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叔父
氏 名:平田乙吉(ひらた おときち)
誕生日:大正4年(1915)8月31日
出生地:新潟県佐渡郡湊町(現在の佐渡市両津湊)
家族:父 平田虎造(屋号「安五郎」)、母 イツ、留吉(兄)、治作(兄)、ハル(姉)、乙吉

鈴木トシイ(湊町の屋号「源太郎」出身)と結婚。
昭和18年(1943)5月、恵子が生まれる。
恵子の誕生後25日目に出征。
所属:陸軍船舶工兵第5連隊。
昭和20年(1945)3月18日 東部ニューギニア(現パプアニューギニア)のマカップにて戦病死
日章旗還る
・平成17年(2005)5月26日付けの「信濃毎日新聞」に叔父の記事が出た。
見出し「日章旗 遺族の元へ 茅野の男性 豪で託され持ち主捜し 新潟出身元日本兵と判明」
概要
茅野市の会社員渡辺猛さん(35)がオーストラリアから持ち帰った寄せ書きの日章旗が、1945(昭和20)年3月にニューギニア戦線で戦病死した新潟県両津市の平田乙吉さん=当時(31)=の遺品と分かった。戦後60年を経て近く遺族の元に帰る。渡辺さんは99年8月から2002年12月までオーストラリアのアデレードの小学校で、現地の子どもたちに日本語を教えた。帰国時、ホームステイ先で校長から日章旗を手渡された。校長のおじが軍人で日本兵に託されたというが、詳しい経過は分からない。靖国神社祭儀課に問い合わせたところ、陸軍の船舶工兵第5連隊の兵長だった平田さんのものと分かった。

信濃毎日新聞

その後、「新潟日報」の佐渡版に2回記事が載った。
・平成17年6月25日付の見出し「遺品の日章旗里帰り 佐渡の故・平田さん 60年ぶり 時を超え妻子の元へ」
概要
漁師をしていた平田さんは、1943年に招集された。45年3月、パプアニューギニアのマカップ島で戦病死したとされているが、病気か負傷かは、詳しい経緯はわかっていない。平田さんは、恵子さんが生まれて25日目に出征。父の遺品は一つもなかった。「家族を思う父の気持ちと、寄せ書きしてくださった人の思いが強い力となって、こうして戻ってきたのでしょう。本当にありがたいです」と渡辺さんに感謝の言葉を述べた。

新潟日報

・平成17年7月7日付けの見出し「ニューギニア戦線から無言の帰国 平田乙吉さんの日章旗展示 出征前の家族写真も」
概要
日章旗は絹製で縦70センチ、横1メートル。平田さんの武運長久を祈り、家族や親せきの寄せ書きが細かく記してある。平田さんの姉、神蔵ハルさん(98)=湊=は「物静かな弟でした。日章旗が戻ってきたときは涙が止まりませんでした」と感慨深げに話していた。

新潟日報



叔父の足跡
戦争で亡くなった叔父がいたことを子どもの頃は知らなかった。
通園していた湊保育園の用務員の優しいおばさんが、叔父の奥さんだったことも知らなかった。叔母さんと恵子さんは、保育園の2階に住んでいたが当時は恵子さんが従姉とは知るよしもなかった。
その後、叔父を知ることになるが詳しく分からないままでいた。叔父の日章旗が返還されたことで叔父について調べ始めた。佐渡で漁師をしていた叔父が、なぜ日本から5000kmも離れた東部ニューギニアで戦病死したのか。日本にいる妻子を思い出しながら戦病死した叔父の無念さを思い叔父の足跡を調べることにした。
新聞記事が出た時点で母に叔父の生い立ちや仕事など、又、叔母さんに結婚生活や出征などを詳しく聞かなかったことが悔やまれる。二人ともすでに亡くなっている。太平洋戦争や東部ニューギニア戦、船舶工兵などに関する本や雑誌を買い調べた。
戦後70年も過ぎているので不明な点が多く、本や雑誌の購入はきりがないので、国立国会図書館や自費出版図書館(東京都中央区日本橋蛎殻町)、しょうけい館(戦傷病者史料館)(東京都千代田区九段南)へも行き出来るだけ詳細をつかもうとした。
このホームページでの項目は次の通り。
・時代背景
・徴兵制と徴兵検査
・出征前の叔父
・陸軍船舶兵(船舶工兵・大発、船舶砲兵)
・東部ニューギニア戦線
・船舶工兵第5連隊
・日章旗など
・叔父の年表
・その他
・あとがき



時代背景
大東亜戦争(太平洋戦争)については多くの本や資料がある。団塊の世代である我々はある程度は戦争を理解していると思う。
子どもの頃、縁日の店が出て賑わっているお祭りで白衣を着て軍帽を被った傷病兵たちが人々に寄付を求めていた。彼らは片腕がなく松場杖だったり、片足がなく座ってアコーディオンを弾いていた。物かなしいメロディーの曲が多かった。このようにかろうじて戦後を知っている我々だが、今の若い世代が全く理解できない日本が70年前以上には確かにあった。叔父の生まれた前年の大正3年(1914)に第一次世界大戦が起こり、日本は日英同盟により連合国の一員として8月にドイツへ宣戦布告し10月に青島(中国・山東省)を占領した。
叔父の生まれた大正4年(1915)の1月に大隈重信内閣は遠世凱(中華民国)に5号21カ条を要求した。これには、山東省に持っていたドイツの権益を日本が継承することや南満州および東部内蒙古での日本の商工業活動の内容が含まれていた。当時、中国には欧米列強が権益を求め様々な思惑でプロパガンダ合戦を続けていた。叔父が生まれてから昭和20年(1945)3月に亡くなるまでを調べるとまさに激動の時代そのものだった。
主な出来事だけでも次のようなことがあった。
・大正7年(1918)8月 連合軍(米、英、仏、伊)の一員として日本軍もシベリアへ出兵(大正11年10月に撤兵)
・大正9年(1920)1月 国際連盟に加入
・昭和3年(1928)6月 張作霖爆殺事件(満州某重大事件)、死刑・無期刑を含む治安維持法改正
・昭和5年(1930)1月 ロンドンで軍縮会議開
・昭和6年(1931)9月 柳条湖事件(中国側の呼称では九一八事変)から満州事変始まる
・昭和7年(1932)1月 上海事変、3月 満州国の建国、5月 5・15事件で犬養首相が殺害される
・昭和8年(1933)2月 国際連盟総会でリットン調査団の報告書(日本の侵略)を可決、3月 日本が国際連盟を脱退
・昭和9年(1934)3月 満州国帝政を実施 溥儀が皇帝となる、6月 文部省に思想局設置
・昭和10年(1935)2月 美濃部達吉が天皇機関説のため不敬罪で告発される、8月 政府が国体明徴に関する声明発表
・昭和11年(1936)2月 2・26事件起こる、4月 国号を大日本帝国に統一
・昭和12年(1937)7月 盧溝橋で日中両軍が衝突、8月 国民精神総動員実施要項を閣議決定、11月 大本営設置、12月 日本軍が南京を占領
・昭和13年(1938)4月 国家総動員法公布、6月 勤労動員始まる、11月 東亜新秩序建設の第2次近衛声明
・昭和14年(1939)3月 軍事教練が大学でも必修となる、5月 ノモンハン事件起こる、7月 国民徴用令公布、8月 ノモンハンで日本軍敗北
・昭和15年(1940)1月 米内光政内閣成立、7月 第2次近衛内閣成立、9月 日本軍が北部仏印に進駐、日独伊3国同盟調印、10月 大政翼賛会発会式
・昭和16年(1941)4月 日ソ中立条約調印、9月 日本軍が南部仏印に進駐、10月 東条英機内閣成立、12月 太平洋戦争始まる
・昭和17年(1942)7月 サイパン守備隊玉砕、8月 閣議で「一億総武装」を決定、グアム守備隊玉砕
・昭和18年(1943)2月 大日本言論報告会発足、4月 山本五十六司令官がソロモン群島にて戦死、12月 第1回学徒兵入営
・昭和19年(1944)2月 東条内閣改造(東条首相兼陸相が参謀総長も兼任)8月 閣議で「一億総武装」を決定
・昭和20年(1945)3月 B29 東京を大空襲、4月 米軍が沖縄本島に上陸、8月 米軍が広島と長崎に原爆投下、ソ連軍が満州国へ侵攻、日本降伏

