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戦地の祖父
出征時の佐渡(5町22村)
祖父
氏 名:神蔵 留次(かみくら とめじ)
誕生日:明治9年(1876)8月27日
出生地:新潟県佐渡郡湊町※(現在の佐渡市両津湊)
※湊町は明治34年(1901)に夷町と合併し両津町となった。初代町長:北 慶太郎(北 一輝の父親)
渡辺 トウ(湊町の屋号「五郎助」出身)と結婚
明治36年(1903)6月 豊次(小生の父)生まれる
明治37年(1904)日露戦争に出征(満28歳)
所属:第1軍 第2師団 架橋縦列 監視員 工兵第1分隊(戦地からの手紙にある部隊名)



このホームページでは祖父の所属した第1軍第2師団工兵部隊・架橋縦列を主に述べて他の軍は概略とした。又、海軍関係は別のホームページとする。
・日清戦争から日露戦争開戦まで
・開戦決定の背景
・金子堅太郎、末松謙澄、高橋是清
・陸軍の編成
・陸軍の作戦計画
・第1軍
・第2軍、第3軍、第4軍、鴨緑江軍
・支援部隊(工兵・架橋縦列、輜重兵など)
・征露丸、脚気
・祖父の手紙(軍事郵便)
・講和会議と終戦
・その他
・あとがき

地図や写真:「日露戦争PHOTOクロニクル」と「米国特派員が撮った The Russo-Japanese War 日露戦争」による。出典が別の場合のみ出典名を載せた。
それぞれクリックすると拡大する。


日清戦争から日露戦争開戦まで
明治 西暦 出来事
27年 1894 6月/朝鮮派兵を閣議決定
8月/清国に宣戦布告
9月/平壌の戦いに勝利、黄海海戦に勝利
10月/鴨緑江の渡河に成功
11月/旅順要塞を攻略
28年 1895 1月/威海衛要塞を攻略、連合艦隊は清国北洋艦隊を攻撃
4月/日清講和条約(下関条約)調印
4月/露・仏・独による三国干渉
5月/遼東半島全面放棄を閣議決定
30年 1897 10月/韓国が国名を大韓帝国に改め清国から自立
11月/独、膠州湾を占領
31年 1898 3月/独、膠州湾を清国より租借、露、旅順・大連を租借
7月/英、威海衛・九龍を租借
32年 1899 11月/仏、広州湾を清国より租借
33年 1900 6月/北清事変(義和団事件)
8月/露、満州各地の占領開始
34年 1901 6月/第1次桂太郎内閣発足
9月/外相に小村寿太郎任命
12月/伊藤博文、露外相と日露協定について交渉
35年 1902 1月/日英同盟調印
4月/露、満州撤兵に関し清国と協定調印
10月/露、第1期満州撤兵
36年 1903 4月/露、第2期満州撤兵を履行せず
8月/露、旅順に極東総督府設置
10月/駐日公使ローゼンと小村寿太郎外相の交渉開始、露、第3期満州撤兵不履行のうえ奉天を占領
37年 1904 2月
4日/御前会議でロシアとの開戦を決定
6日/ロシアに国交断絶を通告

8日/第12師団先遣部隊が仁川港(大韓帝国)に上陸
9日/連合艦隊、仁川の露軍艦2隻撃破
10日/日本政府、ロシアに対して宣戦布告

開戦決定の背景
明治維新を担った伊藤博文や山県有朋、大山巌らはすでに六十代に入っていて開戦慎重派であった。大国ロシアを相手の戦争は日本の体制を危うくするものであり、このような冒険は避けるべきとの考えだった。従ってロシアとの平和的協調を基に東アジアの勢力範囲の確定を行うことを目指した。
一方、桂太郎や小村寿太郎らはイギリスと同盟を結ぶことでロシアを牽制することを考えていた。
明治34年(1901)6月、伊藤内閣総辞職の後を受けて、桂太郎陸軍大臣が第1次内閣を組織し、同年9月に小村寿太郎が外務大臣に任命された。
同年12月、伊藤がロシアへ行き交渉するも不調。英国との交渉は進展し日英同盟の方向へ変わっていく。
結局、明治35年(1902)1月に日英同盟が締結された。その後、ロシアと5回にわたり交渉するも不成功に終わる。
日清戦争後のロシアを含む三国干渉後に国民の間に「臥薪嘗胆」(がしんしょうたん)の言葉が広まり、三国干渉の主役であるロシアへの反感と愛国心が新聞雑誌などでさらに高まっていた。さらに、明治36年(1903)6月に東京帝大教授ら「七博士意見書」が満州問題の解決には対ロシア強硬外交が必要と政府に働いた。
明治37年(1904)1月30日、桂・小村・山本と伊藤・山県の会談が行われ、ロシア軍の極東増備が続き、交渉の余地がない状況から開戦やむなしへと大きく踏み出した。そして同年2月4日の御前会議で日露開戦を決定した。
参列者:五元老/伊藤博文、山県有朋、大山巌、松方正義、井上馨。政府/首相・桂太郎、蔵相・曾禰荒助、海相・山本権兵衛、陸相・寺内正毅、外相・小村寿太郎。

金子堅太郎、末松謙澄、高橋是清      写真:ウイキペデイア)
資源も財政も乏しい日本は当初から早期講和を前提にして戦争を考えていた。欧米に湧きつつある黄禍論(こうかろん)を抑えながら対日友好の世論を欧米に形成して、将来のロシアとの講和を有利に使用しようと考えていた。そして、講和の仲介役として期待したのが米国であった。米国を説得し日本側に引き入れるために選ばれたのが金子堅太郎(かねこけんたろう)であった。又、同盟国の英国を拠点にしてヨーロッパに親日世論を起こすために末松謙澄(すえまつけんちょう)が派遣された。さらに、軍事費を外国から調達するために選ばれ米国に派遣されたのが高橋是清(たかはしこれきよ)であった。

金子堅太郎(貴族院議員)

米国留学中(1872)
金子は米国のルーズベルト大統領とは同窓のハーバード大学の出身で大統領とは懇意であり米国に多くの知人もいた。
御前会議が終わった当日に金子は伊藤博文から呼び出しを受けて伊藤に会った。伊藤から「米国で大統領に会い日本の立場を説明し米国民にも日本へ同情を寄せるように努めてもらいたい」と申し入れがあった。伊藤と金子の関係は深く、伊藤が首相になると秘書官になり、第3次伊藤内閣では農商務相、第4次伊藤内閣では法相として常に伊藤の側近として仕えた。金子は辞退したが師である伊藤の必死の要請により結局彼は米国行きを受け入れた。明治37年(1904)2月24日、横浜港から米国の定期船「サイベリア号」に乗船し2人の随員と共に米国へ向かった。3月26日、金子はワシントンへ入り翌日27日にルーズベルト大統領と会うことができた。金子はルーズベルトに新渡戸稲造の英文著書「武士道」と英国人イーストレイキの著作「ヒロイック・ジャパン」を贈呈した。さらに柔道好きなルーズベルトの依頼を受けて講道館から柔道教師を派遣する約束を交わした。その後、金子はニューヨークを拠点に東部の諸都市を回り、パーティーに出席したり講演会で演説をしたりした。さらに米国の新聞記者とも親しくなり日本へ好意的な世論を起こすよう奮闘した。明治38年(1905)10月に帰国。

