平泉・下北半島

2018年7月29日~31日

一ノ関駅からバスに乗り須川温泉バス停まで行き、バス停から歩きだして栗駒山へ登る計画であった。
大僧正と小生は諸般の事情があり山歩きは断念。従って、今回は山歩き組の3人(松茸の介、山岳大師、韋駄天)と平泉組の2人(大僧正と小生)に別れ、初日の29日の夕方に一ノ関のホテルで2組が合流することになった。


1日目:7月29日(日)
東京駅 - (東北新幹線) → 一ノ関駅 - (東北本線) → 平泉駅 - (タクシー) → 毛越寺 - (タクシー) → 中尊寺 - (タクシー) → 太平洋戦史館 - (タクシー) → 平泉駅 - (東北本線)→ 一ノ関駅
宿泊:蔵ホテル一関
東京駅で盛岡行き東北新幹線に乗車し一ノ関駅まで行く。大僧正は大宮駅から乗車することになっている。大宮駅で停車のあと発車してから、小生の座席番号をケイタイで大僧正にメールする。返事がないのでさらに2~3回メールしたが返事なし。さては大宮駅で乗り遅れたかな? 一ノ関駅で下車し在来線へ乗り換える為に新幹線改札口を出たら大僧正がいた! 小生へ返事がなかったことを聞いたら、「ま、一ノ関駅で会えるので返事しなくていいか」と思ったとのこと。やはり高僧は我々凡人と考え方がどこか違うのだろうな。東北本線の下りに乗車し平泉駅で下車。駅内の観光案内所でパンフを入手し駅前の食堂「泉屋」で昼食をとった。
毛越寺までレンタサイクルで行けるが暑いし中尊寺や太平洋戦史館へも行くのでタクシーにした。2人とも軟弱だなぁ。

毛越寺(もうつうじ)
世界文化遺産であり国の特別史跡・特別名勝の天台宗のお寺。嘉祥3年(850年)に慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)が開山した。
奥州藤原氏の二代基衡(もとひら)から三代秀衡(ひでひら)の時代に多くの伽藍が造営された。
寺の名前の読み方についてパンフに次のように書いてある。
「通常、越という字をツウとは読みません。越は慣用音でオツと読みます。従ってモウオツジがモウツジになり、更にモウツウジに変化したものです」

広大な境内の中に池(大泉が池)があり、庭園も見事だ。当時の人たちはこの池と庭園を見て極楽浄土を感じたことだろう。
大僧正から有難いお言葉が出るのではと期待したがいつもの冗談以外は何も出なかった。

中尊寺(ちゅうそんじ)
毛越寺と同じく世界文化遺産の天台宗のお寺で、やはり慈覚大師円仁が開山した。
奥州藤原氏の初代清衡(きよひら)が大伽藍を造営した。
毛越寺の前でタクシー会社へ電話しタクシーを呼ぶ。間もなくしてタクシーが来て中尊寺へ向かう。運転手さんが「裏門から入った方が中の表参道を下って歩けるので楽ですよ」と言うのでその様にした。
讃衡蔵(さんこうぞう)へ行き、国宝・重要文化財や仏像・仏具・経典・書画などを拝観する。
延亨3年(1746年)に建てられた句碑がある。松尾芭蕉が「おくの細道」で詠んだ「五月雨の降り残してや光堂」。

金色堂(こんじきどう)を見学する。内部は撮影不可なのでじっくりと見る。ご本尊の阿弥陀如来が中央で左右に観音菩薩と勢至菩薩の立像。さらに六体の像がご本尊の後ろに控えている。各種の細工や彫金、漆工芸などで飾られている。後ろの祭壇には初代清衡公や二代基衡公、三代秀衡公が祭られている。
内部の写真:パンフより