戦後生まれの我々だが叔父の生きた時代に我々もいたとすれば、どういう行動を取れただろうか? 
「人を殺したくない、人に殺されたくない」と思っても、天皇制軍国主義・全体主義の教育を受け、さらに日本人の特質の一つである「長いものに巻かれる」により戦場へ行ったのだろうか? 
あるいは、治安維持法により刑務所へ収監され拷問を受けるのを承知で非戦・反戦を主張できただろうか?
「滅私奉公」「尽忠報国」「七生報国」→「米英撃滅」→「皇国護持」→「一億特攻」→「本土決戦」の流れの中で、「売国奴」、「非国民」、「国賊」、「裏切り者」、「卑怯者」、「臆病者」と非難され家族や親戚まで巻き込まれることを覚悟して行動できただろうか?

「戦争絶滅へ、人間復活へ」むのたけじ/岩波新書より抜粋
「戦争が始まってから反戦運動をやったところで、戦争の論理とエネルギーに引きずられてしまう。戦争をなくすには、戦争をする必要をなくして、戦争をやれない仕組みをつくらなければだめです。かつて、そこまで踏み込んだ平和運動は一つもなかった」


徴兵制と徴兵検査
徴兵制
日本の徴兵制は、明治5年(1872)11月28日の「全国徴兵に関する詔」および明治6年(1873)1月10日の太政官布告無号「徴兵令」の布告による国民皆兵制がとられたことに始まる。
昭和2年(1927)4月1日に徴兵令は廃止、引き換えに兵役法が公布され、同年12月1日施行された。兵役法では「帝国臣民タル男子」は常備兵役、後備兵役、補充兵役、国民兵役のいずれかに服すと定められた。
・常備兵役( 20歳~27歳):現役(2年)と予備役(現役後に5年4ケ月)
・後備兵役(27歳~32歳)
・補充兵役(20歳~32歳):第一補充兵役と第二補充兵役
・国民兵役(~40歳):第一国民兵役(後備兵役が終わった者や補充兵役が終わった者)と第二国民兵役(いずれにも属さない者)
徴兵検査で兵役に適すると判定された者の一部が「現役兵」として徴集され、その他の大多数は補充兵として兵役原簿に記載され、すでに現役を終えた人々とともに在郷軍人に組織された。
兵役原簿は各都道府県にある連隊司令部に保管され、この原簿をもとに、在郷軍籍人名簿が作られ、これに、本籍地、現住所、氏名、生年月日、学歴の他に、これまでの職業、徴兵年次、役種、兵種(歩兵、騎兵、砲兵、工兵、輜重兵、航空兵、船舶兵の別)、体格および特技など軍歴に関する一切が記載された。
戦争が始まると大量の兵が必要となり、現役兵だけでは不足するのでこの原簿から抽選で選ばれた者に「赤紙」と呼ばれた召集令状が送られて「応召兵」として軍隊にかりだされた。
・陸軍の場合:各地域ごとに「常備団隊」を設け、師団単位で駐屯し、徴集兵・召集兵は連隊単位で受け入れた。師団以外の「航空」「船舶」「鉄道」「戦車」などの部隊は地域に関係なく徴集した。当時の国鉄に勤務する機関士や民間航空会社のパイロットなどは優先して鉄道部隊や航空部隊に招集する必要があった。
・海軍の場合:各鎮守府(佐世保、呉、舞鶴、横須賀)ごとにその周辺から徴集した。例えば新潟の人は横須賀鎮守府から徴集され、横須賀海兵団に入団し訓練を受けた。

徴兵検査
満20歳になると徴兵検査を受ける義務が課せられた。4月~5月頃に通知が届き本籍地の指定された場所(学校の体育館など)に出頭し、まる一日がかりで受ける。
検査項目:内科、レントゲン検査、陰部、肛門(正医官/軍医少佐が担当)と眼科、耳鼻咽喉科、関節運動(副医官/軍医中尉か少尉)
判定:甲種(身体が特に頑健で裸眼視力左右0.6以上の者)、第一乙種(身長が低いなど体格がやや劣る者)、第二乙種(視力障害など多少の欠陥がある者)、丙種(著しい欠陥があるが国民兵役に適する者)、丁種(身体や精神の状態が兵役に適さない者)、戊種(病気療養者や病み上がりなどの理由で兵役に適しているか判断が難しい者、翌年再検査) 
合否:丙種以上が合格、丁種は不合格で兵役免除
155センチ以上が甲種合格だったが昭和12年(1937)2月から150センチ以上となった。 現役には適さないが国民兵役に適するとされる者は丙種。目や耳、手足が不自由な者と身長が150センチに満たない者は丁種。
甲種に合格した者は、翌年の1月10日に各連隊に入営し2年間兵営暮らしをすることになる。第一乙種の者は、戦争が起きたときの欠員用の第一補充要員。第二乙種の者は、戦争で損耗が激しい場合の第二補充要員となる。


出征前の叔父
叔父は昭和10年(1935)に満20歳になり徴兵検査を受けたはづである。判定は何だったのか? 
叔父と同じ年で親友の山本猛さん(屋号:喜太郎)は、両津校報(両津尋常高等小学校の校報) 第114号(昭和12年7月31日発行)に現役兵住所調に現役兵として在隊者の中に「満州国撫順温品部隊気付」として載っている。叔父は、出征したと思われる昭和18年(1943)6月まで抽選漏れで徴兵されなかったのか?
従姉が保管している遺品を調べたら「兵発第33號 昭和18年2月2日 平田乙吉殿 簡閲點呼ニ関スル件 新潟県佐渡郡両津町長 」という書類があった。

書類の内容は次の通り。
「昭和18年度執行ノ簡閲點呼ニ関シテ昭和18年1月8日陸軍省令第一號ニ依リ昭和6年以降徴兵終結処分ヲ行ヒタル第二国民兵全員ニ付実施セラルコト相成候ニ付左記事項御留意上萬遺漏ナキ様致度此及注意候也 記 一 寄留地簡閲點呼参願 寄留地に於テ簡閲點呼を受ケントスル者ハ毎年3月31日迄ニ寄留地の聯隊区司令官宛ニ願書ヲ寄留地ノ市町村長ニ差出スモノナリ(此ノ願出ニ対シ許可セラルヲ例トス)○注意 1 誤ツテ本籍地ノ聯隊区司令官ニ願出ツルコトナキ様ニ注意のコト 2 特ニ止ムヲ得サル者ノ外ハ必ス期限前ニ願出ルコト 期限後ニ至リ願出ル者ニ対シテハ許可セラレサルコトアリ 3 寄留地ニ於テ簡閲點呼許可セラレタル場合役場兵事係宛其旨通知スルコト(失念ナキ様特ニ依願ス)二 簡閲點呼延期願 事故ニ因リ簡閲點呼ノ延期ヲ願フ者ハ本籍地ノ聯隊区司令官ニ宛タル願書ニ関係官公署ノ長ノ證明書(船舶用ノ證書ヲ有スル船舶ノ乗組員ハ其ノ船長ノ證明書)ヲ添付シ本籍地町長ニ差出スコト ○注意 願書ハ二通ヲ要スルモ證明書ハ一通ニテ可ナリ  外ニ不明ノ点ハ兵事係ト連絡ヲ保チ萬遺漏ナキヲ期セタシ  ◎在郷軍人健康程度職業等事項至急提出相成度ク」

