佐渡一周歩き旅2013年9月9日〜18日
1日目:9月9日(月) 快晴 歩行距離/累計:25km/25km
実家(発08:00) ⇒ 梅津 ⇒ 白瀬(着09:00/発09:30) ⇒ 和木 ⇒ 馬首 ⇒ 浦川(着12:00/発13:00) ⇒ 黒姫 ⇒ 宿(北小浦)(着15:30)
宿泊:辻さん宅
自転車での島巡りは左側に海を見て走るので時計回りに一周するが、今回は歩きなので右側に海を見る為に反時計回りとした。ザックは約10kgとなりこの重さでスタートすることにした。最悪の場合は野宿するので寝袋を持った。出発前に兄たちや兄嫁と一緒に記念写真を撮る。 実家のすぐ近くの両津欄干橋を過ぎて村雨の松を見ながら夷の商店街を歩く。昔は賑やかな商店街だったが、今はシャッター街となってしまった。
出発/実家前 両津欄干橋・村雨の松 佐渡中等教育学校(前 両津高校)への坂道を左に見て北平沢神社の海難供養句碑に着く。この句碑は長兄と福島徹夫さん(元 栽培漁業センター所長)の二人が昭和62年(1987年)4月に建立したものだ。句碑は年月が経っていて残念ながら句の文言が判読出来ない。20数人もの大量の犠牲者を出した大正15年の両津湾漁船遭難事故をはじめとする島内の海難犠牲者の霊を悼む為に二人が建てた。句碑を建てた時の新聞記事を兄からもらっていた。合作の句「かばね無き漁夫の葬りや島吹雪く」。
海難供養句碑 句碑のある北平沢神社の前に「木食堂(もくじきどう)」があった。江戸時代の遊行僧(ゆうぎょうそう)である木喰は60代で仏像を造り始め、北海道から九州までの修行中に各地に仏像を残した。生涯に千体を超す仏像を彫ったと言われている。天明元年(1781年)64歳、佐渡へ来て両津を中心に4年間滞在。彼の彫った仏像は石名清水寺(イシナセイスイジ)に2体、大興寺(ダイコウジ)に1体、佐渡博物館に1体ある。 木食堂は鍵がかかっていて中へ入れなかった
白瀬(しろせ)漁港で小休止。靴を脱いでウォーキングサンダル(ミズノ製)を履く。このサンダルはネットで検索して見つけたもので立川の店で買った。長い距離を毎日歩くと足にマメが出来て歩くのが大変なことがあるのでこのサンダルも用意した。和木(わき)の集落へ入る。高校の同級生のT君が生まれ育った土地だ。残念ながら彼は今年の春に亡くなった。早過ぎる逝去。道路沿いにいくつか墓があり彼の名前を探すが見つからなかった。
馬首(うまくび)に着く。この集落に祖母の弟が住んでいて馬首川が氾濫した時にこの人の家が床上浸水の被害にあった。祖母の実家の五郎助(湊)の2歳上のトシジさんと一緒に家の片付けに来たことがある。高校1年生の頃かな? 遠い遠い昔の話だ。
北松ヶ崎を過ぎると「平松トンネル」があった。トンネルの入口と出口に民話を題材にしたレリーフがある。
これから先にある集落の浦川に住んでいる中学時代の同級生のMさん(女性)に電話するが、誰も出ない。
平松トンネル 平松トンネル 快晴で残暑が厳しい中をひたすら歩く。小さな岬から浦川漁港と集落が見えた。空と海の青さが素晴らしい!! Mさんはお寺(文珠院)に嫁いでいてお寺の場所を郵便局で聞いて向かう。長い石段を上るとお寺があった。子供と一緒にいる女性(息子さんの奥さんと後日分かった)に聞いたらMさんは外出中とのこと。女性に趣旨を話して伝言を頼んだ。長い石段を下りたら足がつってしまった。実家から炎天下10kgのザックを背負い4時間位歩いた。足がつったのは、初日なのでまだ長い距離を歩くのに慣れていないのだろう。道路沿いの家々の表札を見て高校の同級生K君の実家を探すが見つからなかった。出発前に彼に場所を聞くべきだった。浦川の海岸で昼食。兄嫁の弘子さんが持たせてくれたオニギリとオカズがうまい。