末松謙澄(衆議院議員)
末松はケンブリッジ大学(英国)を卒業し、伊藤の次女と結婚した。伊藤内閣で法制局長官や逓信相、内務相などを歴任した。
明治37年(1904)2月に出国し、カナダ・アメリカ経由で3月に英国に到着すると広報を開始した。「旭日」や「日本の面影」などを英文で出版し、英仏を主として戦争に対するの日本の弁護論と偏見に対する反論演説を展開した。黄禍論が沈静化した後も滞在し新聞取材や演説・論文寄稿を続けた。
明治39年(1906)2月に帰国。




高橋是清(日本銀行副総裁)

米国時代(1867)右側
戦時の財政は元老の井上馨と松方正義が担当となった。2人は松尾日銀総裁と相談し日銀副総裁の高橋是清を政府の財務官としてロンドンに派遣し外債(外国で募集する日本の国債)を集めることにした。井上は高橋に「ロンドンで公債募集にあたってもらいたい」と申し入れた。高橋は引き受けるにあたり「政府は日本において外国人から外債の申し込みがあっても取り合わないこと」などの注文を付け承諾を得た。高橋は「極東の新興国である日本の国債が1億円も売れるか」の重圧を感じながら偶然にも金子堅太郎と同じ米国の定期船「サイベリア号」に部下の深井英五(後の日銀総裁)を伴って乗船し米国経由で英国へ向かった。資本調達市場の先進地のロンドンで外債募集の活動を始めたが目標の1億円の半分しか決まらなかった。ユダヤ人のヤコブ・シフ(米国金融業者クーン・ロープ商会の支配人)と知り合い彼が協力をしてくれることになった。彼は帝政ロシアがユダヤ人を迫害していることに心を痛めていた。彼の言葉「日本が好きで貸したのではない。同胞を苦しめる帝政を懲らしめ、ロシアに大変革を起こさせてくれるなら大いに援助しようと思った」。
シフの協力に加え、ロシアを相手に日本軍が優勢に戦っていたこともあり4回にわたる外債発行は成功を収めた。


陸軍の編成
師団 構成
第1軍   黒木爲禎大将  2月5日編成 ・近衛師団(東京)
・第2師団(仙台)
・第12師団(小倉)
・近衛歩兵第1旅団、近衛歩兵第2旅団、近衛騎兵連隊、近衛野戦砲兵連隊、近衛工兵大隊、輜重兵大隊
・歩兵第3旅団、歩兵第15旅団、騎兵第2連隊、野戦砲兵第2連隊、工兵第2大隊、輜重兵第2大隊
・歩兵第12旅団、歩兵第23旅団、騎兵第12連隊、野戦砲兵第12連隊、工兵第12大隊、輜重兵第12大隊
第2軍   奥保鞏大将  5月31日編成 ・第1師団※1(東京)
・第3師団(名古屋)
・第4師団(大阪)
・歩兵第1旅団、歩兵第2旅団、騎兵第1連隊、砲兵第1連隊、工兵第1大隊、輜重兵第1大隊
・歩兵第5旅団、歩兵第17旅団、騎兵第3連隊、砲兵第3連隊、工兵第3大隊、輜重兵第3大隊
・歩兵第7旅団、歩兵第19旅団、騎兵第4連隊、砲兵第4連隊、工兵第4大隊、輜重兵第4大隊
第3軍   乃木希典大将 5月29日編成 ・第1師団※1(東京)
・第9師団(金沢)
・第11師団※2(善通寺)
・第7師団※3(旭川)
・歩兵第1旅団、歩兵第2旅団、騎兵第1連隊、野戦砲兵第1連隊、工兵第1大隊、輜重兵第1大隊
・歩兵第6旅団、歩兵第18旅団、騎兵第9連隊、野戦砲兵第9連隊、工兵第9大隊、輜重兵第9大隊
・歩兵第10旅団、歩兵第22旅団、騎兵第11連隊、野戦砲兵第11連隊、工兵第11大隊、輜重兵第11大隊
・歩兵第13旅団、歩兵第14旅団、騎兵第7連隊、野戦砲兵第7連隊、工兵7大隊、輜重兵第7大隊
第4軍   野津道貫大将 6月30日編成 ・第5師団(広島)
・第10師団※4(姫路)
・歩兵第9旅団、歩兵第21旅団、騎兵第5連隊、野戦砲兵第5連隊、工兵第5大隊、輜重兵第5大隊
・歩兵第8旅団、歩兵第20旅団、騎兵第10連隊、野戦砲兵第10連隊、工兵第10大隊、輜重兵第10大隊
鴨緑江軍   川村景明大将 明治38年1月12日編成 ・第11師団※2(善通寺)
・後備第1師団(姫路)
・歩兵第10旅団、歩兵第22旅団、騎兵第11連隊、砲兵第11連隊、工兵第11大隊、輜重兵第11大隊
・後備歩兵第6旅団、後備歩兵第9旅団、後備第1師団騎兵隊、後備第1師団野戦砲兵連隊、後備第1師団工兵大隊、後備第1師団輜重兵大隊

基本編成
歩兵連隊:歩兵3個大隊、騎兵連隊:騎兵3個大隊、野戦砲兵連隊:砲兵2個大隊 = 6個中隊、工兵大隊:工兵3個中隊
※1:第2軍として金州・南山の戦闘に参加した後、第3軍に編入された。
※2:明治38年(1905)1月12日に鴨緑江軍が新編成。鴨緑江軍に編入された。
※3:旅順の第3回攻撃から参加。
※4:独立第10師団として第1軍と第2軍の中間位置の大孤山に5月19日から30日まで上陸。6月30日に第4軍に編入された。
6月20日、満州軍総司令部が正式に設置された。
総司令官:大山巌元帥大将
総参謀長:児玉源太郎大将
所属軍:第1軍、第2軍、第3軍、第4軍 (鴨緑江軍は翌年の明治38年1月12日の編成)


陸軍の作戦計画

日清戦争
明治27年(1984)8月~明治28年(1985)3月

日露戦争
明治37年(1904)2月~明治38年(1905)9月

上図(出典:「日清・日露戦争」原田敬一/岩波新書)に示すように日清戦争と10年後の日露戦争の陸戦は重なる地域も多い。特に第1軍の初戦はほぼ同じ進路である。この日清戦争での経験で陸軍は朝鮮や清国の地形をよく認識していた。最初の目標は遼陽(りょうよう)占領であった。
第1期作戦計画
・第1軍:大韓(韓国)に上陸して北進し、ロシア軍を駆逐しながら鴨緑江(おうりょくこう)に進出する。
・第2軍:遼東半島(りょうとうはんとう)の東南岸に敵前上陸し占領し、この地に根拠地を築いて第3軍を上陸させ、第一軍の作戦に応じて北進する。
・第3軍:旅順要塞(りょじゅんようさい)の監視を行い必要な時は要塞の攻略を行う。
・第1軍と第2軍の中間に第4軍が上陸し各軍は連携して遼陽を占領する。第2期作戦計画
第1期作戦が順調に推移しても秋頃になる。よって遼陽より北の適当な地を占領して冬営する。この冬営期間に兵力の整頓と休養を行う。翌春を待って北進を開始しハルピンを占領し鉄道を遮断してウスリー方面の攻略を目指す。