この書類にある「簡閲點呼」と「第二国民兵」を調べてみた。
簡閲點呼(かんえつてんこ)
旧日本陸軍、海軍で、予備役、後備役も下士官、兵卒および第一補充兵を参会させ短時間の試問応答によって在郷軍人の本務を査閲点検し教導すること
第二国民兵(だいにこくみんへい)
年齢17歳以上45歳迄の者で常備兵役・補充兵役・第一国民兵役に服さなかった者が対象となる。徴兵検査で「丙種」と判定された者がこれにあたり、その基準は「身体上極めて欠陥の多い者」をいう。

叔父は健康状態が悪かったために徴兵されなかったのか? 体格(身長・体重)が劣っていたので徴兵されなかったのか? 小生の兄(昭和9年生まれ)によれば「漁師をしてたくらいだから体格は普通だったと思う」。
出征する代わりに昭和14年(1939)4月に両津町警防団警防員となり、昭和15年7月に両津町青年団の動員大会に参加していた。
そして、昭和16年12月に両津町翼賛壮年団団員となり、さらに防空監視哨員となった。

叔父が保管していた主な関係書類は次の通リ。
・新潟県燈火管制交通整理整理部 両津町警防團警防員ヲ命ス 昭和14年4月1日 両津警察署
・動員大會召集状 湊支部會 一、日時 昭和15年7月21日午后0時半 一、場所 両津町青年會堂前 一、服装 青年團服又ハ是ニ準ズル國坊色(但シナキ者ハ何ニテモ輕装)ノコト戦闘帽、巻ゲートル、腕章 紀元二千六百年令旨奉戴ニ十周年奉祝大日本青年團北部動員大會ニ於テ傅達サレシ詔書令旨ノ奉戴式並ビニ両津町青年團動員大會ヲ開催スルニ付團員ハ必ス参加致サレ度萬一故障アル者ハ前日迄ニ理由書ヲ團長宛届出ベシ 両津町青年團長 渡邊五郎
・謹啓 時下寒冷の候貴下益ご清祥の段奉賀候 陳者今回既に大東亜戦争決戦の幕は切って落とされ國策完遂上大政翼体制の完備は實に目下焦眉の急務と存じ候 申上る迠もなく翼賛壮年團は翼賛運動の中堅たり推進力たるものにして本團運営の良否は實に又聖業遂行に重大なる影響をもたらす思考させられ候 而して当町に於てもまさに之が運動の強化に着々努め来り候處 今般本團結成準備會に於て貴下を本團々員として推薦致し翼賛運動の完遂に挺身相願う事と相成候條御多忙中誠に恐縮に存じ候へ共右御諒承の上大政翼賛の為特に御奮闘相煩度此得貴意候也 追而右承諾書添附仕候必要事項御記入の上明後 12月26日迄役場内係員へ必ず御提出相成度申添候 昭和16年12月24日 両津町翼賛壮年團長 松瀬教五郎
・號外 昭和16年12月25日 両津警察署長 両津町長 両津監視哨長 防空監視哨員講習會開催の件 左記ニ依リ標記講習會開催致候出席相成度通知候也 一 科目及講師 防空監視ニ関スル件(約2時間)新潟県警防課員 一 日時 12月26日午后2時 一 会場 第四銀行屋上 以上 備考 各哨員ハ同日午后1時30分迄ニ参集ノコト

出征するまでの佐渡での生活を詳しく知りたいのだが、今となっては叔父を知る人もなく残念ながら諦めるしかない。


陸軍船舶兵(船舶工兵・大発、船舶砲兵)
陸軍の海軍部隊と言われていたが、その実態は知らなかった。叔父が所属していた部隊なので詳しく調べた。
上陸作戦に対して陸軍は、1920年代に上陸用舟艇(小発動艇、大発動艇)を実用化し、さらに1930年代に揚陸艦の特種船(「神州丸」や「あきつ丸」など)を開発し、これらは第一次上海事変や日中戦争(支那事変)の各上陸作戦で使われた。
当時、これらを実戦で運用していたのは工兵の一部であった。工兵の中でも上陸戦闘を行う特任師団や海沿いの師団の工兵に船舶や上陸用舟艇の扱いを専門にさせていた。特に第5師団(広島)は上陸研究の師団であった。
工兵連隊には師団に所属する師団工兵連隊、近衛師団に所属する近衛工兵連隊があったが、敵前上陸・舟艇機動・海上輸送を専門とするために工兵第5、第11、第18連隊にそれぞれ1個中隊が編成された。これが後に独立して独立工兵連隊となり師団に所属しない軍直轄となった。これは更に工兵から分かれて船舶兵となった部隊もあった。・昭和12年(1937)7月、第一船舶輸送司令部を編成
・昭和15年(1940)6月、船舶輸送司令部に改編
・昭和17年(1942)6月、船舶司令部(司令部:広島市宇品)と改編。
太平洋戦争(大東亜戦争)の激化により、南方に大規模な上陸戦をする為、また各方面の兵站を維持し、更に船舶の運用の効率化の為に船舶司令部が設置された。この船舶司令部は、直轄の船舶工兵連隊や船舶兵団(各船舶輸送司令部や船舶団が所属)、船舶砲兵団で構成された。
通称 暁部隊(あかつきぶたい)と呼ばれ海上輸送など「海」に関わる陸軍の部隊であり、総数30万人にもなる大きな組織であった。

船舶兵
昭和18年(1943)に工兵から分かれて船舶兵として独立した兵種となった。船舶を運用するすべての陸軍部隊が船舶兵となったわけでなく、工兵として存続した部隊もあった。太平洋戦争後期には、航空部隊とともに船舶部隊将兵に対し矜持を持たせるため、昭和19年(1944)5月に船舶胸章が制定された。デザインは紺青色の台地に、錨・鎖および星章が付された形状で船舶関係の部隊に属する将兵全てが軍服の右胸につけた。
連合軍に制海権も制空権を奪われた中で大きな損害を出しながら戦闘を続けていた。兵士や物資の輸送の裏方でその奮闘の割りには、「陸軍内の海軍部隊」という存在のために国民に知られることはなかったように思われる。

船舶工兵
大発(陸軍の主力上陸用舟艇)などの舟艇に乗り組み揚陸作業と機動輸送専門の工兵。
教育期間中に手旗・モールス訓練や舟艇整備、機関整備・分解結合調整、舟艇の操縦運行、砂浜・桟橋の達着訓練などを行った。又、繋舟場での舟艇監視の訓練もあった。
昭和17年(1942)8月に舟艇用の工兵として船舶工兵連隊を編成した。終戦までに58の船舶工兵連隊があった。
南東太平洋方面で作戦に参加した主な部隊
・ニューギニア方面:船舶工兵第1連隊、第5連隊、第8連隊、第9連隊、独立工兵第15連隊
・ソロモン方面:船舶工兵第2連隊、第3連隊、第12連隊、独立工兵第19連隊。
大発は、戦争後半に米軍の魚雷艇(PTボート)や爆撃機に攻撃されて大きな被害を出していた。
他の兵種の将兵からは、「船工(せんこう)さん」と呼ばれていた。