本堂をお参り後に表参道月見坂を正門に向かい歩く。結構 傾斜のある坂で運転手さんの言ったことを納得した。

太平洋戦史館(たいへいようせんしかん)
中尊寺の駐車場近くにタクシー乗場がありタクシーに乗り太平洋戦史館へ向かう。
この戦史館は前から行きたいと思っていた。東部ニューギニア(今のパプアニューギニア)で戦病死した叔父の足跡を調べている時にこの戦史館を知り、又、友人のHさん(同じ市内在住)と話していて彼が会員であることも知った。彼の伯父は、陸軍の重爆撃機搭乗員で西部ニューギニア(今のインドネシア・パプア州)のホーランジア陸軍飛行場にいた時に米軍の空襲により待機中の飛行場で戦死した。彼は東京都主催の慰霊団に参加し現地を訪問している。
この戦史館の見学は事前予約制で数日前に予約しておいた。特定非営利活動法人であり、太平洋戦争中の激戦地だったニューギニア等で戦死・戦病死・餓死した兵士たちの資料館である。館長の岩淵宜輝(いわぶち のぶてる)さんの父親は、東部ニューギニアで戦死した。岩淵さんたちは、「戦没者の慰霊を忘れてはいけない」「国の責任で遺骨を収集し日本へ戻してあげないといけない」と主張している。
小生の叔父の遺骨も戻って来ていない。国の命令ではるかニューギニアまで行って戦病死、国は遺骨を出来るだけ収集する責任がある。
館内に現地で回収した色々な遺留品が展示されている。

岩淵さんとの話で印象に残ったこと。

・ガデリウスを知っていた。外資系事務機メーカーの営業マン時代にガデリウスを担当していたとのこと。世間は狭い!
・戦後 航海訓練所の「大成丸」が実習生を乗せてソロモン諸島へ遠洋航海した時に遺骨収集を行ったことを知っていた。
・三橋國民(みつはし くにたみ)さん(彫刻家・画家)を知っていた。三橋さんは西部ニューギニアで戦闘中に重傷を負いながら分隊員40人中2人の生き残りとなり戦後 生還。小生は2009年に三橋さんの「64年目の夏 鎮魂のニューギニア」の講演会を聴いて感銘を受けた。会場で三橋さんの著書「鳥の詩 死の島からの生還」角川文庫を買い、三橋さんから本にサインしてもらった。当時、三橋さんは町田に住んでいて小生の叔父の件でご自宅へ行き当時のニューギニアの話を聞く予定だった。しかし、残念ながら三橋さんの体調が悪くなり訪問は中止となった。
※三橋さんは2018年2月に97歳で亡くなった。合掌



岩淵さんとの話に夢中になってしまい館内の写真を撮るのを忘れてしまった。
※太平洋戦史館:http://ww2museum.jp/
※小生の叔父についてはホームページの太平洋戦争の欄に「叔父(陸軍船舶工兵)」:https://kami373.jp/otokichi3.html

戦史館でタクシーを呼んでもらい平泉駅へ戻る。
小生は貴重な時間を過ごすことが出来て良かったが、果たして大僧正はどう感じたのだろうか?
平泉駅で東北本線の上りの電車に乗り一ノ関駅へ戻った。駅から近くのホテルで登山組の3人と会う。何日か前の大雨の影響で途中の沢が激流となっていて登山は断念したとのこと。
全員そろったので近くの居酒屋へ行き飲み会兼夕食。


2日目:7月30日(月)
一ノ関駅 - (東北新幹線) → 盛岡駅 - (東北新幹線) → 八戸駅 - (青い森鉄道) → 野辺地駅 - (JR大湊線) → 下北駅 - (レンタカー) → 尻屋崎 → 東通原発 → 恐山
宿泊:宿坊「吉祥閣」