第1軍
日本政府がロシアに対し宣戦布告した明治37年(1904)2月10日、黒木為楨(くろきためもと)大将を軍司令官とする第1軍に出動命令が下った。

編成
師団 構成
近衛師団
(東京)
長谷川好道中将
近衛歩兵第1旅団:近衛歩兵第1連隊、近衛歩兵第2連隊
近衛歩兵第2旅団:近衛歩兵第3連隊、近衛歩兵第4連隊
その他の部隊:近衛騎兵連隊、近衛砲兵連隊、近衛工兵大隊、近衛輜重兵大隊
第2師団
(仙台/宮城県)
西寛二郎中将
歩兵第3旅団(仙台)旅団長 松永正敏少将
・歩兵第4連隊(仙台)歩兵第29連隊※1(仙台)
歩兵第15旅団(新発田/新潟県)旅団長 岡崎生三少将
歩兵第16連隊(新発田)歩兵第30連隊※2(村松/新潟県)
その他の部隊(仙台):・騎兵第2連隊砲兵第2連隊工兵第2大隊輜重兵第2大隊
第12師団
(小倉/福岡県)
井上光中将
歩兵第12旅団(小倉):歩兵第14連隊(小倉)、歩兵第47連隊(小倉)
歩兵第23旅団(久留米): 歩兵第24連隊(福岡)、歩兵第46連隊(久留米)
その他の部隊(小倉):騎兵第12連隊、砲兵第12連隊、工兵第12大隊、輜重兵第12大隊

第2師団

連隊所在地
明治21年(1888)5月の創設(仙台鎮台からの改編)時の所属歩兵連隊:歩兵第4連隊(仙台)、歩兵第5連隊(青森)、歩兵第16連隊(新発田)、歩兵第17連隊(仙台)の4個連隊。
佐渡出身で歩兵となった者は歩兵第16連隊(新発田)に所属したが、祖父は架橋縦列の監視員として師団直轄の部隊(仙台)に所属した。架橋縦列は工兵大隊に属すると思っていたが、調べてみると独立した部隊だった。所属する将兵の兵種は工兵や輜重兵であったので、祖父は工兵で所属部隊が架橋縦列だったことになる。
※1:明治31年(1898)、歩兵第5連隊と歩兵第17連隊を第8師団(弘前)に所属変更し、新たに歩兵第29連隊を仙台に置く
大正14年(1925)に歩兵第29連隊は仙台から会津若松(福島県)へ移駐し福島の郷土部隊として再出発。
※2:明治29年(1896)に歩兵第16連隊(新発田)を基幹として編成され、明治30年(1897)8月に村松へ移駐した。
大正14年(1925)3月に村松から高田(現 上越市/新潟県)へ移駐した。

進軍ルート


仁川上陸・京城・平壌
第12師団歩兵第23旅団(旅団長:木越安綱少将)の4大隊約2,000人が韓国臨時派遣部隊として陸軍輸送船(大連丸、小樽丸、平壌丸)に乗船し、日本海軍第2艦隊第4戦隊(司令官:瓜生外吉少将)の護衛の下、明治37年(1904)2月8日仁川に上陸。
臨時派遣隊は同月19日に京城(現 ソウル)に進軍し、さらに3月初めに平壌に入城し第1軍主力の上陸を待った。

鎮南浦上陸

鎮南浦に上陸
近衛師団と第2師団は3月8日から20日にかけて広島・宇品港で陸軍輸送船(加賀丸、横浜丸、阿波丸、常陸丸、第二永田丸など)に乗船し、3月29日までにすべて大同江(だいどうこう)下流の鎮南浦(ちんなんぽ)に輸送船から艀に移乗して上陸した。

砲兵第2連隊(仙台)の砲兵少佐として出動した石井常造は次のように書いている。
・二十二日午後一時鎮南浦ニ到着投錨ス先ニ到着セル近衛師団ノ輜重は尚ホ揚陸中ナルヲ以テ別命アル迄船中ニ止マルコトトナル此夜 気温零下一度ニ下リ寒威烈シ 午後六時碇泊司令部ニ於テハ船長会議ニ於テ明二十四日阿波丸ノ揚陸ヲ実施スルニ決ス
・廿五日碇泊司令部ノ通報ニ依リ午前七時ヨリ準備ヲ整ヒ艀舟ノ到ルヲ待ツモ遂ニ来ラス為メニ午前八時漸ク揚陸ヲ開始スルニ至レリ(「日露戦役餘談」)
又、歩兵第16連隊(新発田)の上等兵として出征した茂沢祐作は次のように記している。
・3月23日、午後2時に大同江の河口にある鎮南浦に投錨す。されどいかなる都合にや上陸させられず。
・3月26日、午前9時にはいよいよ上陸して海外の異域に足を入るることとなった。それより直ちに行軍に移ったが、地は凍って佇立するときは靴の踵にある鉄が地に付くごとく、未だなかなかに寒気強く吾々は閉口した。(「ある歩兵の日露戦争従軍記」)

鴨緑江渡河作戦と九連城・鳳凰城占領
黒木大将の任務は、清国と韓国の国境を南西に流れ黄海に注ぐ大河の鴨緑江を渡り、ロシア軍の前線部隊がいる九連城(くれんじょう)と鳳凰城(ほうおうじょう)を攻略しロシア軍主力の本拠地・遼陽に攻め入ることだった。
10年前の日清戦争のときにもこの鴨緑江を渡河していた。10年前は渇水期だったが今回は雪解けの増水期だった。増水で川幅200~400メートル、水深は平均で3~4メートル。さらに多くの中州や川中島もあった。歩いて渡河は出来ず、固定橋を作るか舟橋を架けるかであった。


渡河作戦
・4月25日夜半、近衛師団が中州の九里島を第2師団は黔定島(けんていしま)を目指して出撃しロシア軍を破りこれらを占領した。
・4月26日午前2時頃、近衛師団歩兵第三連隊の主力が小舟を使って渡河した。
・4月29日、最右翼の第十二師団は鴨緑江上流の水口鎮(すいこうちん)付近で架橋援護隊を渡河させ定式橋を架ける作業を開始し架橋作業は30日午前3時頃に終わり、夜明け前には師団全体の渡河が終了し、栗子園(りゅうしえん)北方に進軍した。
・第十二師団が無事渡河に成功している頃、近衛師団と第二師団架橋を開始していた。それを知った九連城のロシア軍は日本軍の架橋用艀に砲撃を加えてきた。日本軍砲兵隊も一斉に応戦し猛烈な砲撃戦が始まった。約30分の砲撃戦の後、ロシア軍は沈黙した。
・第2師団は30日午後8時頃に軍橋が完成し、渡河を終えて虎山(こざん)西方へ展開した。
・5月1日、全軍が渡河を終え九連城の攻撃を開始した。午前6時半頃、第2師団が偵察隊を出したところロシア軍陣地から反撃があり第1軍の各師団も反撃し集中攻撃の結果、ロシア軍陣地は炎上し午前9時頃、九連城を中心とするロシア軍の陣地を完全に占領した。ロシア軍は日本軍の追撃に抵抗しながら西方の鳳凰城に逃げ込んだ。
・5月6日、鳳凰城まで退却したロシア軍はクロパトキン大将の「決戦を避けよ」の命令でさらに大陸内部の遼陽方面に退却した。第1軍はほとんど戦わずに鳳凰城を占領、ここでいったん留まってあとの作戦に備えた。
この鴨緑江会戦の勝利が世界に伝わると、人気がなく買い手がなかった国債の市場に買い手が殺到し一挙に5千万円もの応募となった。
鴨緑江を渡河する歩兵部隊

