ささき」(松前町・江良)
函館ユースゲストハウス
出発前にゲストハウスのラウンジでコーヒーを飲みながら絵葉書を書いた。外国の若い男性がいて彼はドイツ人。東京の慈恵医大で3カ月の研修を終えて帰国する前に北海道を旅しているとのこと。彼とイラクに対するアメリカ人の考え方やアメリカ中心主義につきお互いに思っていることを話す。英語での会話だったがアメリカ英語でなかったのが救い?。帰国後に卒業試験があり外科医が希望。

国道228号線を走る。途中、遠くのフェリー埠頭に大型客船の「飛鳥?」が見える。確か神戸出身の同期生が乗船しているはずだが埠頭まで遠いし、又、今日は松前町まで約100km走るので訪船するのは諦めた。青森へ行くフェリーが出港して行く。

「洞爺丸慰霊碑」があり立ち寄る。ここは是非とも見たい場所だった。大きな記念碑の碑文「現し世の 試練超えしみ魂よねむりませ かぎりなき浄福の空 ああ攻現やよろ波や つぎつげよわれらが祈りとこしえに」。別の小さな碑の歌「きみ在せば いかに言はまし 海峡の 真下の奇跡 はたせし今を」(青函トンネル開通に際し)。それぞれの碑の前で合掌。

洞爺丸海難事故のあらましは次の通り。
青函連絡船の洞爺丸が昭和29年9月26日に台風10号(後に洞爺丸台風と呼ばれる)の直撃を受け函館港から約5kmのところで航行を中止。船長は近くの岩礁に座礁させて船を止めることを決意。七重浜の沖で転覆。犠牲者1,155名。洞爺丸以外に青函連絡の貨物船も犠牲になった。第11青函丸 90名死亡、北見丸 70名死亡、日高丸 56名死亡、十勝丸 57名死亡。

この海難事故をきっかけに青函トンネルの構想が生まれ、トンネルは昭和63年(1988年)3月13日に開通し青函連絡船は80年に及ぶ歴史を終えた。後年、本海難事故をモチーフに水上勉が「飢餓海峡」の小説を書いている。
洞爺丸慰霊碑 洞爺丸慰霊碑

函館山から遠ざかるにつれて函館山そのものが一つの島のように見える。木古内町(きこないちょう)に入る。右手にトラピスト修道院の看板があるが、修道院までは国道から離れしかも上り坂なので通過。

咸臨丸・モニュメント
咸臨丸・航路図
小さな帆船が見える。 しかしなぜここに?? 説明文を読んで「咸臨丸」のミニチュアモニュメントとわかった。森町の「榎本武揚上陸の地」と同じくガイドブックに載っていない場所であり新鮮な驚きだった。「咸臨丸」と言えば日本で初めて太平洋を横断した軍艦として有名だが最後は全く知らなかった。「栄光と悲劇の歴史物語 咸臨丸」の説明文:明治4年(1871年)9月20日(旧暦)、ここサラキ岬沖で座礁、沈没。徳川幕府の軍艦から北海道への輸送船となり数奇な運命をたどる。北海道移住を余儀なくされた仙台藩片倉小十郎(白石)家臣団401名を乗せ仙台の寒風沢を出航。函館経由で小樽へ行く途中に暴風雨に遭い座礁。付近の住民が気がついて翌朝までに全員を救助、犠牲者は無かった。その後、沈没

福島町への峠越えの坂道を進むと、「道の駅しりうち」があり休憩。演歌歌手の北島三郎の出身地でありサブちゃんの歌が流れている。鼻を広げたサブちゃんの顔がドアップのスタンプ!

福島町の中心街に「青函トンネル記念館」、「千代の富士記念館」や「道の駅横綱の里ふくしま」があるが、雨なので何処へも寄らず松前町の民宿へ急ぐ。松前城が遠くに見える松前橋から民宿へTELを入れると「そこからまだ20km位先」との返事。そう言えば咸臨丸のモニュメントから民宿へ予約を入れた時に「うちは江差よりにありますから」と言っていた。ここまで約100km走ってきてこれから雨の中をさらに20km行くのですか!? 