一ノ関駅で昼食用の弁当などを買って盛岡行きの新幹線に乗車。盛岡駅から次の新幹線に乗り換え八戸駅へ行く。八戸駅で第三セクターの「青い森鉄道」に乗り換えて野辺地駅まで行くが、のんびりとしたローカル線の旅を味わう。野辺地駅でJR大湊線の電車に乗り換える。
電車は陸奥湾沿いに走るローカル線でのんびりとする。途中に横浜の名前の地名があり「横浜駅」があった。神奈川県の横浜と何か繋がりがあるのだろうか。
終点は「むつ駅」だが一つ手前の「下北駅」で下車。駅前のレンタカー店でプリウスを借りて下北半島の最東端にある尻屋崎(しりやざき)へ向けてドライブ。
どこかで昼食を食べようと探していたら海沿いに「海峡善食堂」があり入る。席から穏やかな海が見えメニューに漁師丼があり注文する。具沢山の丼にアラ汁もついていて美味しかった。この店にして大正解! 
浜辺へ下りてみようとしたら店の人が浜辺へ通じる細道まで案内してくれた。穏やかな海で大間崎方面及び北海道が見える。しかし、冬場は荒れた厳しい海になるのだろう。

尻屋崎に到着。参観料を払い尻屋崎灯台へ歩く。入口の銘板に「ILLMINATED 20th OCT 1876 明治9年丙子 十月廿日 初」と書いてある。灯台内の螺旋階段を上へ行くと最上部へ出た。上からの眺めはやはり雄大だ。
灯台の上から眺めた風景の中で印象的な2つを覚えている。1つは2009年7月にスウェーデン南部を自転車旅行した時にバルト海のエーランド島のヤーン灯台からの眺め。もう1つは2011年7月に沖縄本島・八重山諸島を自転車旅行した時に宮古島の東平安名崎灯台からの眺め。

尻屋崎周辺の牧草地に馬が放牧されている。この馬は寒立馬(かんだちめ)として知られている。昔は農用馬として重用されていてどの馬も太く逞しい。やはり冬場は厳しいこの地で生き残るために血統として続いてきたのだろう。近づいても逃げもせずおとなしい。

尻屋崎から今晩 宿泊する恐山へ行く前に東通村(ひがしどおりむら)にある原発を見ることになった。
福島第一原発事故で東通原発は運転中の原発を停止し建設も中断、そして新しい原発も未着工の状態である。最初の計画になかったが話のタネに見ようとなり、鉄条網の長いフェンスに囲まれている原発近くの道を走る。大通りから原発へ行く専用道路があり、その道路へ入る箇所に看板があり「関係者以外立ち入り禁止」と出ていた。しばらく行くと正門に出た。車の中から見るつもりだったが降りて正門前まで歩く。警備会社の警備員が詰所から我々の方へ来た。
しばらくして、警官(青森県警の機動隊員)が門の外へ3~4人出てきて我々に「どこから来たのですか」と質問してくる。どうも警備員が警察官へ連絡したようだ。あまり関わり合いになると面倒なので車へ引き上げる。いつしか進行方向を警察車両がふさいでいる。離れた場所に隊長らしき警官が何人かの警官に指示している。車の周りを警官が取り囲んで我々の身分・正体を確認しようとしている。どうやら我々を反原発の団体と思っているようだ。
何もしていないのに警官に不審尋問されるのは気分のいいものでない。ただ過剰に反応すると場合によっては公務執行妨害で我々全員が拘束されてしまう。何とか無罪放免?となり原発の場所から離れることが出来た。全員 ほっと一安心。

原発現場で予想以上に時間を使ってしまい恐山への到着が遅れてしまうのが心配だ。むつ市内を経由し県道むつ恐山公園線の山道を進み恐山に到着。
恐山は比叡山、高野山とともに日本三大霊場に数えられている。レンタカーを駐車場に置いて入山受付所へ行き入山料と宿坊「吉祥閣」の宿泊料を払う。総門から入り中にある山門から宿坊へ行く。