浦川漁港 文珠院 靴をやめてウォーキングサンダルにする。裸足だと擦れて痛むので5本指の靴下をはいた。30分位歩いたが擦れないので快適。これからはこのスタイルで歩こう。
黒姫(くろひめ)を過ぎて「内海府トンネル」があった。長さ:1,760m。自転車で北海道を旅行した時は長いトンネルが多く大変だった。辻さんのお宅のある北小浦へ3時半頃に着く。4時頃に伺うことになっており漁港にある小さな公園で小休止。北小浦ダイビングセンターがある。このセンターは、ダイバーたちにコブ鯛の弁慶へ案内する施設。もっとも、弁慶は最近姿を見せず老衰で死んだ?との記事を見たことがある。
内海府トンネル 北小浦ダイビングセンター 辻さんのお宅は川沿いにある大きな家であった。奥さんと二人暮らしで成人した子供さんたちは島外に住んでいるとのこと。辻さんは大正生まれと思えないくら若々しい方である。夏休みに遊びに来るお孫さんたちのことを嬉しそうに話す。小生も孫がいるので同じ気持ちになる。短歌グループの「歌と評論」で作品賞を受けた時の冊子を見せてくれた。終戦時は中国にいたとのことで軍隊時代の短歌が多く載っている。小生は60の手習いで短歌を始めたが、辻さんは短歌の大先輩である。奥さんは温厚な方で辻さんと小生の会話を微笑みながら聞いている。楽しい夕餉であった。
2日目:9月10日(火) 快晴 歩行距離/累計:23km/48km
宿(発08:00) ⇒ 鶯山荘(鷲崎)(着09:00/発10:00) ⇒ 弾埼灯台(10:30) ⇒ 二ツ亀(着11:20/発12:40) ⇒ 大野亀(着13:00/発13:30) ⇒ 真更川 ⇒ 宿(岩谷口)(着18:00)
宿泊:外海府ユースホステル
辻さんの家があまりにもりっぱなので写真を撮らせてもらう。大黒柱や梁が大きく太い。今 このような家を建てるとしたらいったい建築費はいくらになるのだろう。辻さんの奥さんから大きなオニギリ2個とペットボトル(氷らせたお茶)をいただく。佐渡歩きの旅の初日に辻さんのお宅に泊まらせていただいて本当に良かった。
辻さん宅 辻さん宅 今日も一日暑くなりそうだ。鷲崎(わしざき)へ向かって歩く。波消しブロックを積んだトレーラーが北小浦漁港へ向けて通る。道路が狭いので遠くにトラックや車を見かけたら通り過ぎるまでその場で立ち止まる。交通事故に遭わないよう注意しよう。
鷲崎の集落へ入る。バス通りから離れて漁港への下り道を進む。途中まで行ったがこの坂を漁港から戻るのが大変なので引き返した。とにかく暑い。
鶯山荘(おうざんそう)へ寄る。
この山荘は久保田フミエさんが建てたもの。久保田さんの実家は小生と同じく両津湊。入り口に「鶯山荘文学碑林」とある。彼女は歌誌「まひる野」の同人であり、これまで何冊も歌集を出している。庭に多くの歌碑がある。窪田空穂、窪田章一郎、高浜虚子、宮柊二、吉野秀雄、釋迢空、馬場あき子、永田和宏、河野裕子など。これだけの数の歌碑・句碑のある場所は他にあるのだろうか。
「両極を一とせに翔ぶ渡鳥極アジサシよアンカレッジの空」窪田 章一郎
「あきらけく島山あけて空に鳴く聲こそはすれ朱鷺わたるらし」宮 柊二