摩天嶺~石門嶺~様子嶺
第1軍は東方から遼陽に迫るべく遼陽街道上のロシア軍を攻撃するため、第12師団を右翼、第2師団を中央、近衛師団を左翼にして6月23日に北進した。6月22日から行動を起こした。6月30日までに摩天嶺(まてんれい)、石門嶺(せきもんれい)を占領した。7月16日の深夜、ロシア軍が摩天嶺に逆襲をかけてきた。戦いは19日の夜まで続いたが、ロシア軍の退却により摩天嶺を再占領した。
ロシア軍は兵力を増員し、楡樹林子(ゆじりんし)の第12師団に集中した。第2師団の歩兵第15旅団(岡崎旅団:歩兵第16連隊、歩兵第30連隊)が第12師団の応援に加わった。その他の第1軍は様子嶺(ようしれい)のロシア軍を攻撃。

弓張嶺の夜襲
弓張嶺(きゅうちょうれい)の険しい山上にはロシア軍1個師団強が防御していた。この弓張嶺を迂回していては8月末の遼陽への総攻撃に間に合わない。黒木軍司令官は弓張嶺を突破するには夜襲しかないと考えた。師団単位で夜襲訓練を重ねてきて、第2師団(仙台)に白羽の矢を立てた。西寛二郎師団長は、歩兵第3旅団(旅団長:松永正敏少将)と歩兵第15旅団(旅団長:岡崎生三少将)に夜襲の計画を立てるよう命じた。二つの旅団の将校たちは弓張嶺を偵察し、進撃路などを調べ始めた。
8月26日03:30に史上空前の師団挙げての夜襲が開始された。まず岡崎旅団が突入を開始し、次に岡崎旅団が断崖の端からロシア軍陣地まで一気に駆け抜け白兵戦に入った。ようやく戦闘が終わろうした時は11:00になろうとしていた。第2師団の約2万人によるこの夜襲は世界戦闘歴史上、最大規模での成功例となった。

遼陽会戦
鴨緑江の渡河から4カ月にわたって進めてきた日露戦争においてはじめて日露両軍の主力が遼陽(りょうよう)で対決することになった。
日本軍は三方から分かれて攻撃した。大山元帥の総指揮下で第1軍は東部戦線に、第4軍は南部に第2軍は西部に配置された。
・8月30日~31日、全戦線で一斉に攻撃を開始した。第1軍は、遼陽市街の北を東西に流れる太子河(たいしが)を何万という兵を渡河させロシア軍の左側背に打撃を与えた。
・9月3日、総司令官クロパトキンは遼陽の放棄と奉天への撤退を命令した7日間におよんだこの戦闘で、勝ったとはいえ日本軍将兵は疲労の極に達していた。弾薬も兵も不足し、もうロシア軍を追撃する余力は残されていなかった。






沙河会戦
9月の後半から遼陽と奉天の広大な前線の各地で戦闘が散発した。ロシア軍は本国から第1軍団やシベリア第6軍団などが到着し戦力は遼陽会戦時を上回るほど増大し30万人にも達し、火力も日本軍を凌駕するといわれていた。
当初ロシア軍が有利に戦いを進め激戦の末に、日本軍の右翼が守備する本渓湖(ほんけいこ)東方の兜山を占領。兜山は遼陽と奉天の中間に位置する地点である。ロシア軍は兜山から西の沙河まで日本軍の全戦線に攻撃を加え、熾烈な攻防が続いた。
日本軍の奮戦によって戦局が変化し、ロシア軍は10月中旬に沙河の北へ退却して行った。その後、散発的な戦闘はあったが11月が過ぎると本格的な厳冬期に備えて両軍は冬営に入った。
満州の冬は厳しく、零下20度まで下がることもあった。東西100キロに及ぶ陣地に、日露両軍約35万が対峙しながら春を待った。
この越冬期間中に日本軍の各部隊は沙河会戦の勝利を称えて祝典が行われた。




黒溝台会戦
旅順も陥落し、鴨緑江軍を新たに加えて奉天会戦に向けて準備をしていた満州軍に対してロシア軍が突如南下してきた。ロシア軍は旅順を陥落させた日本軍の第3軍が奉天に来ると危惧して、第3軍が合流し日本軍が増強される前に叩いておこうとした。
明治38年(1905)1月25日、日本軍の左翼の黒溝台(こつこうだい)がロシア軍の攻撃を受けた。
第8師団(弘前)は明治37年秋に大陸に渡り総予備軍として満州軍の指揮下に入っていた。司令部は急遽この第8師団を黒溝台に、さらに各方面から兵力を引き抜いて増援に送った。第8師団も苦戦したために1月27日から28日にかけて第1軍から第2師団が、第4軍から第5師団が増援に駆け付けた。又、ロシア軍第1軍のクロパトキン大将(軍司令官)は劣勢になった第2軍を加勢しなかったこともあり日本軍の勝利となった。






奉天会戦
明治38年(1905)2月、それまで沙河を挟んで対峙していた両軍が戦闘を開始した。ロシア軍の迎撃態勢は万全に整っていて奉天(ほうてん)の周囲には防御線が何重にも構築されていた。
日本軍は東から西へ五つの軍を配置した。東(最右翼)から鴨緑江軍、第1軍、第4軍、第2軍、そして西(最左翼)に第3軍。第1軍は、ロシア軍の堅固な防御陣地を次々と突破しながら本渓湖(ほんけいこ)から渾河(こんが)への街道を進んだ。ついに第1軍、第4軍、鴨緑江軍は渾河を渡り、奉天に迫っていた。
3月9日、ロシア軍は奉天の北にある鉄嶺(てつれい)へと退却した。日本軍はそれを追撃しながら敵の抵抗を受けることなく進撃し10日の朝、奉天を占領した。