大発(だいはつ)
大発
大発動機艇(だいはつどうきてい)あるいは大型発動機艇(おおがたはつどうきてい)が正式な名称。
前線各地の乗り物として重用され「海上トラック」とも言われた。
昭和15年(1940)までに135隻生産し、開戦直前の昭和16年(1941)11月時点で300隻が生産された。さらに、昭和17年(1942)から生産数が急増し、終戦までに5094隻が生産された。
いくつかのタイプがあるが、D型が実質的な完成のタイプ。仕様は次の通り。
全長:14.8m、全幅:3.3m、機関:ディーゼル60馬力、速力:空船/満船 9ノット(時速16.7km)/8ノット(時速14.8km)、全武装兵士70名、又は、物資11t。艇首が地面に向かって倒れるように開き、これを歩板(ランプ)として使用することにより揚陸作業の効率化が図られている。
乗り組む船舶工兵は、艇長、操舵手、機工手、通信手、船首手(監視兵)、船尾手(監視兵)(+1名)の 6~7名。
大発による上陸 大発(豪軍が捕獲)

大発の他に小発(しょうはつ)もあった。仕様は次の通り。
全長:10.6m、全幅:2.4m、機関:ディーゼル60馬力、速力:空船/満船 10ノット(時速18.5km)/3ノット(時速5.6km)、兵士40名、又は、物資3t。乗り組む船舶工兵 4~5名。

船舶砲兵
陸海軍は民間会社の船を輸送船として船員ごと徴用し、船首や船尾、両舷に高射砲、高射機関砲、野砲、速射砲、機銃、爆雷を装備した。輸送船に増設されたこれらの兵器を船舶砲兵が扱った。連隊として行動することは少なく、輸送船ごとに小隊単位、大きい輸送船の場合は中隊規模の200人が乗船、乗船すると〇〇丸船砲隊と呼ばれた。
装備の対空兵器は弾幕を張れるような多連装の高射機関銃(砲)でなく発射速度の遅い野砲や高射砲などでは乱舞して襲いかかる敵の航空機に対しては無力そのものだった。
東部ニューギニア戦線

赤道直下にあるニューギニア島は、日本から南に約5,000キロ、豪州のすぐ北にある世界で2番目に大きな島である。面積は本州の約2倍、全体が熱帯性雨林に覆われ、原始の密林と大湿地に覆われたマラリアなどの熱帯病の地でもある。現在は東側がパプアニューギニア、西側がインドネシアの一部になっている。
マッカーサーに「軍事行動を行うのにこれほど恐るべき難しい自然の障害をいろいろ抱えている土地は世界でも例がない」と言わしめた土地である。
3年半以上もの長期間戦い続けた戦場は、太平洋戦争ではニューギニア以外にはなかった。
戦時中南方に派遣された兵士の間で流行った言葉
「ジャワは極楽、ビルマは地獄、生きて帰れぬニューギニア」。
叔父のいたこの過酷な戦場を全体的に理解するために東部ニューギニア戦線ばかりでなく、戦局に影響する出来事も含め陸軍第18軍を中心に述べてみる。

昭和17年(1942)
3月8日 日本軍がラエとサラモアに上陸。

ミッドウェー海戦
6月6日 海軍は正規空母4隻と搭載機285機を失い大敗北。

7月21日 南海支隊の先遣隊がブナに上陸。

ガダルカナル島攻防戦
8月~12月 大本営の誤った敵情判断と米軍の圧倒的な戦力、届かない補給により第17軍(一木支隊・川口支隊・第2師団)は大損害(戦死5,600名、餓死・戦病死15,000名)を出した。補給がままならず多くの兵士が餓死や戦病死したので、この島は餓島と呼ばれた。体力がもたなくなったところへ、病気が追い打ちをかけて死者が急増した。
餓島では将兵の間で次のような寿命の計算がなされたという。
①自分で立てる者 - 余命30日
②身体を起して座れる者 - 余命20日
③寝たきり起きられない者 - 余命7日
④寝たまま大小便をする者 - 余命3日
⑤ものを言わなくなった者 - 余命2日
⑥まばたきをしなくなった者 - 翌朝まで

ポートモレスビー攻略作戦

ラバウルの安全を確保するためにポートモレスビー(東南部ニューギニア)を攻略する必要に迫られた。ポ-トモレスビーには連合軍の航空部隊が進出していてラバウルは連合軍航空機の範囲内であったためである。
8月13日 ブナに海軍設営隊が上陸し飛行場整備を開始。
8月18日 第17軍の南海支隊主力がブナに上陸。陸路ポートモレスビーに進撃開始。オーエンスタンレーン山脈(最高峰4千メートルを越える)の密林を超えココダ山道の険しい山道を歩くこの作戦は無謀なものだった。日本軍兵士を待ち受けていたものは、連合軍の反撃と飢餓、熱帯病という地獄だった。
9月18日 南海支隊がポートモレスビー手前のイオリバイワより退却。
10月4日 退却してから山脈を再び越えてココダに集結。しかし、この時すでに米豪軍はラビ方面からブナ地区への攻撃を開始していた。後方の山脈からはオーストラリア軍1個旅団が迫り、ブナ地区には米第32師団をはじめ、約4万の兵が押し寄せていた。疲弊しきった南海支隊は前後から攻撃される運命にあった。

第8方面軍を編成
11月16日 ラバウル(ニューブリテン島)にガダルカナル島の奪回とポートモレスビーの占領のために第8方面軍を編成し司令部を置いた。
司令官:今村均(いまむらひとし)中将(第16軍司令官から移動)
部隊:第17軍(ソロモン方面担当)、第18軍(ニューギニア方面担当 のちに南方軍の指揮下に入る)、第17師団、第38師団。

第18軍「猛」(もう)集団の構成
司令官:安逹二十三(あだちはたぞう)中将
・第20師団(朝鮮)「朝」(あさ)兵団:歩兵第78,79,80連隊、騎兵第28連隊、野砲兵第26連隊、工兵第20連隊、輜重兵第20連隊
・第41師団(朝鮮)「河」(かわ)兵団:歩兵第237,238,239連隊、山砲兵第41連隊、工兵第41連隊、輜重兵第51連隊
・第51師団(宇都宮)「基」(もと)兵団:歩兵第66,102,115連隊、捜索第51連隊、野砲兵第14連隊、工兵第51連隊、輜重兵第51連隊
・独立工兵第8,30,33,36,37連隊
・第12野戦高射砲隊:野戦高射砲第61,62,63,64,65,66大隊
第1船舶団船舶工兵第5連隊、船舶工兵第9連隊、第1,3,9揚陸隊、海上輸送第4大隊、第31,49碇泊場司令部

12月18日 日本軍がマダンとウエワクに上陸。

12月31日 大本営及び御前会議でガダルカナル島からの撤退決定。

昭和18年(1943)
1月2日 日本軍のブナ守備隊玉砕。

2月1日-7日 ガダルカナル島から撤退。
大本営は「ガダルカナル島において作戦中の部隊は、昨年八月以降、引き続き上陸せる優勢なる敵軍を同島の一角に圧迫し、激戦敢闘克く敵戦力を撃挫しつつありしが、其の目的を達成せるに依り二月中旬同島を撤し他に転進せしめられたり」と報じた。
・井本熊男参謀(第8方面軍司令部)の談「大本営では撤退ではなく、玉砕させるべきだと感じているものがいた。これは不謹慎極まりない恥知らずの言辞である。もっとも深く反省すべきは、この計画を発動した洞察力のない先の見えぬ大本営である」。
・「失敗の原因は、情報の貧困と戦力の逐次投入、それに米軍の水陸両用作戦に有効に対処しえなかったからである。日本の陸軍と海軍はバラバラの状態で戦った」。「失敗の本質 日本軍の組織論的研究」戸部良一/中公文庫より

