旅を終えて
戦争
昨年の沖縄の旅で戦争について考えた。今回の東南アジアの旅も同じように戦争について考えることが多かった。
その1:JEATH戦争博物館と永瀬隆さん
カンチャナブリでクウェー川(クワイ川)鉄橋と戦争博物館の見学を終え、バンコックへ戻る高速バス乗り場へ行ったら出発までに時間があったのでJEATH戦争博物館を見学した。日本人らしい銅像があった。MR.TAKASHI NAGASE とあり碑文を見ると陸軍の通訳だったとのこと。帰国して調べてみると次の通り。
・大学卒業後、英語通訳として陸軍省に入省。太平洋戦争中の昭和18年(1943)にタイ国駐屯軍司令部カンチャナブリ憲兵分隊に赴任。連合軍捕虜の通訳にあたった。
・一般の日本人が海外旅行できるようになった昭和39年(1964)から毎年タイを訪問し、連合軍捕虜やアジア人労働者の犠牲者を慰霊。
・毎年、自費でタイの若者を日本へ留学生として招待。
・生き残った連合軍の捕虜たちに対して時間がかかりながらも和解のために行動した。
今回、この博物館へ行って初めて永瀬隆さんを知った。もっと、多くの人に永瀬隆さんを知ってもらいたい。
平成23年(2011)6月に郷里の岡山で亡くなった。享年93歳。合掌。
その2:クアラルンプールのシティギャラリー
「日本は広島と長崎へ原爆が落とされて降伏した」との説明文がある。
確かに事実なのだが、多くの民間人が住む広島と長崎にアメリカが原爆を使用したのは、人道上の罪なのではなかろうか ?
人類史上、最も醜悪な爆弾である原爆を避けるためにいくつか疑問が出てくる。
・なぜ、アメリカは「日本が降伏しなければ、日本のいくつかの都市に原爆を落とす」と事前通告をしなかったのか?ソ連へのデモンストレーションもあっただろう。しかし、アメリカで原爆の使用に反対した人がいた。
「昭和史 1926->1945」半藤一利/平凡社によれば次の通り。
「ラルフ・バードという海軍次官が日本への使用に猛反対した。どうしても使用するなら、前もって日本に予告すべきである、日本人にそれに対処する時間を与えるべきである、と主張した。<中略>無警告投下の政策が決まったのを受けて、バードは辞表を提出し、7月10日に自ら職を離れた」
・なぜ、日本は原爆を落とされる何カ月か前に降伏をしなかったのか? 検討すべき時は、例えば、1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲。
足が不自由だった叔父(父の弟)は衛生兵として徴兵され日本で終戦を迎えている。さらに別の叔父(母の弟)が東部ニューギニア(現在のパプアニューギニア)で昭和20年3月に戦病死している。太平洋戦争・大東亜戦争に関係する本や雑誌を読んでいる。叔父の戦病死でさらに多く読み戦争の背景や実態を調べている。様々な考えがあるが、調べるにつれ「当時の国や軍の指導者たち及び皇族のエゴにより多くの兵隊や民間人が犠牲になった」との結論を出さざるを得ない。つまり、面子や虚栄心、自尊心、出世欲、優越感、負けを認めたくないなどあまりにも人間的なエゴを当時の指導者たちに感じてしまう。
その3:マラッカのスタダイス歴史・民族博物館
日本軍が現地の人たちを処刑後の写真は本当にショックだった。
説明文
「Although the number of Chinese that were killed was the largest, other races who did not cooperate with Japanese military authorities also suffered the same fate. Sikh solidiers who cooperated with British were also shot by Japanese soldiers.」
要約「日本軍により殺害された民族のうち中国人が最も多いが日本の軍政に協力しなかった他の民族もまた同じ運命だった。英国軍に協力したシーク教徒の兵士たちも日本兵により撃たれた」
その4:マラッカの独立宣言記念館
昭南新聞の英字版があった。皇紀2604年、昭和19年の2月9日付けの新聞。一面の見出し「Nippon will Treat East Asia People As Brothers, Sisters. Premier Tojo's Declaration At Lower House Meeting " HAKKO ICHIU" STRESSED」とある。新聞の記事とは違い当時の日本人はアジアの人々を下に見ていたのは間違いないと思う。そして今もそう考えている人たちがいる。
その5:マラッカの宿で会ったトルコ人
「中国人は日本人を嫌いだと言うが、どう思う?」と聞いてくる。彼が会った中国人が言っていたそうだ。その中国人と彼の出会いの状況が分からないが、知らない外国人(トルコ人)に「日本人は嫌いだ」と言う中国人も思慮が欠けているのではないか。確かに両国間には歴史の複雑な背景があり戦後67年経っても双方の理解が進んでいない。トルコの2人に小生の持論を言った。「Not Nationality, but Personality」(外国人を判断するのは国籍でなく個人が大切だ)。どこの国にも様々な考えや性格の人がいる。単純化すればどこの国にも「いい人」もいれば「悪い人」もいる。
その6:マラッカで見た映画「MY WAY」
・帰国してからこの映画を調べた。
日本でのタイトル「マイウェイ 12000キロの真実」。宣伝文句「日本 ソ連 ドイツ 3つの軍服を着ることになった数奇な運命」。
時代順 ?京城(現 ソウル)1928年(昭和3年)消えたオリンピック ?満州国ノモンハン 1939年(昭和14年) 運命の再会 ?ソ連・ジェコフスキー 1941年(昭和16年)絶望そして究極の選択 ?フランス・ノルマンディ 1944年(昭和19年)全てを失って気ずいた大切なこと
・この映画のきっかけはアメリカ国立公文書館に保管されていた一枚の写真とそれにまつわるエピソードだった。ノルマンディの戦いの後にアメリカ軍がドイツ軍の捕虜の中に東洋人を見つけた。彼が語ったのは、日本、ソ連、ドイツと3つの軍服を着て戦い、遙か国境を越えてノルマンディまでたどり着いたという信じられない話だった。監督はこの話からイメージを膨らませ二人の青年(日本人と朝鮮人)の物語とした。
・いかにも事実に基づくように作っているが調べてみると、1939年のノモンハン事件では朝鮮人の徴兵はまだなく1944年から徴兵された。この映画は日本人が差別的で粗暴とのイメージを一方的に植えつける危険性がある。ただ、戦争中に数多くの悲惨な出来事があったのは間違いない。朝鮮人がマラソンレースで日本人に勝った時に映画館の観客が「拍手」したのは忘れられない。