第2軍、第3軍、第4軍、鴨緑江軍

各戦闘地域と進軍経路

第2軍
第1軍がロシア軍を鴨緑江方面で牽制している間に、第2軍は遼東半島に上陸し旅順要塞を孤立させたまま、満州に北上し第1軍と協力してロシア軍との会戦を作戦した。
・4月30日:大同江に一旦集結
・5月5日~13日:盬太澳(えんたいおう)に無血上陸
・5月25日26日:金州城(きんしゅうじょう)と南山(なんざん)を攻めるも、ロシア軍は永久堡塁(土や石、コンクリートで造られたトーチカのこと)から銃砲火による猛反撃をした。第1師団の歩兵第1連隊第9中隊第1小隊長の乃木勝典(のぎかつすけ)中尉(第3軍の司令官になる乃木希典大将の長男)が戦死。
・5月30日:無防備の大連を占領。旅順要塞のロシア軍と遼陽のロシア軍主力との連絡路を遮断。
・6月14日15日:得利寺の戦い
・7月3日:大石橋の戦い
・8月24日~9月4日:遼陽会戦
・10月9日~20日:沙河会戦
・明治38年(1905)3月1日~10日:奉天会戦

第3軍
大連占領後に北方へ向かう第2軍の後方安全確保と旅順攻略を任務とする第3軍を編成した。特に、バルチック艦隊の東航もあり旅順攻撃を急いだ。旅順口(りょじゅんこう)はロシア太平洋艦隊の旅順艦隊が常駐する軍港であり、日本軍が制海権を確保する為に旅順口の旅順艦隊を撃滅する必要があった。連合艦隊は2回にわたり旅順艦隊を攻撃したが失敗に終わった。旅順艦隊の撃破に失敗した連合艦隊は旅順艦隊を港内に封じ込める旅順口閉塞作戦を立てたが3回の作戦とも失敗した。その結果、旅順を陸から占領し旅順艦隊を攻撃するよう海軍から陸軍に強い要請が出た。
すでに第2軍に属し金州・南山の激闘を終えた第1師団(東京)に第9師団(金沢)と第11師団(善通寺)を加え編成した。さらに、第8師団(弘前)とともに日本に残っていた第7師団(旭川)を11月1日に第3軍へ編入した。
・8月19日~11月26日:旅順要塞攻略戦、第1次~第3次
・明治38年(1905)3月1日~20日:奉天会戦

203高地(旅順)攻略戦
すでに多くの文献があるので概略だけを述べる。
・11月28日:3度にわたる旅順要塞の攻撃が失敗したので正面攻撃を中止し、203高地の奪取に戦術を切り替えて第1師団が突入
・11月29日~12月4日:第1師団が多くの死傷者を出したので第7師団も投入。その第7師団も相当な損害を出した。例えば歩兵第28連隊は大隊長3人のうち2人が戦死、1人が負傷、中隊長12人のうち6人が戦死、6人が負傷という惨状だった。
・12月5日:203高地にある西南山頂と東北山頂の二つの山頂を占領
後備歩兵第16連隊(新発田)は後備歩兵第1旅団に属して203高地の攻撃に何度も参戦した。将校43名、下士卒1,474名の計1,517名もの死傷者が出た。
(※日露戦争中に数多くの後備連隊が編成された。本来の任務は占領支配した地域を守備することであったが、常備連隊の将兵の消耗が予想以上に多く後備部隊を最前線に投入せざるを得なくなった)
日本軍は11月26日から12月6日までの戦いに約6万4千名の将兵を投入し、戦死が5千名、負傷1万2千名、死傷者合計1万7千名という大損害を出してしまった。
軍司令官乃木大将の次男の乃木保典(のぎやすすけ)少尉も203高地で戦死。
戦後、203(にいれいさん)高地は、この戦場に散った兵士たちへの鎮魂の意を込めて爾霊山(にれいさん)と呼ばれるようになった。
203高地を確保した日本軍は、ただちに港内のロシア艦艇に対して砲撃を開始した。ロシア艦艇は被弾し、沈没したり大破し12月中旬までにロシア太平洋艦隊の旅順艦隊は壊滅した。

第4軍
5月19日、独立第10師団(姫路)は第1軍と第2軍の中間位置の大孤山から上陸を開始し30日までに無事に上陸を完了した。
6月30日、第10師団に第5師団(広島)を加え第4軍を編成した。
・大石橋のロシア軍の牽制のために、第10師団が析木城のロシア軍陣地の全面を、第5師団が右翼を占領
・7月31日8月1日:析木城(おりきじょう)付近の陣地を攻撃。
・8月24日~9月4日:遼陽会戦
・10月9日~20日:沙河会戦
・明治38年(1905)3月1日~10日:奉天会戦

鴨緑江軍
明治38年(1905)1月12日、旅順の攻略戦を終えたばかりの第3軍から第11師団を引き抜き、後備第1師団を加えて鴨緑江軍が編成された。当初、大本営直轄部隊の予定だったが、満州軍から「鴨緑江軍も指揮下に入れて、奉天会戦に兵力を集中した方が有効」との申し入れもあり実質的に満州軍の指揮下に入ることになった。
・明治38年(1905)3月1日~10日:奉天会戦


工兵・架橋
直接戦闘を行うのは歩兵・騎兵・砲兵の戦闘部隊だが、作戦行動を容易にするため攻撃や防御、移動を支援したり軍需品(弾薬や武器、食料、被服など)を輸送する支援部隊がある。
その中で工兵(こうへい)は、野戦における築城(陣地構築)や渡河、交通(道路や橋の建設)、破壊(陣地や橋、道路など)を任務とした。工兵が綿花薬(ダイナマイト)を持って城門を爆破したり、鉄条網を破壊したり鉈や斧、大鋏で鉄条網を切り刻んだりした。戦闘兵科ではないとはいえ、工兵は時として歩兵などと一緒に最前線へ出たり、また任務によっては歩兵よりも前進して作業に当たることもある。その結果、ロシア軍の機関銃の餌食となり戦死した者も多かった。当時は機械化や車輌化がされてなく人力や馬車による人海戦術で重労働を要求された。
明治41年(1908)に刊行された「改正徴兵問答」では採用基準がつぎのように規定されている。
「工兵ハ成ル可ク工兵ノ作業ニ適当シ体力アル者凡五分ノ一ハ船ノ使用ニ慣レタル者又若干電信鉄道ニ従事シ成ル可ク読書算術ヲ能クスルモノ且手指ノ硬固ナラサル者」
祖父は、漁船「美吉丸」の船頭をしていたので「船ノ使用ニ慣レタル者」に該当した。

渡河・漕渡
漕舟は、主に櫓で木舟、全形舟(木舟4艘を繋ぎ板を渡したもの)、門橋(全形舟を2~3艘繋いだもの)を漕ぐことであった。

架橋縦列(がきょう じゅうれつ)
軍隊用語では架橋は「かきょう」と呼ばず「がきょう」と濁って発音していた。渡河用の機材や資材を輸送する部隊。朝鮮半島や清国に進軍するには多くの河川を渡る必要があり、橋を架け軍隊を移動させた。橋を架ける作業そのものは工兵が行った。祖父の手紙には架橋縦列とありさらに工兵とも書いてある。監視隊は縦列を統率し管理し護衛する役目があり監視員が担当した。