ダンピール海峡

2月28日 ラエ、サラモア地区の応援として陸軍第18軍司令部と第51師団の約7,000名の将兵が輸送船8隻(陸軍輸送船7隻、海軍輸送艦1隻)に乗り8隻の駆逐艦の護衛でラエに向けてラバウルを2月28日23:30に出航した。連合軍は日本軍の輸送船団がラバウルを出航しラエに3月5日ごろ上陸すると判断していた。又、対空装備の乏しい駆逐艦が船団護衛する情報も入手していた。船団の上空を守る日本軍の航空機を出撃させないように連合軍は3月1日早朝からラバウルを空襲し、日本軍は航空機の過半数を失った。
3月2日-4日 ポートモレスビーやブナ、ラビからB17重爆撃機やB25中爆撃機、A20攻撃機、P38戦闘機などがビスマルク海からダンピール海峡にかけて輸送船団を攻撃。日本軍の戦闘機は連合軍戦闘機と戦うのが精一杯で船団を護衛できなかった。沈没した旭盛丸に乗船していた兵員1500名中918名が駆逐艦「朝雲」と「雪風」に救助され、この駆逐艦2隻は船団から先行しラエに向かった。2隻は日没後にラエに到着し兵員を揚陸後、船団護衛に3日03:00に復帰した。
上空を護衛する日本の戦闘機は最大で41機と少なく、その結果、輸送船8隻と駆逐艦4隻が撃沈。ラエに揚陸できたのは約900名のみ、救助された約2500名はラバウルへ帰投。
・沈没した陸軍輸送船7隻:旭盛丸(大同海運 5,493総トン)、建武丸(三光汽船 953総トン)、愛洋丸(東洋汽船 2,746総トン)、神愛丸(岸本汽船 3,793総トン)、太明丸(日本郵船 2,833総トン)、帝洋丸(帝国船舶 6,801総トン)、大井川丸(東洋海運 6,499総トン)
・沈没した海軍輸送艦1隻:野島(3,969総トン)生存者はボートや大発に乗り漂流。3月7日に潜水艦「呂101号」に救助され陸地にたどり着き現地の陸軍に合流した者もいた。
・沈没した駆逐艦4 隻:白雪、朝潮、荒潮、時津風。
・ラバウルへ帰投した駆逐艦4隻:敷波、浦波、朝雲、雪風。
戦死した将兵は4,339名、さらに204名の船員も犠牲となり、輸送船に満載された軍需物資や兵器を失った。ニューギニア決戦に期待された第51師団は敵と戦わずして兵数が半分以下となってしまった。「ダンピールの悲劇」として知られている。

4月18日 山本五十六連合艦隊司令長官戦死。山本長官は、宇垣参謀長ら幕僚と一式陸攻2機に分乗、戦闘機6機に護衛され、前線の搭乗員を励ますためにラバウルからバレラ基地に向かった。山本機はブイン飛行場の間近で米軍戦闘機P38の待ち伏せ攻撃に遭い撃墜されジャングルに墜落。宇垣参謀長のニ番機は海中に突入し宇垣参謀長は重傷を負ったが生存。米軍は山本長官の視察飛行の暗号を5日前から解読していた。日本軍のずさんな情報管理は太平洋戦争のあらゆる作戦で起こっていた。8月17日-18日 連合軍がウエワクとブーツの日本軍飛行場を空襲。日本軍は約100機の航空機を失う(保有機の半数以上)。

9月11日 連合軍がサラモアを奪還。

9月16日 連合軍がラエを奪還。

サラワケット山系越え

9月中旬-10月末
9月11日に豪軍がサラモアの日本軍基地を占領、さらに18日にはブナを占領した。第51師団と海軍部隊の総勢約8,500名は北岸のキアリへ向けて転進。しかし、サラワケット山系(最高峰4,100m)を越える過酷な行進であった。前人未踏のジャングルを海軍陸戦隊がコンパスで方向を測定し、工兵隊が難所で道を作り、台湾の高砂族の兵がジャングルを切り開いた。栄養失調やマラリアの患者が続出し山頂を越えられず餓死や病死した。夜になると山頂付近は気温が零度以下と冷え込み凍死者も出た。どうにか山頂を越えた将兵も下りの断崖で転落者し亡くなった。目的地のキアリに到着するまでに約2,200名が病死や餓死した。キアリに到着してから直ちに入院や後送された将兵も約1,000名いた。
梶塚喜久雄(第51師団歩兵第238連隊)の談「2月はじめに青島(中国)を出たとき、連隊の総員は5,384人でしたがね、終戦で引き上げ船に乗ることができたものは46人です。つねに第一線でしたけれど、それにしても99パーセント以上が死んだんですからね。とにかく想像を絶する戦場でした。ニューギニアは我々にとって、まさに魔境だったといいようがないです・・・」「自決がニューギニアほど多かった戦場はほかにはないでしょう。あらゆる面でニューギニアは悲惨だったと思いますが、自決ばかりはなんといっていいか・・・」。彼にインタビューした記者が「自決さえしなければ、どれだけ多くの人が生還できたかも知れないのに」と言ったら、彼は「そんな、現代風な考え方が通用するような時代じゃなかったって! 生きて虜囚の辱めを受けず、という戦陣訓が厳然としてあったんですから」と答えた。

9月22日 豪軍がフィンシュハーフェンに上陸。

10月中旬-12月 第20師団がフィンシュハーフェンを攻撃するも失敗し撤退。

昭和19年(1944)

1月2日 米軍がマダンとキアリの間のグンビ岬に上陸。これによりマダン・ハンサより西のウエワクに駐留している第41師団とシオ・キアリを経てガリまで転進してきた第20師団・第51師団が分断された。米軍のこの作戦はスキップ戦略(別名 飛び石作戦、蛙飛び作戦)と呼ばれて、フィリピン攻略という戦略目標にとって価値のない拠点は放置して必要な拠点のみを攻略する戦略だった。マッカーサーはニューギニアでも「蛙飛び作戦」(リープ・フロッグ作戦)と称して実行した。フィンシュハーフェンを手に入れたので日本軍の主力がいるシオ・キアリ・ガリは攻撃せずに飛ばした。「マッカーサー大戦回想録」より
「日本軍はこれで袋のネズミになった。前後から進んでくる部隊に挟まれた日本軍部隊は、補給の道がなく、ついに解体して大混乱の状態でジャングルへ逃げ込んだ」



フィニステル山系越え(ガリ転進)

1月下旬-2月下旬 フインシュハーフェンの戦いで敗れシオへ転進した第20師団とサラワケット山系を越えてキアリに来た第51師団がガリに集結した。ひとまずガリからさらにマダンに転進となった。しかし、マダンへ向かう途中にあるグンビ岬周辺が1月2日に米軍に占領されたので、やむなくフィニステル山系(最高峰ヨカバ山3,900m)を越えてマダンへ向かうことになった。転進にあたり第20師団と第51師団をまとめて「中野集団」とし、指揮は第51師団の師団長の中野英光中将とした。中野集団はガリから二手に分かれて西を目指した。
第20師団と第1船舶団、兵站部隊はやや海岸寄りのコースの甲路を通り、第51師団と第20師団砲兵第1大隊、独立工兵第30隊、海軍部隊はより深い山中のコースの乙路とした。第51師団にとってはサラワケット山系越えに続く2度目の山越えとなった。雨期の中、鉄砲水の犠牲になった将兵もいた。フィニステル山中で約3,500名が亡くなった。マダンにたどり着いた9,500名の殆んどが栄養失調の状態だった。