何年か前に兄と来たがその時より歌碑が増えている。「はじき野フィールドパーク」着。夏休みのシーズンは混むのだろうが、9月の平日なので人が少ない。弾埼灯台と海に近い場所に見晴らし台がある。映画「喜びも悲しみも幾年月」の主演、佐田啓二と高峰秀子が寄り添う像が建っている。像の前に立つと、「おいら岬の・・・・・」の歌が大音量で流れる。どうやら像の前に人が立つとセンサーが反応して歌が流れるようだ。海辺に藻浦(もうら)の集落が見える。
歌碑・句碑/鶯山荘 歌碑・窪田章一郎
弾埼灯台・佐田啓二と高峰秀子銅像 見晴台から藻浦を望む
バス通りを離れ浜辺への道を下り、藻浦集落へ出る。ひっそりとした集落だ。大正時代に遭難した松島丸の慰霊塔へ行った。ずいぶん昔に建てられた塔なので風雪厳しいこの地であり文字はほとんど読めなかった。近くに「松島丸トド岩座礁顛末記」の説明板があり海難事故の内容が書いてある。
松島丸慰霊塔
「大正4年(1915)2月11日、小樽港を出港し能登伏木港へ航行中の松島丸は12日午前1時40分 当所沖のトド岩に座礁した。船長を残す(後に助かる)船客船員全員が2隻のボートに転船し陸に向かって避難するが、ボートが破損してボースンを除く他全員(約80名)が行方不明となった」
松島丸の犠牲を教訓に大正8年、佐渡最北端の弾崎に灯台が建った。昭和39年(1964)の新潟地震や冬場に多い雷により老朽化が進んだため平成2年(1990)に2代目として現在の灯台が建てられた。浜辺の細い道をひたすら歩く。カンカン照りでとにかく暑い!! 二つ亀海水浴場へ出た。欧米系の若い男女が泳いでいる。ここで小休止。女性はトップレス。2人が泳ぎを終えてキャンプ場へ戻ろうとしていたので話しかける。女性は大きなタオルで胸を隠している。オーストリアの学生だった。佐渡では路線バスで移動してキャンプ場でテント泊だそうだ。2人の青春に幸多かれ!「賽の河原」へ行く。海沿いの石ころ道を歩くが途中でザックを降ろし 身軽になって行った。昔、ここへ来たことがあるが佐渡を舞台のサスペンスドラマでは定番の場所。
賽の河原から戻り再びザックを背負って海水浴場からキャンプ場への長い段を上る。1段上る毎にザックの重さを感じる。上り終わった広場にバイクスーツの女性が2人いた。館林(群馬県)から関越道を走り、新潟港からフェリーで両津港着。両津港からバイクでここまで来たとのこと。「バイク女子?」と言ったら、2人とも笑っていたがアラフォーかな。
二つ亀 賽の河原 二つ亀 バス通りへ戻り大野亀へ向けて歩く。暑い、どうしてこう暑いんだ。汗がダラダラ流れる。ペットボトルの氷ったお茶が少しずつ溶けて冷たくなっていて飲む。後ろからバイクの音が聞こえププーと警笛を鳴らして先ほど会ったバイク女子の2人が通り過ぎる。
大野亀 大野亀がよく見える食堂がある。辻さんの奥さんが作ってくれたオニギリを食堂前のベンチで食べる。食堂の前にバックを付けた自転車があり男性がいる。男性の話:
江戸時代、この大野亀の沖合いにペリーが浦賀に来航した時より4年早く異国船が現れた事件があった。
・大阪出身で65歳 ・1ヵ月前に稚内から内陸を走って函館。函館から青森、秋田、山形を走った ・今朝 新潟港からフェリーで両津港へ着いて走り出した
テントも積んでいるが重々しい荷物でなく今後の自転車の旅の参考にしよう。
佐渡年代記より
