母島


2010年5月12日〜15日 3泊4日 15日〜16日 船中1泊


二見港(父島)⇒ ははじま丸 ⇒ 沖港(母島)⇒ 島内見学 ⇒ 沖港 ⇒ 二見港 ⇒ おがさわら丸 ⇒ 竹芝桟橋


面積:20.2km2 (御蔵島 20.6km2)
人口:約440人

父島から南へ約50km
ははじま丸で約2時間10分

文久2年(1862)2月、外国奉行水野筑後守忠徳が咸臨丸で母島に渡り、住民代表ゼイムス・モットレイと会見、日本領土であることを通告した。

役所関係
小笠原支庁母島出張所
小笠原村役場母島支所
小笠原村母島診療所
母島簡易郵便局
警視庁小笠原警察署母島駐在所
小笠原村立母島小・中学校

ラム酒の工場がある。



6日目:5月12日(水)
二見港・ははじま丸船客待合所 ⇒ ははじま丸 ⇒ 沖港(母島)
宿泊:アンナビーチ母島YH
今日から母島へ行く。「ははじま丸」の出港まで時間があるので二見港の周辺を散策する。大きな鯨がジャンプしているモニュメントがある。大村海岸で小休止。

クジラのモニュメント

大村海岸

Kさんも母島へ行くので二人でYHを出て母島行きの「ははじま丸」の船客ターミナルへ歩く。「おがさわら丸」と「ははじま丸」が接岸している。Mさんもいて三人で乗船。 二見港を12:30に出港。

おが丸・ははじま丸

Kさん・Mさん

ははじま丸

甲板で「おが丸」と父島を見ながら時間を過ごす。ジョンビーチ、ジニービーチと南島の沖合いを通航する。かなり揺れているが甲板に座り海をのんびりと見る。 母島の北端が見えてきた。 船の横をイルカがジャンプし通り過ぎて行く。動画で撮影すればよかったのにと後悔する。

出港

父島南端

イルカ

沖港は小さい港だ。岸壁へ降りるスロープの下に消毒用のマットがありそこで靴を消毒してから岸壁に降り立った。YHの人が迎えに来ていてワゴン車に我々3人ともう1人の計4人が乗りYHへ行く。館内の説明を一通り聞いて小生とKさんとMさんの三人が一緒の部屋で荷物を整理。 KさんとMさんは、父島と同じようにレンタバイクで出かける。

沖港

アンナビーチ母島YH

YHから歩いて港方面へ散歩する。漁船が係留されている。船客ターミナルの傍に鯨のモニュメントがあるが、父島の二見港にもジャンプしたモニュメントがあった。青空に白い「ははじま丸」がのんびりとした島の風情を感じさせる。

鯨のモニュメント

ははじま丸

ロルフス・モットレイ夫妻の墓
夕日
海沿いの道を進み上りの坂から静沢(しずかざわ)の森遊歩道を歩く。本道の脇の遊歩道は林の中もあったり木々の間から海が見えたりで島へ来ている実感がある。
「沖村墓地 ロルフスとモットレイ夫妻の墓」の看板があったので、林の中を矢印の方向へ進むと墓地があった。
案内板:
「文久二年(1862)二月、江戸幕府外国奉行水野筑後守忠徳は咸臨丸で母島に渡り、住民代表ゼイムス・モットレイと会見、日本領土であることを通告し協力を得た。ゼイムスはイギリス人で妻ケテーはカナカ人で母島開拓史上重要な人物である。良志羅留晋(ロルフスラルフ)はドイツ生まれで、モットレイの遺産相続人になっている。ロース石は彼の発見になるもので、地名にも彼の名が残っている」
海軍の守備隊の跡地や砲台跡が海側の斜面にある。林の中で夕方でもあり他に誰もいなく不気味な感じだが跡地の細い道を歩く。海が見える所は断崖でノスリ(小型の鷹)が悠然と飛んでいた。夕日を眺める。