架橋作業の事前訓練
大正末期の資料(工兵第16大隊/京都・伏見)によると班編成と役割は次のようだった。
1班(6名):橋脚舟(門橋)の設置、2班(6名):橋脚舟(門橋)の設置、3班(6名):上流投錨、4班(6名):下流投錨、5班(9名):桁の運搬と配置、6班(9名):板の運搬、7班(11名):桁駐栓嵌入、板の敷置、線材の結束、欄干の構成、模合綱の取り扱い。これらは、班長の下士官が省かれた数字なので、人数は全部で60人になる計算である。
これらの班が、「立テ」「置ケ」などの簡略な号令と共に舟を運び、場所を調整しつつ、機材の爪をはめ込み、板を渡し、最後は縄で結束した。徹収作業は、架橋の時と同一の編成で逆の作業をやることになっていた。「解ケ」の号令でまず縄を解き、次いで「板除ケ」で板を外した。最後は梱包して小隊の右翼から荷車に積み込んだ。鴨緑江などで使用する橋(舟橋)は開戦前から日本で設計・建造されていた。橋は解体し他の軍需品とともに運搬し必要なときに組み立てられた。
工兵隊は満州の河川の完璧な測量図を用意していて、あらかじめ問題を想定し日本で訓練に励んでいた。

木材とロープだけで架橋の訓練
舟橋を準備し訓練
戦地での架橋

舟橋の輸送隊
架橋のために杭を打つ工兵隊

架橋する工兵隊


その他の支援部隊
輜重兵大隊
軍隊の糧食や被服、武器、弾薬などの軍需品は、輜重(しちょう)と呼ばれていた。輸送を担当する兵士を輜重兵(しちょうへい)と呼び、さらに補助員として輜重輸卒(しちょうゆそつ)がいた。輜重兵(等級:上等兵、1等卒、2等卒)は3年間の現役生活があるが、輸卒は兵士でないので3カ月で除隊できた。

輜重兵大隊とは別に食料を専門に運ぶ師団直轄の「糧食縦列」があった。

弾薬大隊
弾薬は師団直轄の「弾薬縦列」が担当した。歩兵へ弾薬を運ぶ「歩兵縦列」と砲兵への「砲兵縦列」があった。

衛生隊
衛生隊は担架兵の部隊で、前線の仮繃帯所(かりほうたいじょ)から繃帯所や野戦病院へ負傷兵を後送する役目。衛生隊が配備されることは野戦部隊として戦場に投入されることを意味する。歩兵や騎兵連隊以外の部隊は現役より予備役の兵士が多数で、特に衛生隊の兵士(担架兵)などは全員が予備役で編成された。

野戦病院
野戦病院は戦時編成上師団に配属されるが、本来は各師団に6個野戦病院の配属であった。しかし、当時の医療事情で編成とおりの6個は困難で、戦争中に各師団へ配属された野戦病院は次のとおりであった。
・第1、第2、第3、第4、第6、第13、後備第1師団:それぞれ4個野戦病院
・近衛、第8師団:それぞれ3個野戦病院
・第7、第9、第10、第11師団:それぞれ当初3個野戦病院で、奉天会戦以降それぞれ1個増加
(出典:「日露戦争における野戦病院について」黒澤嘉幸/日本医史学会)


戦地での余興
激しい戦闘後に数週間にわたって待機することがあった。そんな時、舞台を作り芸達者な兵士による芝居や義太夫、剣舞、落語、漫才、手品などが披露され兵士たちを慰めた。又、土俵を築き各部隊から力自慢の兵士を選抜し角力(相撲)大会も行われた。祖父は写真で見る限り当時としては大柄であり、佐渡では「潮風」(しおかぜ)の四股名で相撲を取っていたので、戦地での相撲大会にも参加したと思われる。明治38年(1905)3月に日本軍が奉天で勝利し、さらに5月バルチック艦隊が壊滅した以降は大きな戦闘もなく特に余興が盛んになった。

相撲大会
演芸大会


征露丸、脚気
征露丸
現在は「正露丸」の名前で販売されていて我々にも馴染みのある薬である。開発の経緯は、兵士の食あたり、水あたりに対処するためであった。明治36年(1903年)に陸軍軍医学校教官の三等軍医正の戸塚機知が、腸チフス菌・大腸菌の分離培養中にクレオソートを内服していた者から偶然ヒントを得てクレオソートの丸薬とした。ロシアを征伐する丸薬という意味から「征露丸」と名付けられた。戦地に出征する兵士に毎食後に必ず1粒服用させたが、当初はその辛さを嫌がり、飲んだふり。第二次世界大戦で日本が敗戦したので「正露丸」の名前に変更された。

脚気
高木兼寛
森鴎外
日露戦争は8万人を越える戦死者を出した。さらに戦闘で負傷したり戦地で病気にかかった将兵も35万人を上回ったが、その60パーセント以上に当たる21万人~25万人が脚気であった。脚気はビタミンB1の欠乏によって起こる栄養障害性の病気である。米を精米した白米食が始まってから脚気に悩まされてきたが、精米したときに胚芽がなくなり、そこに含まれているビタミンB1が抜け落ちてしまうからである。
症状は次の段階を経て悪化する。脚や全身の倦怠感 ⇒ 足のしびれ ⇒ 知覚異常、むくみ、運動麻痺 ⇒ 心不全を起こしてショック死。
日露戦争当時はまだ脚気の原因は解明されておらず、栄養説や細菌説、中毒説など諸説が唱えられていた。
海軍ではイギリス衛生学を学んだ海軍省医務局長の高木兼寛(たかぎかねひろ)が脚気の対策として「食」に重点を置き兵食の改良に努めた結果、脚気は海軍からほぼ一掃されていた。高木は脚気予防の一環として、カレーも海軍の兵食に取り入れた。
一方、陸軍は高木兼寛の栄養説には批判的で白米の兵食を継続したその背景にはドイツの細菌学があった。森鴎外はドイツへ留学しゴッホのもとで細菌学を学んだ。日露戦争当時、森鴎外は陸軍の第二軍軍医部長の地位にあり病理学的裏つけに欠ける高木兼寛の栄養説を批判し、細菌説にこだわった。その為に陸軍において脚気の蔓延を招く結果となった。特に輜重兵(輸卒)は激しい労働により一層ビタミンB1が不足し、38パーセント近くが脚気に罹ったとされる。


祖父の手紙
日露戦争では将校や兵士による備忘録として「日記」や「日誌」、「記録」などが残されている。
しかし、字を書けない兵士も多数いたようで大濱徹也は「日本人と戦争-歴史としての戦争体験」刀水書房で次のように書いている。
「小池定一郎は輜重兵として出征し読み書きがよくできる人で、1879年の生まれ湖北高等小学校の卒業生、<中略>兵隊仲間から令状の代書を依頼されて『一応断シタガ上司ノ命ニヨリ詮ナク端書八十枚モ書キヤッタ』という状況にあったからです。いわば、字を書けない兵士が非常に多いだけに小池のような人は重宝がられました」。
祖父の場合は、戦地の清国連家屯から両津町の有力者で県会議員だった齋藤八郎兵衛(さいとうはちろべい)へ手紙を出していた。納屋元(なやもと)の船頭に過ぎない祖父がこのような達筆(字の下手な孫の小生にとって)なことに驚いた。
手紙は次の通り。(クリックすると大きくなる)
手紙 1/3
手紙 2/3
手紙 3/3
なかなか判読するのが難しいので高校時代の友人のO君に翻訳?を頼んだところ、次のようにしてくれた。
手紙 1/3
手紙 2/3
手紙 3/3
さらにO君は文面の字句類を次のように解説もしてくれた。
解説
解説・手紙1/3
解説・手紙2/3
解説・手紙3/3