華人
・タイやマレーシアには中国がルーツの多くの人がいる。シンガポールは大多数が中国系の人だ。
「現代 東南アジア入門 改訂版」藤巻正己・瀬川真平/古今書院によれば次の通り。
「中国を離れて海外に居住する中国系住民は、従来、"華僑"(overseas Chinese)と呼ばれることが多かった。しかし1949年の中華人民共和国成立以後、彼らの多くは、華僑の"僑"が意味する"僑居"(仮住まい)すなわち海外出稼ぎ者という意識をすでに失っており、居住国の社会に定着している。このため彼ら自身、"華僑"と呼ばれることを好まず、今では"華人"(ethnic Chinese)という呼び方が定着している」
・世界には数多くの華人がいるが中国共産党が支配する今の中国を彼らがどのように見ているのか? 又、多くの中国人が海外へ観光に行っているが、言論・表現の自由がある外国・社会をどのように考えているのか?知りたいところだ。

フランシスコ・ザビエル
・マラッカにフランシスコ・ザビエルの像があった。日本史でキリスト教の宣教師として出てくる人物。
「図説 ポルトガルの歴史」金七紀男/河出書房新社によれば次の通り。
「1549年8月15日、フランシスコ・ザビエルが鹿児島に到着して、キリスト教布教の第一声をあげた。1542年、ポルトガルからインドに渡りアジア各地で布教活動をしていたザビエルはマラッカで日本人アンジローと出会い、彼の聡明さとニコラオ・ランチロット神父の日本情報に魅せられて日本での布教を決意したのである。ザビエルはアンジローに導かれて、平戸から山口を経て京都に着いた。<中略> 1551年、ザビエルは大分をあとにしてインドに戻った。彼の日本滞在は2年3カ月で、改宗した信者は1000人に満たなかった」
・アンジローのことは帰国後にこの本で知ったが、フランシスコ・ザビエル教会に彼の銅像があることをネットで知った。日本を出発前に知っていれば見学したのに残念。

国籍
実に様々な国籍の人に出会った。
・アジア
タイ人(タイ系、中国系、マレー系)、マレーシア人(マレー系、中国系、インド系)、シンガポール人(中国系、インド系、マレー系)、インドネシア人、インド人、中国人、日本人、台湾人、香港人
・中近東
シリア人、レバノン人
・ヨーロッパ
スイス人、イギリス人、ブルガリア人、ノルウェー人、ドイツ人、ポルトガル人
・北米
マメリカ人、カナダ人(中国系、インド系)
東南アジアでは華人パワーとインドパワーを実感した。
東南アジアの若者には日本の漫画やアニメのファンも多く、日本に興味を持っている若者もいる。きっかけは漫画やアニメであっても、今の日本とそれぞれの国について双方の若者が国際交流を深めるのにもっと予算をつけてもらいたい。

お土産
孫たちへ色々なお土産を買った。女房曰く「これだけ多ければ縁日で店が出せる」。確かに種々雑多な小物類を買った。さらに、我家と娘の家族、息子の家族用に同じチョコレートを3箱買った。しかし、ドリアン味のチョコとは気がつかなかった(箱にはDurianと書いてあったのだが・・・)。結局、小生が責任を取って(?)2箱食べるはめになった。しかし、幸いにも2箱目を食べる頃にはドリアンの味に慣れていた。
孫たちへのお土産 ドリアン味のチョコ

以上


東南アジアの旅 


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