YHへ戻ると父島のYHで一緒だったHさん、女性の二人連れのGさんとAさんの3人がいた。Hさんはダイビングで10m潜り感動したそうだ。確か彼は泳げないと言っていたが、「体験ダイビング」に挑戦したとのこと。山男の彼が「ダイビングのライセンスを取ろうかな」と言っていて小笠原の海の魅力にはまったようだ。

夕食はYHの家族(オーナー夫妻、中学生の長女と次女とそれに3才の末娘)も一緒で、夕食を始める前に3才の「ゆき奈」ちゃんの発声があり、みんなで手を合わせて唱和する。ゆき奈ちゃんの発声「ぴちっとしてください ごいっしょに いただきま〜す」。活発で面白い子だ。長男は高校生で父島にいるとのこと。
中学生は14人(後日調べたら母島小・中学校は小学生22人、中学生14人の計36人)。ネイティブの英会話指導員もいる。
父島と母島の中学生は課外授業で硫黄島へ行くことになっているようだ。

ゆき奈ちゃん

夕食

夜9時からアオウミガメのレクチャーがあるので漁港の傍の「クラブノア母島」へ行く。アオウミガメの基本的な情報をクイズ形式で教えてくれる。座学終了後に海岸へ移動し、アオウミガメの産卵を観察に行く。残念ながら上陸してなく産卵は11時以降とのこと。深夜に来れば見られるかも知れないそうだが、眠いこともあり断念。


7日目:5月13日(木)
沖港周辺 ⇒ 南崎トレッキング ⇒ YH
宿泊:前日と同じYH
山男(and 海男?)のHさんは午前中に乳房山へ登ってから午後の「ははじま丸」で父島へ向かうとのこと。
朝食後に居間で本を読んでいるとゆき奈ちゃんが来て、「絵本を読んで」と言う。「大きなかぶ」など3〜4冊を読んであげた。居間にいたKさんが「子供に本を読んでやるのがうまいね〜」と言う。4人の孫に絵本を読んでいるので読むのは慣れている。

午後1時に船客待合所から南崎のトレッキングへ出発なので、それまでの時間を港周辺で過ごす。
ウミガメの産卵所の浜で女性2人が穴を掘って作業中。昨夜、産卵したので卵を掘り出してトレイにのせているところ。昨夜のレクチャーの参加者と言うとゲートを開けてくれ作業現場を見せてくれた。天地はそのままにと卵を持たせてくれた。ウミガメの卵を持ったのは初めてで感激した。

産卵で上陸した浜

卵を取り出す女性たち

トレイの上の卵

機銃の架台
弾薬庫
海面砲台の跡地を見て回る。
機銃の架台や弾薬庫が残っている。
説明文
「母島海面砲台の砲側弾薬庫が2カ所設置されている。安式四十口径十五糎砲に装填する砲弾や薬莢が保管されていた。砲座の周辺には九六式二十五粍単装機銃、同連装機銃(各架台の残骸のみ残存)が確認できる」
静沢から見た海

ははじま丸
品川ナンバーの車
鮫ケ崎展望台(沖村園地)でオニギリの昼食。ははじま丸が出航するのが見える。HさんとGさん、Aさんの3人が乗船しているはづなので展望台からタオルを振って見送る。(竹芝への帰りの船で3人と一緒だったので展望台からの見送りを聞いたら「気がついたが誰かわからなかった」とのこと)船客待合所でトレッキングのガイドさんに会い、ガイドさんの車で南へ走る。

「ここは都道最南端 北緯26度37分 東経142度11分」と看板に書いてある駐車場で車を降りる。島の車と同じくガイドさんの車も品川ナンバー。ここは都道241号線の最南端である。
都道最南端