大きな部屋でくつろぐ。このお寺の南直哉(みなみ じきや)禅僧の本が置いてありパラパラと読む。南禅僧は前にテレビの番組で見たことがある。
夕食となり食堂へ行くと宿泊客全員が一緒。座敷でお膳で食べるのでなく大きな長方形のテーブルに各グループ毎に配膳してありイスに座って食べる。
禅僧は食事の前に「五観の偈」(ごかんのげ)というお経を唱える。箸入れの袋にそのお経が書いてあり、前に立っている僧侶がまず発声した後に我々が発声する。
「五観の偈」の内容
・一には功の多少を計り、彼の来所を量る。(こうのたしょうをはかり、かのらいしょをはかる)
・二には己が徳行の、全缺を忖って供に応ず。(おのれがとくぎょうの、ぜんけつをはかってくにおうず)
・三には心を防ぎ過を離るることは、貧等を宗とす。(しんをふせぎとがをはなるることは、とんとうをしゅうとす)
・四には正に良薬を事とするは、形枯を療ぜんがためなり。(まさにりょうやくをこととするは、ぎょうこをりょうぜんがためなり)
・五には成道のための故に、いま此の食を受く。(じょうどうのためのゆえに、いまこのしきをうく)
この五つを全員で唱えてから食事を始める。

「五観の偈」の意味するところは次の通り。
・一 この食物が食膳に運ばれるまでには、多くの人々の労苦と天地の恵みがあったことを思い、感謝します
・二 自分の行いが食事をいただくにふさわしいか、はんせいしていただきます
・三 この食事をいただくにあたって、貧る心お起こさず、好き嫌いをいいません
・四 この食物は生命を保ち、日々をよりよく生きるために必要な良薬と心得ていただきます
・五 日々の行いを通して真に平和で安らかなる心を得るために、この食事をいただきます

食事が終わると「願わくは此の功徳を以って、普く一切に及ぼし、我等と衆生と、皆共に仏道を成ぜんことを」と唱えて席を立つ。
俗人の我々にとっては満腹の感じがないが、この位が心身にはいいのだろうと自分を納得させる。

外へ出ると満天の星。部屋へ戻って一休みし雑談。外の露天風呂へ入りに行くことにしたが韋駄天と小生の2人だけで他の3人は入らないと言う。境内には強酸性の温泉が4つでそれぞれ離れた平屋にある。「薬師の湯」に入ると他に客はいなく2人だけ。物音一つしない静寂の中で湯につかる。夜の恐山のこの雰囲気の中で1人だけで露天風呂に入る勇気はない。怖かったが貴重な体験をした。


3日目:7月31日(火)
宿坊「吉祥閣」 → 大間岬 → 下北駅 - (JR大湊線) → 野辺地駅 - (青い森鉄道) → 八戸駅 - (東北新幹線)→ 東京駅
朝6時半から勤行があるので長い廊下を歩いてお堂へ向かう。歩いている時に年老いた女性と話した。彼女は気仙沼から来ているとのこと。2011年3月に東北地方を襲った大地震による津波で身内を亡くしているそうだ。毎年都合をつけて恐山へ供養に来ていると話す。お堂には南禅僧と2~3人の僧侶がいてお経を上げる。お経の途中で宿泊者の住所と名前を読みあげている。団体の場合は申し込んだ代表者のみ読んでいて、我々は山岳大師が代表者なので彼の住所と名前が読みあげられた。昨晩の夕食と同じく食前に「五観の偈」を唱えてからの朝食。

恐山のパンフにある説明文
今からおよそ千二百年の昔、慈覚大円仁さまによって開かれた霊場です。中国で修行中の若き日に見た夢のお告げに導かれての旅の果てに、この下北の地にたどり着かれました。そのとき、眼前にひろがるまさに霊山と呼ぶべき風光に感じ入られ、地蔵菩薩一体を彫刻し、本尊となさったのです。この地は、宇曾利湖(うそりこ)を中心に、釜臥山(かまぶせざん)、大尽山(おおづくしやま)、小尽山(こづくしやま)、北国山(ほっこpくざん)、屏風山(びょうぶやま)、剣の山(つるぎのやま)、地蔵山(じぞうやま)、鶏頭山(けいとうざん)の八峰がめぐり、その形あたかも花開く八葉の蓮華に。たとえられますまた火山ガスの噴出する岩肌の一帯は地獄に、そして湖をとりまく白砂の浜は極楽になぞらえられ、人々は、千年の長きにわたって、「人が死ねばお山に行く」という素朴な信仰と祈りを伝えてきたのです。