2月17日 連合軍が日本軍のラバウル基地を空襲。日本軍は航空機270機を失う。これにより日本海軍の連合艦隊は後方のトラック島基地に引き揚げてしまい、ラバウルには航空機も艦隊もいなくなった。

2月29日 連合軍がダンピール海峡真北のアドミラルティー諸島のマヌス島へマッカーサー大将自らが率いる総勢45,000人の大部隊で押し寄せる。

3月中旬 マヌス島の日本軍守備隊2,500名が玉砕。

マダンからウエワクへ転進

3月中旬-6月中旬 日本軍がダンピール海峡で制海・制空権を失って以来、ウエワクは潜水艦や大発(大型発動艇)による揚地として重要な存在だった。やっとマダンにたどり着いた中野集団はウエワクとさらに西の要地に移動することになった。マダンからウエワクへ移動を開始した第20師団と第51師団は、海岸線を移動すると敵魚雷艇に攻撃されるので内陸側を歩いた。さらに、昼間移動すると敵の飛行機に見つかりたちまち銃撃されるのでほとんど夜間行軍となった。その為に実距離で約500キロの行程を進んだ。途中にあるハンサには第41師団が駐屯していたが第41師団の主力もウエワクへ移動した。最大の難所であるラム河とセピック河の大湿地帯に入った。両河は河口の川幅も上流までの長さも、利根川の数倍はある大河である。両河の河口は30キロを隔てるだけなので、その区域は数百平方キロにもなる。洪水が頻繁にあり、この年は雨が多かった。将兵は全員が濡れ鼠になり泥の中に立ったまま仮睡する日が数十日も続いた。少数の大発はあったが、師団のトップと重症患者のみが乗艇できただけであった。将兵は黙々と歩き、黙々と斃れていった。ほとんど全ての兵が靴を失い、ボロボロに裂けた服をまとってウエワクにたどり着いた。数百の死者を出しただけで比較的被害が少なくて済んだのは、すでに彼らが2回の転進の大行軍を経験したからだった。

3月25日 第18軍は第8方面軍から第2方面軍(阿南惟幾大将 司令部はセレベス島)の配下となる。3月30日-4月3日 連合軍がアイタペより西にあるホーランジア(オランダ領西ニューギニア)の日本軍飛行場を空襲。日本軍は100機以上の航空機を失う。

4月22日 連合軍はウエワクを飛び越して(蛙飛び作戦)防備の弱いホーランジアに上陸し占領。同時にウエワクから西方200キロのアイタペにも上陸、日本軍守備隊は壊滅。
米軍の機動力は、日本軍を圧倒しており、戦車揚陸艦(LST)や歩兵揚陸艦(LCI)により大兵力を直接上陸させた。
戦車揚陸艦(LST):満載排水量 4,050トン、速力 10.8ノット、戦車搭載量 20両。浜辺へ乗り上げて艦首ランプから戦車を揚陸させる大型艦として傑出していた。その艦容は太平洋戦線に登場時、日本兵が「大発の化物」と形容した「異形」だった。
戦車揚陸艦(LST) 戦車揚陸艦(LST) 歩兵揚陸艦(LCI) 歩兵揚陸艦(LCI)

5月18日 米軍、西部ニューギニアのワクデ島に上陸。

5月27日/米軍、西部ニューギニアのビアク島へ上陸。

6月20日 第18軍は第2方面軍から南方軍(司令官 寺内寿一大将)の配下となる。

アイタペの戦い

7月10日-8月5日 連合軍のウエワク攻撃に備え第18軍の第20師団・第41師団・第51師団がウエワクに5月に集結。しかし、連合軍が蛙飛び作戦によりホーランジアとアイタペに上陸し占領した為に第18軍はアイタペを総攻撃することになった。作戦遂行のための糧食の保有量とその輸送に問題があり、軍内で種々な論議もあったが、安逹軍司令官の強い信念と意志は変わることはなかった。第20師団と第41師団を第一線攻撃部隊とし、第51師団をウエワク基地防衛部隊とした。日本軍兵力35,000人は、坂東川(日本軍呼称・ばんどうがわ)(ドリニュモール河)東岸に第20師団と第41師団が並列し同川の西岸に堅固な防御陣地を築いて待ち受ける連合軍に対し一斉攻撃を開始した。しかし、敵の猛烈な砲火を浴びて死傷者が続出、血みどろの戦闘となった。食料、弾薬の補給もないまま圧倒的な火力を持つ連合軍に向かい次々に突撃していった。結局、約8,400名の死者を出して敗退した。10月 ホーランジアに連合軍の船団が集結し、フィリピンへ向かって出港して行った。太平洋の主戦場はフィリピンに移った。絶対国防圏のはるか外に置かれたニューギニアは大本営から事実上見棄てられ、前線への補給は完全に途絶えた。
「現地自活の指示」という紙っぺらだけを送ってくる無責任な大本営であった。戦地にいる将兵は、権威をかさに居丈高な態度を取る参謀を「三暴殿」と呼び、「無謀、横暴、乱暴」と陰口をたたいた。

山南の戦い(アイタペの敗北から終戦まで)

アイタペの戦いで生き残った将兵たちは「山南地区」(さんなんちく)(トリセリー山系・アレキサンダー山系南麓の密林地帯)へ転進した。食料も弾薬も尽きたまま、将兵は密林の奥に逃れた。連合軍の執拗な追撃にさらされて病人や負傷者は部隊から次々に落伍していった。将兵たちを取り巻く環境は「負傷即自決」という過酷な論理の支配する状況となる。
多くの兵士がヤシの葉っぱの芯を裂いてワラジを作り靴の代わりとした。補給を絶たれ見棄てられた兵士たちは異常な飢餓に追い込まれ、ごくまれではあるが、日本軍将兵による人肉食という事件も起こった。
捕らわれた日本兵が大きな拡声器で仲間に投降を呼びかける宣伝工作も盛んになる。
現地人の食糧を奪って争いになり、現地人を殺したり現地人に殺される兵士も出た。
「第41師団に命じられた撤退路は、軍主力が撤退に当たって沿道の物資を徴集したため、食料事情は深刻な状態にあった。9月下旬から10月中旬ごろには、部隊による差はあるが死亡率が日々10パーセントから30パーセントにも達した」(「第41師団ニューギニア作戦史」より)

昭和20年(1945)
3月18日 乙吉がマカップにて戦病死

5月3日 第41師団歩兵第239連隊第2大隊の大隊長竹永正治中佐が部下46名を率いて連合軍に投降した。連合軍の撒いたビラ「去ル5月3日、貴軍将校5名、以下、42名ガ団体投降シタ」。
連合軍の尋問調書に竹永中佐の考えが記されている。
「安逹司令官は誇り高く不屈だが、戦術家としては無能である。<中略>アイタペ攻撃でも部下の反対を押し切って強行、1万人以上の損害を出した責任は大きい」「国民は戦争の終結を望んでいるが、財閥と軍閥は戦争の継続を望んでいる。なぜなら終戦になると、彼らが持つ権力とその基盤のすべてを失うからだ」「アイタペ作戦後、120名の部下のうち約80名が飢えや病で死亡した。投降しなければ全員が死亡していただろう」。