ここから小富士・南崎へ約1時間のトレッキング。
ガイドさんは親切に樹木や草花を説明してくれる。特別天然記念物に指定されている固有種のハハジマメグロが飛んでいる。大きさはスズメぐらいだが目の周囲が三角形に黒くなっている。ハハジマメグロの動きが早くいい写真を撮れなかったのが残念。 摺鉢で小休止。ここは赤土がスリバチ状に露出している。
小富士の頂上手前は急な階段があり、はしごを登り頂上に到着。日本全国に故郷富士があるが、ここは日本一南にある故郷富士。三角点のあるところで休憩。
湾の向こうに南崎が見えフェンスの箇所がある。
南崎の先端は海鳥(カツオドリ、オオガミズナギドリ)の繁殖地だが人間が持ち込んだネコやグリーンアノールに食べられて海鳥は一時姿を消していた。
小富士から下山し南崎の見える湾へ出た。湾内にテーブル珊瑚などがありシュノーケリングにいい場所とのこと。ガイドの方の色々説明を聞きながら駐車場まで戻った。

摺鉢

南端の島々

小富士

南崎

グリーンアノールの話を聞く。父島で初めて見た時は可愛らしいトカゲと思っていた。
ガイドさんの説明
「グリーンアノールは米国原産のトカゲ。戦後、米軍の貨物類に紛れ込んで父島に入り、何年かして母島へも入ってきた。小笠原固有の様々な昆虫類を食べ、島の生態系を破壊させているので駆除中」
ゴキブリホイホイのような粘着式のワナで捕獲するそうで車に積んであったワナを見せてくれた。又、外来種の樹木のアカギも人の手で樹皮を削り取ったり、薬液を根元に注入して枯らす作業もしているとのこと。外来種により一度固有の生態系が破壊されると回復には長い時間と費用が求められる。
来年、世界自然遺産への登録を目指す小笠原にとってグリーンアノールとアカギの対策は大きな問題である。

YHまで送ってもらう途中にガイドさん「工事中で片側対面交通の規制があるが、まず車は来ない。ある日そのまま走るとシチョウの車が来たので驚いた」
私「シチョウの車?」
ガイドさん「そうシチョウの車」
私「市長の車?」
ガイドさん「そうシチョウの車」
やっと理解した。(小笠原)支庁の車のことだ。

いつものようにゆき奈ちゃんの発声で夕食が始まる。
YHのオーナーは八戸(青森県)の出身で若い頃に世界のあちこちを放浪したことがあるそうだ。関さんのグレートジャニーのサポート隊とも知り合いとのこと。
奥さんは根室(北海道)出身。北の国の二人が母島で暮らしているのは面白い。


8日目:5月14日(金) 晴 サイクリング 走行:約20km
YH ⇒ 静沢 ⇒ 西浦 ⇒ 探照灯基地跡 ⇒ 東港探照灯下砲台 ⇒ 北港 ⇒ YH
宿泊:前日と同じYH
業者の方がYHへレンタサイクル(マウンテンバイク)を持って朝9時に来ることになっている。9時5分になっても来ないが、この母島の時間の流れの中で5分や10分遅れたからで気をもむことはなかろうと自分に言い聞かせる。間もなくしてマウンテンバイクが届いた。マウンテンバイクなので重い。前1段後7段の変速。

YHを出発するといきなり長い上り坂なので足腰の慣らしをする暇もない。坂の途中で自転車を降りて押して歩く。船見台を通過するがここまでは昨日歩いて来ている。北港までアップダウンはあるが一本道なので迷わずにペダルを漕ぐ。トンネルがあり通過。

猪熊観音
北村小学校跡
ビッグベイ(猪熊湾)が下に見える高台で休憩。
猪熊観音像があり傍に慰霊文がある。母島に駐屯していた独立歩兵第274大隊第1中隊の犠牲者を悼む観音像とある。

先へ走ると別のトンネルがあり通過。
探照灯基地跡と東港探照灯下砲台があるが帰りに寄ることにし先へ進む。東港への看板があるが急な下り坂で海が見えない。ここを下りて東港へ行くと帰りが急な上りできついので断念。 北港への下り坂の途中に北村小学校跡があり小休止。校舎はなく土台の石が残っていて生い茂ったガジュマルの木に囲まれている。