O君は都立高校の国語・古文の元教員で彼に頼んで正解だった。彼のお蔭で祖父の手紙を良く理解出来たので感謝している。

連家屯
祖父がいた連家屯の場所がどこなのか調べた。グーグルマップで地名を入れると「中華人民共和国遼寧省大連市普蘭店市連家屯」とあり遼東半島にあった。しかし、祖父のいた第2師団はこの方面へ進出していない。参考文献の本や資料で連家屯が出ていないか調べたが、今のところこの地名は出てこない。
ちなみに「家屯」がつく地名は日露戦争の地域及びその周辺に数多くあった。
得利寺周辺:超家屯、陳家屯、梁家屯、南家屯、張家屯
大石橋と蓋平周辺:牛家屯、胡家屯、李家屯、沈家屯、高家屯、方家屯
しかし、得利寺も大石橋も祖父のいた第1軍でなく、第2軍の進軍ルートである。残念ながら連家屯が特定できない。


講和会議と終戦
明治38年(1905)3月に奉天の戦いに勝利し、ロシア軍は鉄嶺へ退却した。日本軍は奉天と鉄嶺を占領したが、ロシア軍をこれ以上追撃する戦力はもうなかった。日本海海戦に勝利した日本政府は、ルーズベルト米国大統領に日露講和の斡旋を申し入れルーズベルトも時機到来と判断し斡旋に乗り出した。ロシア政府は「ロシアの領地が日本軍に占領されていない」と言って講和を拒否していた。そこでルーズベルトは金子堅太郎に「日本はすみやかに樺太を占領する必要がある。講和談判が開始されない今のうちならよいから、早く樺太を取るように」と伝えた。ルーズベルトには、日本がロシア領の樺太を占領すれば、ロシア側に日本の講和条件を飲ませやすいと考えていた。
しかし、樺太攻略案は陸軍も海軍も兵力不足を理由に賛成しなかった。結局、軍部や政界の実力者である満州軍総参謀長の児玉源太郎の賛成により樺太攻略が決定された。
・5月27日:日本海海戦始まる
・5月28日:バルチック艦隊壊滅
・5月31日:日本政府、米国大統領に日露講和斡旋を要望
・6月7日:ロシア皇帝、米国大統領の講和提案を内諾
・6月30日:日本政府、日露講和の条件を閣議決定
・7月7日:日本の樺太遠征軍、樺太南部に上陸
・7月31日:樺太のロシア軍降伏
・8月10日:日露講和会議、米国のポーツマスで始まる
・8月29日:日露講和が成立
・9月5日:日露講和条約調印
・9月14日:満州軍総司令官大山巌、全軍に休戦命令

日露講和会議(ポ-ツマス会議)

手前左から3人目小村、4人目高平
講和会議は米国東海岸のポーツマス(ニューハンプシャー州)の海軍造船所で、8月10日から9月5日までほぼ1カ月間行われた。
日本側全権委員:小村寿太郎(外相)、高平小五郎(駐米公使)
ロシア側全権委員:セルゲイ・ウィッテ(元 蔵相)、ローマン・ローゼン(駐米大使、前駐日公使)
日本側の講和条件は次の通り。
・絶対的必要条件:①韓国の自由処分 ②満州からの両軍撤退 ③遼東半島租借権とハルビン-旅順間鉄道の譲渡
・比較的必要条件:①戦費賠償 ②中立港へ遁入したロシア軍艦の引渡 ③樺太と附属諸島の割譲 ④沿海州沿岸の漁業権譲与
なかなか妥協点が見つからず交渉決裂かと思われたが、ルーズベルトの必死の工作により次のように妥協が成立した。
・日本は賠償金支払い要求を放棄する
・ロシアは日本の絶対的必要条件に加え樺太の南半分を割譲する

日露講和条約(ポ-ツマス条約)が調印された9月5日に日本では講和の内容をめぐって一大騒動が起きていた。東京の日比谷公園で「講和条約反対国民大会」を開いた。そして一銭の賠償金も取れなかったというニュースが伝わるや、講和反対大会の参加者たちが暴徒化し首相官邸や内相官邸、新聞社などに押しかけ交番を焼き打ちにするなどの大暴動を巻き起こした。


その他
歴史を調べていると今まで知らなかった関連する出来事や人物に出会う面白さがある。又、名前や事件は知っているが詳しい内容までは知らなかったこともある。

新聞・雑誌
主戦論
日露の緊張が高まっていく中、明治36年(1903)4月以降には強硬派の活動が目立ち始めた。「東京朝日新聞」や「読売新聞」など多くの新聞が強硬外交に転じた。同年8月には開戦論に批判的だった「時事新報」や「中央新聞」が開戦論に転じた。さらに10月には徳富蘇峰の「国民新聞」も開戦論に同調した。
非戦論
主戦論の主張する開戦の危機の中で、いくつかの非戦論が発表され活動があった。
・人道主義的立場から:黒岩涙香の「万朝報」(よろずちょうほう)、島田三郎の「毎日新聞」など
・キリスト教的立場から:内村鑑三、柏木義円、救世軍など
・社会主義的立場から:幸徳秋水、堺利彦、木下尚江ら
しかし、明治36年(1903)10月に「万朝報」が開戦論に転ずると「毎日新聞」も11月に開戦論に転じた。その為に幸徳秋水や堺利彦、内村鑑三は万朝報社を退社した。11月に幸徳秋水と堺利彦は平民社を設立し、平民主義・社会主義・反戦・非暴力を訴え、週刊新聞の「平民新聞」を創刊、一貫して非戦論を説いた。

内村鑑三
キリスト教思想家で無教会主義の創始者であった内村鑑三は日露戦争の際は非戦論を主張した。
調べると彼の知られていない面(水産伝習所の教師や佐渡とのつながり)があり驚いた。実は、彼は明治17年(1884)6月に佐渡の両津と鷲崎(わしざき)を訪れ水産調査を行っていた。さらに、佐渡で発行されていた「北溟雑誌」に明治23年(1890)4月に「佐渡論」を連載していた。
・両津と鷲崎での水産調査
彼は札幌農学校の2期生(新渡戸稲造が同期生)で水産学を専攻。明治14年(1881)に卒業後、北海道開拓使民事局勧業課に勤務し水産を担当した。明治15年(1882)、開拓使が廃止されたので札幌県御用係になり漁業調査と水産学の研究を行った。同年12月、農商務省水産課に勤め日本産魚類目録の作成に従事した。明治17年(1884)6月、小樽港より三菱会社の汽船で佐渡を訪れた。この時に両津と鷲崎の水産調査を行って小樽へ戻っている。
・北溟雑誌への連載
彼は米国で留学中に神学と理学を学んだ。明治21年(1888)5月に帰国してから北越学館(新潟)や東洋英和学校、明治女学校で教鞭をとった。明治22年(1889)3月から翌年の23年(1890)8月まで大日本水産会水産伝習所(後の水産講習所、東京水産大学、現 東京海洋大学)で水産学の教師をした。この時の教え子に佐渡・相川出身の森知幾(もりちき)がいた。佐渡へ戻った森が編集していた「北溟雑誌」へ内村鑑三は「佐渡論」を連載していた。