8月10日 第18軍将兵に「全軍玉砕」の命令が出る。

8月15日 敵の砲爆撃が急に途絶えた後に敵の飛行機がビラを撒く。「日本降伏セリ、速ヤカニ戦闘ヲ停止スベシ」「日本、平和来ル」。

8月18日 「戦争ハ集結セルモノノゴトキモ、大命ニ接セズ依然戦闘続行」との命令。

8月20日 「潜入斬リ込ミナドノ積極行動ノ停止」の命令が各部隊になされた。

9月13日 第18軍は、豪州陸軍第6師団に降伏。武装解除の後にウェアク沖合のムッシュ島にある連合軍の捕虜収容所に収容される。
収容された陸海軍の将兵は11,197名。
軍刀を手渡す安逹司令官

11月末 最初の復員船「鹿島」が到着。

昭和21年(1946)
・第20師団歩兵第79連隊(朝鮮・龍山)の場合:6,151名(ニューギニア転進の為の編成時)、復員船で日本の土を踏んだ物は91名。
・第41師団歩兵第237連隊(水戸)の場合:4,074名(ニューギニア転進の為の編成時)、他部隊への転届者や内地帰還者、行方不明者を除き1月16日に復員船に乗船し同月24日に浦賀港に入港。日本の土を踏んだ者は46名、生存率約1%、損耗率99%。
・1月末までに順次日本へ帰国したが、この間にも祖国へ帰る日を待ちわびながら1148名が衰弱しムッシュ島で亡くなった。

昭和22年(1947)
9月10日 第18軍司令官安逹ニ十三中将、小刀を使い割腹自決。遺書に「作戦三年の間に十万に及ぶ青春有為なる陛下の赤子を喪い、しかもその大部分は戦病死であった。打ち続く作戦に疲労困憊の極みに達せる将兵に対しさらに人として耐え得る限度を遥かに超越せる克艱敢闘を要求致し候。これに対し黙々とこれを遂行し力尽きて花吹雪のごとく散り行く若き将兵を眺むる時、君国の為とは申しながらその断腸の思いはただ神のみぞと知ると存じ候。当時小生の心中堅く誓いし処は必ずこれら若き将兵と運命を共にし南海の土となるべく決心致しおり候」と書かれていた。

投入された第18軍総人員
参加部隊名 人員 部隊数
第18軍直轄部隊 35,400名 92
第20師団(朝兵団) 25,146 15
第41師団(河兵団) 22,418 14
第51師団(基兵団) 35,700 16
航空部隊 約15,739 15
船舶部隊 13,328 17
南海支隊関係 約17,920 19
海軍部隊 約50,400 33
約215,750 310

実戦闘参加総人員
区分 人員
投入された人員 215,750名
途中転出した人員 △38,259
戦闘をした人員 177,491






生還者率
生還者数 戦闘者総数 生還者率
10,903名 177,491名 6%




叔父の日章旗返還の記事に「マカップ島」とあり、親戚の人たちも亡くなった場所と思っていた。国会図書館で調べる前に戦史に詳しい人に「マカップ島」を聞いたら、「マカップ島は戦域地図上では確認できなかった。セピック河中流域と前進基地(マミール、マブリック等)を結ぶ連絡線上に『マカップ』という地名(おそらく集落)がある」との返事をもらっていた。
国会図書館で「戦史叢書南太平洋陸軍作戦 5」に東部ニューギニアの地図があり、海岸とセピック河の間に「マカップ」という地名を見つけた。地図に「マカップ」を見つけた時は感慨深いものがあった。叔父は島でなくこの奥地で戦病死したのか・・・。



船舶工兵第5連隊(船工5連隊)
昭和12年8月、独立工兵第10連隊として編成。(編成母体は善通寺工兵第11連隊
昭和17年(1942)8月、独立工兵第10連隊を編成改組しラバウル(ニューブリテン島)に於いて船舶工兵第5連隊と改称。
連隊本部、第1中隊、第2中隊、第3中隊、各中隊に第1小隊・第2小隊・第3小隊・第4小隊が所属。

戦史や戦記はどうしても歩兵が中心となりがちだが、ニューギニアでは脇役の工兵や船舶工兵部隊が縁の下で働いていた。道も開けない海岸べりの輸送は船舶工兵部隊の舟艇に頼るしかなかった。

叔父の出征時と思われる昭和18年(1943)6月22日の写真がある。この日から東部ニューギニアに着くまでの叔父の行動と所属中隊・小隊は残念ながら不明。

「南海の孤舟 東部ニューギニア末期戦回想記」坂本輝久著によれば次の通り。尚、坂本氏は船舶工兵第5連隊第1中隊第4小隊長(中尉)であった。
昭和18年8月10日 宇品港(広島市)で輸送船に乗船 → 膨湖島(台湾)→ 高雄(台湾)→ マニラ(フィリピン)→ 9月3日 セブ港(フィリピン・セブ島)に上陸し2カ月間教育隊で訓練 → 12月パラオ → 12月14日 ウエワク(東部ニューギニア)→ 12月30日 マダン(東部ニューギニア)で連隊に合流。

叔父が坂本氏と同じ輸送船に乗り合わせたかどうか不明だが、叔父の出征が6月中旬と考えれば同じ日程だった可能性はある。同じ日程でなかったとしても船工第5連隊の行動は戦友会や戦史叢書に記録されている。

叔父がいた時の状況
叔父がニューギニアの船工5連隊に昭和18年(1943)12月から加わったと前提する。
戦友会の資料の戦死者一覧では叔父の所属欄(中隊)が空白なので、連隊本部付だった可能性もある。
戦友会の資料「航跡:独工一○・船工五戦いの跡」と「戦史叢書南太平洋陸軍作戦5」を参考にして述べてみる。

連隊本部 連隊長:野崎中佐、副官:細川中尉
第1中隊 中隊長:寺村中尉、第1小隊長:西浦少尉、第2小隊長:小原中尉、第3小隊長:高谷少尉、第4小隊長:大河内准尉
第2中隊 中隊長:小亀中尉、第1小隊長:住田少尉、第2小隊長:八井少尉、第3小隊長:秋永少尉、第4小隊長:柴田少尉
第3中隊 中隊長:宮崎中尉、第1小隊長:富永少尉、第2小隊長:古迫少尉、第3小隊長:川辺見習士官、第4小隊長:檜野少尉
材料廠 廠長 西岡中尉

ニューギニアの沿岸輸送に当たっていたのは第1船舶団の船工5連隊と9連隊であった。当初、マダン ⇔ ハンサは船工5連隊、ハンサ ⇔ ウエアクは船工第9連隊が担当していた。第20師団のフィンシュハーヘン方面進出にともない、補給範囲を大きく東に延ばしたので、マダン以東を船工5連隊へマダン以西を船工9連隊に改められた。しかし、第20師団がフィンシュハーヘンの戦いに敗れて西へ転進するにともない船工5連隊も西へ移動を余儀なくされた。
連合軍が制海権・制空権を握ってから、ニューギニアへの補給は潜水艦による輸送となったが、それも昭和19年(1944)1月上旬までで打ち切りとなった。それでも、大発や、機帆船、徴用漁船により局地輸送は続けられた。はるばる千葉県銚子や静岡県焼津などから40~50隻もの徴用漁船が陸軍の補給を助ける為に危険な作業に従事した。これらの漁船は1隻も本土の母港へ帰還しなかったばかりか、帰国できた漁船員はほんのわずかだったと言われる。