北港に到着。戦前は鰹節工場のある集落で約600人が暮らしていたそうだが集落の面影は何もなく樹木や草に蔽われていた。海岸に石積みの桟橋が残っている。

北港

北港桟橋跡

北港から遊歩道を約50分歩き大沢海岸へ出る。晴れていれば父島が見えるのだが曇空のため父島は見えなかった。守備隊が使っていたトーチカがある。

峠より北港桟橋跡を望む

トーチカ跡

北港へ戻り休憩小屋で昼食を取っていたら、レンタバイクで観光中のMさんが来たので雑談。Mさんは「よくここまでチャリで来ましたね」と言いながらバイクで戻って行った。ここには戦跡として「北港忠魂碑」があり見たいと思っていた。案内板の矢印に従い小道を歩く。背の高い雑草をかき分けながら苦労して5分位進むと「忠魂碑」があった。どうもこの碑を見に来る人はいないらしく碑の周りも背の高い雑草に蔽われていて「忠魂碑」の文字がすべて見えない。
傍に「海軍第三百九設営隊碑」の説明文がある。戦死した隊員38柱の慰霊のための碑。

忠魂碑の説明板

忠魂碑

北港からの帰りに探照灯下砲台に寄る。森の中の脇道を歩くと高角砲があり、距離をあけて全部で三門あった。ここから米軍の戦闘機や爆撃機を射撃したのか。海と空のきれいな母島と静寂な森の中にある錆び付いた高射砲とのギャップの大きさにとまどう。
説明板に「残存する高角砲が破壊されているのは、米軍の指示により使用できないように日本軍が行ったものです」とある。

砲台の説明板

高角砲

六本指地蔵付近にある探照灯基地跡まで自転車を走らせる。
壕の中に探照灯の設備が残っている。

探照灯案内看板

探照灯跡

「長浜トンネル」(長さ210m)を通る。北海道ではずいぶんトンネルを通ったものだ。しかも2,000m〜3,000mと長いトンネルが多かったが、この島では長いトンネルはない。トンネルをぬけるとロングビーチと看板のある見晴らしのよい高台へ出た。
さらに進むと「猪熊谷トンネル」(100m)があり通過し猪熊湾をはるか下に見る高台で小休止。山側で工事していた2人(親子)が工事を終えたらしく海を見ている私のところへ来た。雑談をするが、この湾にもクジラが来るとのこと。若い息子さんが「他に楽しみがないから釣りをするくらいですよ。今だとアオリイカがうまいよ」と言う。

「新夕日が丘」まで走るとレンタバイクで移動中のKさんがいたので自転車を降りて話す。
車が来るので見ると昨日南崎トレッキングの時のガイドさんだった。「ほ〜今日は自転車ですか〜、ここからはほとんど下りですよ」と言いながら沖港方面へ去って行った。Kさんはここでしばらく休むとのことで先に出発する。ガイドさんの言う下りばかりでなくけっこう上りもある。北港へ行くときにきついアップダウンだったので沖港にあるYHへ戻るのも同じくアップダウンがあるのは当然。
後ろからバイクの音が聞こえる。Kさんが追いついて来て走り去り際に「いや〜すぐに追いつくと思ったがなかなか追いつけなかった。お先に〜」。

方向・距離の立て板
沖港へ戻ったが自転車を返すには時間はまだ十分あるので漁港や小中学校の周辺を走る。この島で英語教えている人はどんな人なのだろうか。帰国してもまたこの島へ戻って来ることはないのかな。各方面と距離を示す立て板がある。硫黄島まで230km。

YHで夕食後に小中学校へ東京都交響楽団の弦楽四重奏の演奏を聴きに行く。まさか母島で演奏を聴くとは思ってもいなかった。これも旅の面白さだ。
体育館に100人位来ている。ドボルザークの弦楽四重奏曲第12番の第2・4楽章や宮崎駿アニメの演奏があり楽しんだ。
「崖の上のポニョ」の演奏中、この曲の好きな一番下の孫娘(3才)を思い出していた。メゾ・ソプラノの歌手(二期会会員)によるアベ・マリアなどの歌もさすがプロの声と感心し聴いた。
演奏会が終わった。体育館に小・中学校の校歌がある。1番の歌詞「空にはばたく鳥のように 海にきらめく波のように・・・・・」、2番の歌詞「空に輝く光のように 海にさざめく波のように・・・・」。