参拝順路に従って霊場を歩いてみる。境内の地図:恐山のパンフより


恐山で身を清めたので大間崎へ向かう。途中、駐在所の前を通る時、昨日の原発でのハプニングを思い出し車内で「我々の手配写真が出ているかな」と声が上がる。大間崎への海沿いの道を走る。本州最北端の町 大間町に入り漁港を通り過ぎて大間崎へ到着。
「本州最北端の碑」や「マグロモニュメント」、「石川啄木の碑」、「日本海軍特務艦 豊国丸戦死者忠霊碑」がある。沖合の小島に大間崎灯台が見える。
食堂を探すと店の前にお客さんが並んでいる「海峡の店マグロ屋」があった。人気店のようで30分以上待つとのことなので諦めて他の店を探す。「お食事処かもめ」へ入ると席が空いていてこの店にした。好きな魚介類(マグロやウニなど)を丼の上にのせる二色丼や三色丼がある。個人的には尻屋崎へ行く途中に入った「海峡善食堂」の漁師丼の方が良かった。

大間崎の後は仏ヶ浦へ寄る予定だったが、レンタカーを返す時間もあり仏ヶ浦は諦めて下北駅へ戻る。レンタカー店の近くで満タンにしてから店へ行った。
来た時と逆に下北駅でJR大湊線に乗車し野辺地駅まで。野辺地駅から青い森鉄道で八戸駅へ。八戸駅で時間があったので駅の蕎麦屋で蕎麦を食べた。妻へのお土産を買う。東北新幹線「はやぶさ40号」に乗車。大僧正と山岳大師は大宮駅で下車。松茸の介と韋駄天、小生の3人は東京駅で下車。お疲れ様でした。


旅を終えて
今回は山歩きは出来なかったが、大僧正と平泉を散策し楽しかった。都から遠く離れた東北の地に奥州藤原氏により絢爛な平泉文化があったことを認識した。
太平洋戦史館では岩淵さんの熱心な説明を受け本当にお会いできて良かった。下北半島の旅も山仲間の4人と一緒で涙と笑いの楽しいものだった。しかし、原発でのハプニングは冷や汗ものだったなあ。

大間崎にあった「豊国丸の慰霊碑」は知らなかった。どうしても船関係は気になってしまうので帰宅して調べたら次の通りだった。
豊国丸(ほうこくまる):1,274総トン数、全長66.87メートル、建造 / 鶴見製鉄造船、竣工 / 昭和11年 (1936)、船会社 / 日之出汽船
太平洋戦争中は、横須賀鎮守府所管の特設運送艦として北海道と横浜間の石炭輸送に従事した。昭和20年(1945)7月13日、宮城県塩釜から大湊へ向かい八戸で仮泊。14日朝、八戸飛行場へ米軍の爆撃を見て急遽 八戸を出港し米軍戦闘機と戦闘するも乗組員 (147人)の6割が戦死や負傷。その後、大間沖から大湊へ向かっていた午後2時頃、函館市街の攻撃を終えた米軍戦闘機の標的となり午後2時30分に沈没した。約48名が生き残っていたが海流に流されたり、海に沈んだりし多くが行方不明となった。結局、大畑海岸へたどり着いた者はわずか12名だけであった。乗組員147名中 135人が戦死、今でも約90名が大間沖の海で眠っている。
写真:「青森空襲を記録する会」発行の「大湊・下北空襲の記録」より

過去に東北地方を旅や登山したことをまとめてみる。
・昭和46年(1971年)6月:航海訓練所の練習船「青雲丸」で山田湾(岩手県山田町)に錨泊(税金を使っての航海実習であり旅ではないが)
・平成13年(2001年)3月:兄弟家族旅行で猪苗代湖、東山温泉、大内宿(福島県)
・平成21年(2009年)9月:出羽三山/羽黒山、月山、湯殿山、湯野浜温泉(山形県)
・平成23年(2011年)8月:白神岳、不老不死温泉、八甲田山、酸ヶ湯温泉(青森県)
・平成25年(2013年)9月:八幡平(岩手県)、玉川温泉、秋田駒ケ岳、乳頭温泉(秋田県)




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