与謝野晶子
出征した弟を思って書いた詩「君死にたまふことなかれ」は、開戦後の明治37年(1904)の「明星」9月号に掲載された。
長い詩なので最初の部分だけを書いてみる。
「旅順の攻囲軍にある弟宗七を嘆きて
あゝをとうとよ、君を泣く、君死にたまふことなかれ。末に生れし君なれば 親のなさけはまさりしも、親は刃をにぎらせて 人を殺せとをしへしや、人を殺して死ねよとて 廿四までを育てしや」
明治43年(1910)4月に海軍の潜水艇の訓練中に起こった事故を詠んだ歌集「青海波」もある。その中の1首。
「水漬きつつ 電燈きえぬ 真黒なる 十尋の底の 海の冷たさ」(みづきつつ でんとうきえぬ まくろなる とひろのそこの うみのつめたさ)

多磨霊園
家から歩いて数分の場所に都立多磨霊園がある。この霊園には日露戦争やその時代に関係した人たちのお墓がいくつかある。
・新渡戸稲造・東郷平八郎・高橋是清・内村鑑三・与謝野晶子・徳富蘇峰
内村鑑三の墓碑:I for Japan; Japan for the World; The World for Christs; And All for God.


あとがき
日露戦争は、日本軍8万4000人、ロシア軍5万人という多くの戦死・戦病死者を出して終わった。両軍の戦死者以外にそれぞれ14万3000人、22万人という戦傷者もいて彼らの社会復帰も戦後の課題であった。祖父の手紙にもあったが当時の清国や朝鮮の庶民の暮らしは惨めなものであった。日露戦争の10年前に日清戦争で朝鮮や清国へ行った兵士たちは現地で「不潔」と「におい」を感じたそうだ。そして、日露戦争でこの感覚がさらに深まり、文明国日本を確信し野蛮で未開な朝鮮と清国という認識を持った。これにより自分たちを文明の民と確信し未開野蛮なるアジアへの蔑視と憎悪を強くしたのだろう。このアジアへの優越感により中国や東南アジア(ベトナムやビルマ、マレーシア、フィリピンなど)での戦争へつながってしまったと思われる。

日露戦争後に陸軍当局によって極端な精神主義が煽られた。つまり、「戦闘は銃剣突撃をもって決する」とする白兵主義であった。その後の日中戦争や東南アジアでの戦争、日米戦争(太平洋戦争)においてもこの主義が貫かれた。

祖父は支援部隊である工兵部隊・架橋縦列の兵士だった。戦闘の第一線で戦う歩兵がどうしても中心となり、他の兵科は次のランクとして見られる傾向があった。
特に輜重輸卒は労働が過酷にもかかわらず一番下に見られた。「輜重輸卒が兵隊ならば、電信柱に花が咲く」とも言われ、武装も銃剣のみで体格も劣る人が多く悲惨な境遇だった。しかし、前線で戦う兵士も武器・弾薬や食料、医薬品の補給がなければ戦えない。進軍の道路を整備したり敵の地雷を除去したり城門を破壊、鉄条網を破るなど、又、河を渡るための橋を作らねば河の向こう側へは行けない。こうした人々の大きな犠牲のかげもあり日露戦争に勝利したことを忘れてはならないと思う。
日露戦争以降も日中戦争や日米戦争(太平洋戦争)に敗れるまで、日本軍大本営・上層部は兵站・補給を軽視し前線の数多くの兵士を無駄に死なせてしまった。

司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」で日露戦争の歴史を知った人が多いと思う。秋山好古と秋山真之の兄弟や乃木大将、日本海海戦については詳細に書かれている。司馬遼太郎は優れた歴史作家であり、「街道をゆく」シリーズの紀行作家でもある。しかし、我々は彼の歴史観に影響され過ぎてはいないだろうか。
これは坂本龍馬を描いた「竜馬がゆく」についても言えると思う。坂本龍馬のイメージは、司馬遼太郎の小説からどうしても龍馬の人物像を描いてしまう。人物なり事件や出来事は、少なくとも視点の違う数冊の本や資料・雑誌などを読んでから、自分なりの視点を持ち判断をした方が良いと思われる。

祖父は漁業組合の理事もしていたようだが、戦地からの手紙以外に情報が少なく今後出来るだけ集めてみようと思う。

祖父の日露戦争についての記事をホームページに載せる旨を従兄(北海道・室蘭在住)に伝えたところ次のような連絡があった。
「父方の祖父は祖母と結婚前に日露戦争に参加。旭川師団の兵隊として、203高地の激戦で腕に銃弾を受け負傷した。そのために生きて帰って来られたそうです。子供の折、祖父から腕の傷痕を見せられ乃木将軍の話をよく聞かされました。今考えてみれば、もう少しいろんな事を聞いておれば良かったと思っておりますが、子供にはとても無理ですね。神蔵家の日露戦のルーツを楽しみにしています」。
従兄の母は小生の父の妹。従って、彼は父方の祖父と母方の祖父(神蔵留次)の2人が日露戦争に出征していたことになる。
親戚となったこの二人は、会って日露戦争の体験を話したことがあったのだろうか。


参考文献
・「征露紀念 二師団戦史目録」三沢好吉/三沢書店
・「日露戦役餘談 全」石井常造/不動書店
・「アジア歴史資料センター」国立公文書館
・「写説 日露戦争 『日本外交』総力戦」太平洋戦争研究会/ビジネス社
・「徹底検証 日清・日露戦争」半藤一利 他/文藝春秋
・「日本人と戦争-歴史としての戦争体験-」大濱徹也/刀水書房
・「真説 日露戦争」加来耕三/出版芸術社
・「米国特派員が撮ったThe Russo-Japanese War 日露戦争」コリアーズ編 小谷まさ代訳/草思社
・「日露戦争PHOTOクロニクル」澪標の会/文生書院
・「別冊歴史読本 日露戦争古写真帖」新人物往来社
・「戦記クラシックス 日露戦争」近現代史編纂会/新人物往来社
・「検証 日露戦争」読売新聞取材班/中央公論新社
・「ある歩兵の日露戦争従軍日記」茂沢祐作/草思社
・「兵士たちがみた日露戦争-従軍日記の新資料が語る坂の上の雲-」横山篤夫・西川寿勝 編/雄山閣
・「写真で読む『坂の上の雲』の時代」歴史スペシャル編集部/世界文化社
・「世界史の中の日露戦争」山田朗/吉川弘文館
・「日清・日露戦争」原田敬一/岩波新書
・ フリー百科事典「ウィキペディア」

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