母島小中学校

校歌

母島で最後の晩であり一杯やりたかった。Kさんを誘い島唯一?の居酒屋「島っ子」へ行く。お客さんはかなり入っている。テーブル席に座り一番人気のお好み焼きを注文。隣りの席に若い女性2人がいて話をする。女性たちは地元の人で「この店にいるみんな誰かわかりますよ〜」と笑いながら言う。YHのゆき奈ちゃんも知っていた。奥の部屋は予約が入っていた。間もなく弦楽四重奏の人たち(バイオリン2人、ビオラ1人とチェロ1人)とメゾ・ソプラノの歌手それに地元の役場の人たちが奥の部屋入って慰労会をやっている。
お好み焼き


9日目:5月15日(土)
YH ⇒ ロース記念館 ⇒ YH ⇒ 沖港 /ははじま丸 ⇒ 二見港(父島)
二見港(父島)/おがさわら丸 ⇒ 航海
ははじま丸が沖港を午前10時半に出港するまで時間があるので「ロース記念館」へ行く。
説明文
フレデリック・ロルフス(1823〜1898)通称ロースは、ドイツのブレーメン生まれで捕鯨船の船員であったが1869(明治2)年母島に来島し、先に住んでいたジェームス・モットレイ夫妻と共に沖村に居住した。1878(明治11)年に日本に帰化し、良志羅晋(ロルフス・ラルフ)と改名した。ロースは、モットレー等と母島の開拓に力を尽くし、石材を発見しその利用法を島民に普及させたことから、その石を「ロース石」と呼ぶようになった」
館内に母島の歴史、暮らしや文化に関する展示が数々あり楽しめた。「米国 母島領有宣言 銅板拓本(写)」があった。これは1853年10月に米国のケリー艦長が沖港に上陸して領有宣言の銅板を大木に打ちつけ、母島列島をコッフィン群島と命令し測量などを行った時のものだ。
銅板拓本の原文
「THIS SOUTHERN GROUP OF ISLANDS HAS BEEN EXPLORED & TAKEN POSSISSION OF BY COMMANDER JHON KELLY & OFFICERS OF THE U.S.SHIP PLYMOUTH UNDER ORDERS FROM COMMANDORE M.C.PERRY ON BEHAF OF THE U.S.OF N.A. THIS 30 DAY OF OCTOBER 1853」
翻訳文
「この南方諸島は、海軍提督ペリーの命に従い合衆国プリマウス号指揮官ジョン・ケリーと士官、北米合衆国のため巡検し、是を領有する。  1853年10月30日」
説明員の女性は、両親が島出身で強制疎開の後の戦後生まれで私と同じ年であった。同年令の気安さもあり色々な話しを聞くことが出来た。もっと話しを聞きたかったが船の時間もあり残念ながら記念館を出た。

ロース記念館

館内

銅板拓本

YHの人の車で港まで送ってもらう。着いた時と同じく消毒液のついたマットの上を歩いて乗船する。ゆき奈ちゃんも見送りに来ている。今回は時間の都合で乳房山へ登れなかったが次回としよう。本当にのんびりとした島だった。

乗船タラップ

YHの人たち

甲板にレイを首にかけた交響楽団の人たちがやって来た。出港後、しばらくしてレイを海に向かって投げている。「またこの島へ来ることがありますように」との儀式だ。
練習船でハワイのホノルルへ行った時を思い出した。ホノルル港を出港してからハワイ大学の学生たちからもらったレイを甲板からハワイの海へ向かって投げた。あれは1971年(昭和46年)の8月のことだった。40年近く前の思い出。楽団の人たちと話す。一人は府中市に住んでいて小金井のことも詳しかった。

二見港へ
大村の街中
快晴なので甲板にずっといて海を眺める。二見湾へ入ると接岸中の「おがさわら丸」が見える。沖合いから見る「おがさわら丸」は絵になる。小笠原を語る時にこの船の印象も強いのでは。今日の午後2時出港のあの船で東京へ帰る。