嘉永2年(1849)7月19日、大野亀から約8里の沖合いに異国船1隻。真更川の浦目付役から朝五つ時 佐渡奉行所に注進があり、20人に武器類を用意して大野亀に出張させた。異国船は2里ほどの沖合いで艀2隻を降ろして、渚近くに漕ぎ寄せて来た。佐渡奉行所の者たちが海岸にいるのを見受けたためか、元船へ漕ぎ帰り同日夕七つ時頃に西南の方へ去って行った。海岸沿いの道を歩く。2人乗りしているバイクが通り過ぎる。北鵜島(きたうしま)の集落へ入ると先ほどのバイクの若いカップルが道端で休んでいる。ザックを背負ったまま話す。2人とも佐渡生まれで佐渡に住んでいるが、今日の宿の「外海府ユースホステル(YH)」を知らなかった。今の若い人はYHを知らない人が多いのだろう。自転車で北海道を旅行中にYHにも何回か泊まったが、あるオーナーが「今はユースホステルでなくシルバーホステルですよ」と言っていた。
北鵜島の集落を離れると長い上り坂。海抜の低い所からいきなりの上りでキツイ。太陽ギラギラ、汗ダラダラ。ザックの重みが体にこたえる。テントや食材を実家に置いてきて大正解。
真更川(まさらがわ)を過ぎてから足元がふらつく。右端を歩いているのだがどうしてもセンターラインへ寄ってしまう。海府大橋の手前で後ろから来た車の人が「どこまで行きますか? よかったら乗って行きませんか?」と声をかけてくれる。「有難うございます。歩きの旅なのでこのまま歩きます」と答えた。海府大橋を渡り小休止。休憩後に重いザックを背負うのが嫌になる。出来たらザックをこのまま置いて歩きたい。
跳坂より岩谷口を望む 跳坂(Z坂)の下りを歩く。この坂は毎年5月に行われる佐渡一周の自転車競技の最大の難所で高低差130mのジグザグの上りとなる。この坂を自転車で上るのはきついだろうな。進行方向の下に岩谷口(いわやぐち)の集落が見えるのだがなかなか着かない。坂の途中の大きな滝を見ながら下へ進む。
夕日 「外海府ユースホステル」に到着。和風にアレンジしたきれいなYH。お風呂に入り手足を伸ばして満足。夕食前に海岸へ出て夕日を見る。
談話室も兼ねた部屋で夕食。長く低い木のテーブルがあり座布団に座って食事を取る。今晩の宿泊客は小生の他に2人(男性1人と女性1人)。昨晩、辻さん宅で飲み過ぎたので今晩は自粛し普通サイズの缶ビールとした。男性は大瓶のビール。普通サイズの缶ビールはあっという間に飲んでしまった。
男性(Yさん)
64歳、結城市(茨城県)在住。佐渡へは今回を含めて19回来ている。最初は家族も一緒だったが、その後は1人で来てこのYHだけに泊まり近くの川でヤマメを釣る。佐渡に海釣りで来る人は多いが川でヤマメ釣りをする人に初めて会った。元気そうに見えるが糖尿病と心臓病、喘息だそうだ。こんなにも病気を抱えているのに茨城弁でひょうひょうと話す面白い人。
女性
筑波大の4年生。専攻は歴史学で中国の明の時代。来春の就職は決定したが専攻とは関係ない職種とのこと。茨城の男性と同じく何回もこのYHへ来ていてオーナーとは顔なじみ。ロング缶を何本か持った男性がやって来てYさんの横に座る。地元の人で何年か前にYさんと知り合ってヤマメ釣りを教えているとのこと。この男性は東京でゼネコンに勤務していたが年老いた両親の介護のために地元に戻った。2人はヤマメ釣り中のYさんの失敗談で盛り上がっている。彼らからビールを注いでもらう。地元の人と話していたら小生の幼なじみのK君と知り合いとのこと。K君は両津夷で文房具問屋をしている。まさかこの土地でK君の話が出るとは思わなかった。ロング缶のビールをさらに注いでもらう。話が盛り上がってなかなか宴会が終わらない。オーナーが出て来て「そろそろお開きにしては〜」と言ったので解散。まったくフーテンの寅さんの世界だ。