民宿は由良という部落の漁港近くにあった。
夕食は食堂で一人のみ。鮭のチャンチャン焼き、刺身、煮魚、焼き魚、貝類があれこれあり美味しかった。
夕食

部屋でアジアカップサッカーの日本対オーストラリアを見る。PK戦となりゴールキーパーの川口が相手の一人目と二人目のキックを止める。高原が失敗したが中沢が決めて日本の勝ち、他の部屋からも歓声が上がる。


8日目:7月22日(日) 雨のち曇 走行距離/累計85km/590km
松前・江良 ⇒ 上の国(かみのくに)⇒ 江差 ⇒ 乙部(おとべ)⇒ 熊石(くまいし)
宿泊:民宿「ささや」(熊石町)
民宿を出る時に雨だったので雨具を着て出発。「道の駅上の国もんじゅ」にて休憩。岬から海に向かい江差追分を練習する年配の男性と女性がいた。

江差へ向かう峠で「熊出没注意」の看板があり、自転車のベルを鳴らし熊除けの合図とする。

開陽丸
資料館
江差の町へ入る。この町は開陽丸の関連施設があり寄りたいと思っていた。
開陽丸は、慶応2年(1866年)8月にオランダの造船所で建造され当時最強を誇った機帆走軍艦であった。幕府海軍総裁の榎本武揚が蝦夷共和国建国のために決起、戊辰戦争の末の慶応4年(明治元年)(1868年)11月に函館を出航し江差を占拠していた陸兵(幕府軍)を援護するために江差沖に到着。11月15日夜半、暴風雪のために座礁、10日後に沈没。
大きな黒い帆船が接岸している。 この船は平成2年に復元(オランダに残っていた設計原図をもとに)されたもので平成15年にリニューアルしている。船の内部に引き揚げられた遺物(砲、砲弾、鉄砲、銃弾、生活用品など)が展示されていた。開陽丸の歴史をビデオで見た。当時の日本及びオランダの状況がよく理解出来た。当時の造船先進国のオランダで榎本武揚はじめ日本の留学生達は航海・機関・造船の勉学に励んだことだろう。 オランダの建物風の管理棟には榎本武揚らの資料や写真があり、庭に引き揚げた大砲が2門置いてある。
開陽丸の概要
満載排水量 2,590トン、蒸気機関 2シリンタ゛ー横置トランクヒ゜ストン型 1基、出力 400馬力、ボイラ 角型煙管式 2基(安全弁圧力 20ホ゜ント゛/平方インチ =1.4kg/cm2)、プロペラ 2翼タンテ゛ム型 昇降式 1基(直径 4.826m 回転数 58回転/分)、乗組員 幕府の定めた乗組員数429人。

鰊御殿の「横山家」へ行く。
横山家は漁業、商業、廻船問屋を営んでいて200年以上の歴史がある。江戸時代の網元建築の鰊御殿であり北前船によって交流の深かった関西、京都の文化の香りを残している。母屋の通路を行くと二番蔵、三番蔵、四番蔵とあり、四番蔵のみ見学出来た。鰊漁が盛んだった頃に使用されていた生活用具や調度品などが陳列されていた。
土間の隣の建屋で名物の「鰊蕎麦」を注文する。
横山家 座敷 鰊蕎麦

今晩泊まる熊石の民宿までまだ40km位ある。トンネルがあり中で工事中。こちら側からの車は待機中だが係の人が私に先に片側を通ってよいと言うので走り出す。しばらくして待機していた車が後から何台か通過して行った。トンネルの途中にいる係の人が車が走り去った本道へ進めと言うので本道を走ったら出口側で待っていた車がこちらへ走り出して来た。危ないので側線側に自転車を停め車が通り過ぎてから走り出した。係の人の誘導が不十分で危ないところだった。

熊石の民宿に到着。お母さんと息子の二人でやっている。町にある温泉施設を修理する配管業者の人達が宿泊していた。



7月23日〜7月28日


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