「ははじま丸」を下船後、家族にTシャツのお土産を買いにJiさんの店へ行く。Jiさんは覚えていてくれた。4人の孫にTシャツを買ったが予算の関係で大人はなしとする。農協へ行きパッションフルーツを買う。港へ戻ると父島YHの人たちが見送りに来ていた。恒例の「小笠原太鼓」の演奏が始まっている。小中学生が色のついた大きなプレートを頭の上にあげて乗船中の中学生に見送りのサインを送っている。中学生たちは修学旅行へ行くとのこと。

小笠原太鼓

YHの人たち

在校生の見送り

船が岸壁を離ると中突堤からYHのスタッフが海に飛び込んでいる。沖までは6〜7隻の大小のボートが「おが丸」の横について航走している。1隻、1隻と追走を止めてボートにいるスタッフが海にダイビングする度に「おが丸」の甲板で手を振っている乗客から歓声が上がる。この光景に感動し小笠原へのリピーターになる人も多いと思う。

見送りのボート

見送りのボート

ボートから飛び込み

午後6時過ぎに夕日を見たいので甲板に出るが、残念ながら雲があり完全な夕日は見れなかった。読みかけの文庫本とコーヒーを持ってAデッキのラウンジへ行き、リクライニングチェアでゆったりと過ごす。
夕日


10日目:5月16日(日)
おがさわら丸 ⇒ 航海 ⇒ 竹芝桟橋
朝4時40分過ぎの日の出を見ようと甲板に出た。曇で期待した程の日の出ではなかった。

7時10分頃に八丈島、11時50分頃に伊豆大島を通過。浦賀水道に入ると洲崎灯台が見える。

朝日

八丈島

洲崎灯台

旗りゅう信号
本船のマストに旗りゅう信号が揚がる。これは行先信号。上から第二代表旗、1番目と3番目はアルファベット旗の「N」と「S」でこの3つの旗で行き先は東京・千葉港を表す。船が多くなってきた。京浜港へ向かうマースク・ラインのコンテナー船、金谷(千葉県)に向かう東京湾フェリーや商船三井のLNG船など数々の船を見ていて飽きない。隣りのKさんにこれらの船の特徴を話す。

コンテナー船

東京湾フェリー

羽田空港
羽田空港へ発着する飛行機が見える。飛行機の発着は何才になっても心躍るものだ。ダイナミックな東京へ戻ってきた。
竹芝桟橋着15:30。

船内でKさんやHさんら父島YHで一緒だった人たちに「浜松町で解散式&反省会をやりましょう」と声をかけておいたので下船後に集まった。
父島で「塩」を買い忘れたので皆さんに待っててもらい客船ターミナル内の売店へ行く。皆さんを待たせているので急いで「塩」を4袋買って戻った(帰宅後に見たら「父島製」でなく「青ヶ島製」だった トホホ)。
KさんとMさんはいなかったが、HさんとGさん、Aさんの3人、それにHさんたちが再度父島YHで泊まった時に一緒だった3人(大坂の男性、奈良の女性と横浜の男性)も反省会に参加するとのことで7人で浜松町へ歩いた。
ビルの地下の洋風居酒屋へ入り「乾杯〜お疲れ様〜!」とビールをグビグビ飲む。「プファ〜うまい〜!」。
いろいろな話でどんどん盛り上がる。60代のおじさんは私一人、他は20代と30代。20代のお兄ちゃんのトレーナーを借りてポーズを決めるとさらに盛り上がる。
その場の勢いで今日が私の誕生日となった。店から誕生日祝いに花火がついているアイスクリームをプレゼントされ、隣のグループ(アラフォー?の女性5〜6人)からもお祝いの拍手をもらう。
チャリ野郎の私に反省会の皆さんが歌ってくれた歌「キャンドル ハンドル サドルニ ペダルニ ジテンシャコイデル〜」(チェッカーズの曲のメロディーで)

誕生日祝い?

解散式?

結局、午後3時半に竹芝桟橋に着いたのに帰宅したのは午後11時半過ぎ。
私以外の皆さんは明日から社会復帰が大変なのではと思いながらも有意義な反省会だった!?


小笠原の旅


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