3日目:9月11日(水) 晴 歩行距離/累計:31km/79km
宿(発08:20) ⇒ 関 ⇒ 石名(10:15) ⇒ 北田野浦(10:55) ⇒ 高下(着12:15/発13:00) ⇒ 入川 ⇒ 北片辺(14:50) ⇒ 韃靼塚・安寿塚(15:40) ⇒ 宿(姫津)(着17:00)
宿泊:佐渡ベルメールユースホステル
朝食後、炊飯器にゴハンが余っているので「このゴハンをオニギリにしていいですか」と聞くと、オーナーの返事は「これはワ・タ・シの食べるゴ・ハ・ン」。Yさんと女子大生は今日帰る。Yさんは車で出発する前にクラーボックスに入れたヤマメを見せてくれる。佐渡でヤマメを見たのは初めてだ。女子大生は始発の路線バスで相川まで行き、そこから両津行きの路線バスで両津港へ行くとのこと。小生が先にYHを出発する。
外海府ユースホステル YHを出て10分位歩いていたら路線バスが通り過ぎて行く。乗客は彼女1人でお互いに手を振り別れの挨拶をする。今日も暑いので水を飲むことが多い。さらに、塩分補給の「つぶ塩」を舐める。このタブレットはナトリウム、ぶどう糖、クエン酸が入っている。
どの集落も稲刈りの真っ最中。石名清水寺(いしなせいすいじ)があり小休止。
大銀杏の木
見事な大銀杏が2本ある。この寺には木喰の仏像がある。水場があり置いてある柄杓で飲むと美味しい! 「遠くからこの水を求めて来る人たちがいる」と説明文にある。北田野浦(きたたのうら)へ入る。渡辺徹と榊原郁恵の息子がフジTVの番組でこの集落から報告していた。過疎のこの集落に若い世代を呼ぶ企画で彼が1軒屋を借りてまず地域の人々に溶け込む様子をTVで見た。いかにも彼が住んでいるような番組に見えるが、実際は収録の時だけに来て番組を作っているようだ。芸能人の息子が半年〜1年ここで暮らすのは無理。
Aコープ高千店でヨーグルトを買った。店内にNHKの連続ドラマ「あまちゃん」でGMTの歌「地元へ帰ろう」の曲が流れている。店を出て歩きながら「♪地元へ帰ろう〜 地元で会おう〜 あなたの故郷 私の地元 地元 地元 地元に帰ろう〜♪」の歌をつい口ずさんでしまう。高千漁港へ行ってヨーグルトを食べる。
Aコープ/高千店 高千漁港
ダコタ展 佐渡市役所相川支所高千(たかち)出張所で映画「飛べダコタ」に関する展示をやっていたので見る。映画の予告編とパネル展示。この映画は今月7日から佐渡及び県内で先行上映中で10月10日からは全国で公開される。予告編を見た。村長(柄本明)が「この島では天子さまも犯罪者も受け入れてきたのだから助けよう」と村民を説得する。
当時の写真
映画「飛べダコタ」の背景
上海から英国総領事を東京へ送るはずだつた英軍輸送機「ダコタ」は強風に流されて終戦直後の昭和21年1月14日夕方、佐渡の高千の海岸に不時着する。突然の出来事に村民たちは驚き困惑したが、つい先日まで敵国だった者たちを受け入れた。飛行機を引き揚げて石の滑走路を作り40日後、「ダコタ」は飛び立った。
「ダコタ」について
米ダグラス社(現ボーイング社)により開発された双発プロペラ機ダグラスDC-3。名機として世界中で1万機以上生産された。軍用量産機はC-47と称され、米軍は「スカイトレイン」、英軍では「ダコタ」と愛称が付けられた。マッカーサーが日本に上陸した際の機体としても有名。高千出張所近くの旅荘「みなと荘」にある食堂で昼食。本当は熱々のラーメンを食べたいのだがラーメンはなく、焼魚定食を頼む。冷たい水ばかり飲んでいるので店の熱いお茶が美味しい。鯛やいくつかの小皿があり豪華な定食。NHKの連続ドラマ「あまちゃん」が軽快な主題曲とともに始まる。終わりまで見てから店を出る。
焼魚定食 入崎キャンプ場と入崎海水浴場を見ながら進む。
「ダコタ」が飛び立った辺りを歩き高千小学校前にある「英国機不時着記念塔」を見る。
北立島(きたたてしま)へ入るがここは「ダコタ」が不時着した場所。「高千家畜市場」がある。佐渡牛の売買が行われる市場だが、漁業者や鮮魚店の多い両津湊で生まれ育った者としては、市場とは「魚市場」のことになる。
ダコタ離陸地辺り 英国機不時着記念塔 北片辺(きたかたべ)の「夕鶴の里」で小休止。鶴の羽で織物を織ったという民話「鶴の恩返し」の舞台となった場所で「夕鶴の碑」が建っている。敷地にある「民話の館」は開いてなかった。
「南片辺トンネル」を歩く。佐渡で一番長いトンネルで1,910m。宿で会った地元の人によればトンネルでなく海側にある道を通れるとのこと。トンネル近くの商店で確認すると道が全て通っているか分からないとの返事。仕方なくトンネルを歩く。トンネル内は天然クーラーで涼しいが、車の反響音と排ガスはいただけない。トンネルを出てすぐ海側に「韃靼塚」と「安寿塚」がある。さらに進むと鹿ノ浦トンネルの手前に「安寿と厨子王の碑」があった。
夕鶴の里 夕鶴の里
「韃靼塚」(だったんつか):韃靼とはタタールのことで、この地に流れ着いて亡くなった韃靼人のために村民が墓を造った
「安寿塚」(あんじゅつか):安寿伝説では亡くなった安寿の墓と言われるが定かではない
「安寿と厨子王の碑」:「山椒大夫」のゆかりの地
韃靼塚 安寿塚 安寿と厨子王の碑 平根崎に「波蝕甌穴群(はしょくおうけつぐん)」がある。波浪によって生じた岩盤浸蝕現象のひとつで国内でも珍しいもの。近くにある休憩所を兼ねた建物はずいぶん前に営業を停止したらしく朽ちていた。
波蝕甌穴群 揚島水族館への標識があるが今晩の宿はまだ先にあるはず。「姫津漁港、姫津大橋」の案内標識があり、宿に電話し道順を教えてもらいバス通りから離れて海岸への道を進む。佐渡ベルメールユースホステルはしゃれた建物でオーナーの女性は気さくな人だ。お客は小生を入れて4人。バイクの青年と同室。他に年配の男性2人が1部屋にいる。まず洗濯をする。
ロング缶を飲みながら夕食。同室の青年はビールを飲まずに食事している。年配の男性は大阪の人で昭和16年生まれ。大阪からスクーター(125CC)で佐渡へ来たとのこと。夕食後に洗濯物を乾燥機に入れ部屋へ戻る。同室の青年と話す。彼の話:・23歳(平成2年生まれ!!) ・焼津(静岡県)から山梨へ出て高速を走り直江津へ到着 ・直江津港からフェリーで小木港へ着いたが、雨模様なのでどこへも寄らず直接YHへ来た ・自宅を出てからこのYHまでの走行距離約400km ・バイクはホンダ・スパー・スポーツ(600CC)でレース用を一般公道を走れるよにしたタイプ。
ホンダ二輪車のユーザーなので息子の代わりにお礼を言う。
4日目:9月12日(木) 雨のち曇のち晴 歩行距離/累計:31km/110km
宿(発08:30) ⇒ 達者 ⇒ 相川(着09:45/発11:00) ⇒ 七浦海岸(着12:20/発13:00) ⇒ 二見(14:40) ⇒ 沢根 ⇒ 窪田 ⇒ 河原田(着16:00/発16:30) ⇒ 宿(真野新町)(着17:30)
宿泊:高橋旅館
佐渡ベルメールユースホステル 朝から雨。朝食を終わってからオーナーの女性と話す。
焼津のバイク青年
オーナーの話
・50年以上 YHをやっていてYHの全盛期も経験している ・40人の定員なのに60人位泊めた時もあった。満員と断っても廊下でも食堂でもいいからと言われ泊めざるを得なかった。若者のバックパッカーが多かった時代の話 ・このYHで知り合った男女が結婚したケースも多く、そのカップルたちの会合が東京であり招待され出席している ・息子の奥さんは埼玉出身だが、若い頃にこのYHへ来てこの地が気に入り、結局、息子と結婚し一緒にYHで働いている ・他のYHの経営者たちとユースの名前でなく別の名前を考えたがふさわしい名前が見つかっていない焼津のバイク青年が出発準備中に大雨となった。雨具を着て完全なスタイルで出発。彼は「次回はぜひとも佐渡を一周する」と言って走り出した。
ザックに防水カバーをかけ上下の雨具を着てウォーキングサンダルを履いて出発。YHの息子の奥さんが見送りしてくれたが、気さくないい人だった。
大阪のスクーターおじさんは、今日は雨の予報なので外出せずYHにいようかどうか迷っていた。スクーターは2週間前に買ったばかりでヤマハの同型と比べシートが低かったのでホンダにしたそうだ。「足が短いのでシートは低い方がいい」と笑いながら言う。
他のもう1人の年配の男性は、路線バスで佐渡を旅行している人ですでにYHを出発していた。傘をさしながら達者海水浴場を通過。4年前の夏、娘家族や息子家族と一緒に佐渡へ来た時にこの海水浴場で孫たちと泳いだ。1時間ほど歩いていたら雨が止んだので雨具を脱いで歩く。道路から下に墓が見える。霧雨になってきたので下へ行かずに先へ進むと墓の案内板がある。案内板には「鎮目市左衛門(しずめいちざえもん)の墓」とある。佐渡金山が一番栄えた時代の江戸奉行とある。
相川・大間町へ入る。「良寛の母生家碑」がある。良寛は新潟の出雲崎で生まれたが、良寛の母は佐渡の相川出身。良寛自筆の24句の長詩「中元歌」もある。中元とは盂蘭盆のことだそうだ。
中元歌/良寛 設立趣旨
交通標語 「あいかわ開発総合センター」の近くに面白い交通標語がある。
交通標語 せっかく歴史のある相川にいるので国指定遺跡の「佐渡奉行所」を見学することにした。初代の佐渡奉行である大久保長安が建てた奉行所は何度かの大火で消失。現在の建物は平成13年に復元されたもの。行政を行う御役所(おやくしょ)だけでなく金や銀などを精製する工場の勝場(せりば)や奉行らが住む陣屋があった。
佐渡奉行所 佐渡奉行所 勝場 奉行所を出て長い坂を下りる。かなり急勾配で長坂と言う名。相川で1泊するとゆっくり名所旧跡を見て回れるのだが今回は通過するだけとなった。
「春日崎・七浦海岸」の道路標識があり先へ進む。春日崎で小休止。前に「ホテル大佐渡」が見えるが、4年前の夏に娘家族や息子家族と泊まったホテルだ。
晴れてきたので暑くなる。夫婦岩のある七浦海岸に着く。土産物屋の食堂で昼食にラーメンを食べる。やはり家族旅行でこの店へも来たことがある。店にある旅行代理店(佐渡観光協会?)のスタッフに今晩の宿を相談する。予定した窪田の旅館は満室だった。寝袋を持っているので窪田キャンプ場で野宿とも考えたが、真野新町にある旅館に予約できた。しかし、真野新町は予定した窪田からさらに5km位歩く必要がある。仕方がない。
夫婦岩 / 七浦海岸 二見(ふたみ)を過ぎると「天地人・上杉軍上陸の地 1589年(天正17)6月12日 景勝・兼続」との看板があった。
沢根郵便局のATMでお金をおろす。佐渡へ来て初めて郵便局でお金をおろした。日本を旅しているとどんな田舎でも郵便局があるので便利だ。
窪田から実家の兄に電話する。兄に「テントと食材は持ってこなくてもいい。寝袋やシート・マット、ガスバーナー・カートリッジ、鍋類を渡すので持って帰って欲しい」と伝えた。ガスバーナー・カートリッジを持ったのは、歩いている時に景色の良い場所でお湯を沸かしてコーヒーや紅茶で一服する為だった。しかし、暑い中歩いていて考えることは「早く宿へ着いてお風呂へ入り、冷たいビールを飲みた〜い」となりコーヒーや紅茶を楽しむどころではなかった。
河原田小学校の前で兄と会う。ザックから持ち帰ってもらうものを出していると、学校帰りの小学生の女の子三人が興味深そうに見ていた。
兄と分かれて歩き出す。ザックは軽い!! 2kg位の荷物を兄に渡したのでザックは8kgほどになったはず。この重さで実家からスタートすれば良かったのに・・・・。佐渡博物館を通り、佐渡で一番大きい国府川を渡る。河原田と真野新町間の上りも下りも車が多い。夕方なので勤め人の車なのか。旅館は真野新町の大きな交差点のすぐ近くにあった。タンスや機織機などの昔の民具が館内にあり雰囲気のある宿だ。夕食は大広間で他のお客さんと一緒。お客さんごとにスペースを独立させてあり、1人用に座り生ビールを頼み食事をする。隣り合わせであれば話できるのだが・・・。又、工事関係者や出張の会社員と思われるグループばかりなので話す機会がなかった。
5日目:9月13日(金) 快晴 歩行距離/累計:23km/133km
宿(発08:30) ⇒ 豊田 ⇒ 大須 ⇒ 倉谷(10:40) ⇒ 西三川 ⇒ 羽茂小泊 ⇒ 素浜海岸(着12:20/発13:30) ⇒ 宿(小木)(着14:00)
宿泊:佐渡シーサイドヴィラ
朝食も昨晩と同じ大広間。今晩泊まる民宿をフロントに相談すると、南佐渡観光案内所の電話番号を教えてくれた。順徳上皇の上陸した場所(豊田・恋ヶ浦)が小さな記念公園になっている。恋ヶ浦碑にある上皇の和歌「いざさらば磯打つ波にこと問はむ隠岐のかたには何事かある」。上皇は承久三年(1221)承久の変で佐渡へ遠島となった。父の後鳥羽上皇が流された隠岐の方を眺めてこの和歌を詠んだと説明板にある。 京都の宮廷関係者が政治的な理由で佐渡へ流された歴史があり、国仲方面へ行くと関係する名所・旧跡が多くある。
順徳上皇上陸地 順徳上皇ゆかりの碑
栽培漁業センターがある。センターの前にある森林組合の作業場で休憩し、強清水(こわしみず)にある民宿に電話すると休業とのこと。同じ地区の他の3軒にも電話したが全て休業だった。いずれも稲刈りが始まったので民宿は休んでいることが分かった。南佐渡観光案内所に電話し相談する。折り返し電話をもらい小木寄りの宿根木(しゅくねぎ)にある民宿に予約できた。宿根木まで歩くとなると30km以上あり大変だが宿が確保できたので良しとしよう。
人面岩 人面岩がある。年配の夫婦が休憩していて話す。高崎から車で佐渡へ来て旅行中とのこと。
果物直売所 大須の集落に「果物直売所」があり立ち寄る。大きなリンゴが10個入ったビニール袋がある。10個は多すぎるので1個だけ買った。
倉谷を歩いていると大きなワラジが柱にぶら下がっていた。
説明文:昔から「はりきり」(春来)の行事として正月に大わらじをつくり、集落の両端に飾る風習が残っています。あるとき賊がこの部落に入ろうとしたが、この大わらじを見て「こんな大わらじをはく大男がいてはかなわない」と逃走したと言われます。厄病や悪人よけの一種の道祖神です。