昭和19年(1944)
1月上旬
連隊は柴田隊の一部(木本艇隊)をシオに残し、その他の艇隊を以て患者を後送中 米軍がグンビ岬に上陸 海路遮断される。第18軍司令部の潜水艦移乗を強行(第1回は魚雷艇に妨害され失敗、翌夕 大発1 艇を以てキアリ方向に陽動 敵魚雷艇と交戦中の機に乗じ移乗強行)マダン帰還が成功。
1月中旬
第20師団司令部はガリ潜水艦揚陸のため柴田艇隊と共にガリに転進途中キアリ西方海上にて敵魚雷艇2艇と交戦これを撃退ガリに到着(大発3艇微傷、小発1艇浸水擱座)敵機の銃爆撃と艦砲射撃により舟艇大破。運行可能の1艇で暗夜荒天の中を師団10日分の糧秣を揚陸。
1月下旬
連隊本部はシオより陸行した主力と共に20師団の最後尾の第79連隊に次いでガリを出発、フイニステル山系を縦断する撤退作戦(陸路)に参加してマダンに向かう。この転進は敵哨戒機の妨害を受けつつ1日の行程はわずか10数キロ。
フイニステル山系は断崖絶壁が多く、山中の大渓流はスコールの後は奔流となって渡河を阻む。ジャングルと高地帯の湿地の連続で前人未踏の難路であった。
疲労、寒気、飢え等の為マラリア患者が多発。命綱を頼りに岸壁を上り、急流を決死渡河する。絶壁よりの墜落者、急流の溺死者を出す。疲労の極 病魔に斃れる者、或いは自ら玉砕した者も多し。(第18軍第20師団と第51師団、軍直轄部隊の13,000人中、3,500人がフイニルス山中で陣没)

2月下旬
マダンに到着。逐次ハンサ(18年春 第41師団の揚陸地)へ出発する。敵機、敵魚雷艇の攻撃を警戒しつつ海岸沿いに陸路ハンサへ転進。
ハンサから海路ウエワク、ムッシュ島へ転進。

3月14日 喜多艇(艇長 喜多兵長、舵手 長瀬上等兵、機手 田中上等兵)はハンサより第51師団司令部を輸送中、敵機の猛攻を受けたが危機を突破(木本艇隊指揮艇)。

3月20日 河内曹長以下6名、敵魚雷艇と交戦し戦死。

4月-5月
各師団がハンサからウエワクへ転進するため海上輸送を行う。各艇隊は連夜にわたり敵機及び敵魚雷艇の攻撃を排除しつつ機動を行う。艇員と舟艇の損耗大であった。又、ラム河とセピック河及び両河に挟まれた大湿地の転進を手伝う。

4月28日 船舶工兵第9連隊(船工9連隊)が第20師団司令部をハンサからウエワクへ大発3艇で輸送中、ウエワク手前のテレプ岬で敵魚雷艇の攻撃を受ける。1番艇と2番艇が撃沈され乗艇していた片桐師団長や小野参謀長、その他司令部将兵と共に船舶工兵も戦死。3番艇のみ無事だった。
船工9連隊は舟艇の大部分を喪失した為に船工5連隊が軍唯一の舟艇部隊となる

ウエワクに集結。主力はムッシュ島。残留部隊の舟艇により逐次ムッシュ基地に帰還する。連日、敵機の銃爆撃、時には艦砲射撃を受け敵の上陸に脅威する。舟艇の秘とく場と艇員の宿営地は日に日に爆破され兵力は漸次消耗する。糧秣の補給が絶えたため一部(材料廠)をブーツ付近に分駐させ自活態勢に入る。

6月-8月
4月にアイタペに上陸した連合軍を攻撃するためにアイタペ作戦を行う。そのためにウエワクから弾薬や糧秣をブーツの西へ緊急海上輸送する。本輸送間、各艇隊は連夜にわたり空海から敵の砲爆撃を受ける。さらに、荒天のために艇員や舟艇に甚大なる損害を受けたが、友軍の危急を救うため決死機動を敢行中、遂に補給物資揚げ海上輸送を中止。

8月-12月
アイタペ作戦に敗れた第18軍はウエワクへ後退。又、各部隊はウエワクからセピック河流域の地区へ分散した。
9月末 連隊主力はセピック河中流のタンバナム地区に一部は陸路、主力は水路で移駐し地区警備隊となり自活生活。食料はサゴ椰子澱粉(土人に供出せしむ)。第1中隊主力をムッシュ島に残置、軍直轄としてウエワクの周辺を機動。

昭和20年(1945)
山南地区、特にマブリックからカボイビス、ヌンボク、サスイヤ島、山麓の比較的物資豊かな地区を一挙に敵に突破されれば、第18軍は山北地帯に対する補給源を失うこととなり、さらにセピック方面への進撃の自由も許し、軍の存在を根本的に脅威されることになるものと予想された。そこで軍は作戦指導の重点を、山南地区の確保とした。軍のこの新構想に基づく処置は、2月6日に発令された。マルイ、コプルバ、(どちらもセピック上流)付近に在った浅田部隊を新たに第20師団から転属し庄下支隊を編成し、マルイ付近を第一線とてシテセピック流域の防衛に任じさせた。なお自活区域の拡張と警備体制の強化のため、支隊はエッシャン(セピック上流南岸)方面の増強を企図していたが、これを制限して支隊の中で最も戦力のあった船舶工兵第5連隊の主力を、軍予備として逐次マカップ(ブンブン川西岸)地区に進出させることとした。

第18軍は、マブリック方面の邀撃作戦に任ずる山南地区部隊の第20師団・三宅部隊への補給を確立するため、おおむねヤミール、オニヤロープ付近以東ヤミール以西の山南地区を軍直轄としてこの地区に軍参謀長吉原中将の指揮する吉原部隊を配置することとした。吉原参謀長は、3月3日にはオニヤロープに進出した。指揮下には、このほか佐藤土人工作隊と、更にマカップ付近の第27野戦貨物廠の約50人が編入された。なお、マカップ付近は複郭南方の要点で、しかもサゴ資源地帯であったから、その後間もなく独立工兵第36連隊の兵力によって更に増強された。

船工5連隊は、マミール付近に於いて挺身斥候を敵陣内に潜入させてその幕舎を爆破。イリペン・カポイビスの戦斗に於いては敵の間断なき迫撃砲弾下に数昼夜飢餓とマラリヤに耐えつつタコツボ陣地を死守し、或は数次に亘る敵の爆撃下に所命の時機迄その陣地を確保する等複廓戦斗を反復すること4ケ月余り。本戦斗間戦死者、イリペン付近 大石尚士少尉他16名、カボイビス付近 木元康夫中尉他一小隊全滅。

3月18日 乙吉がマカップにて戦病死

8月15日 敗戦。

10月 ムッシュ島に集結。

昭和21年(1946)
1月9日 連隊主力が復員船に乗船。同月17日に大竹港(広島県)に上陸、復員完了。

船工第5連隊の損耗の概要は下記の通リ。
区分 期 間 人員
戦死者 昭和12年7月~昭和16年11月 19名
昭和16年12月~昭和18年12月351名
昭和19年1月~昭和21年1月 777名
戦死者 小計 1,147名
生存者 昭和21年1月 約223名
連隊総人員 約1,351名
連隊生還者率223 / 1,351 16.5%

「マッカーサー大戦回顧録」中公文庫より抜粋
ニューギニア戦の大きい特色は日本軍の船舶に対する攻撃だった。連合軍の飛行機、潜水艦、PTボートは日本軍の沿岸用舟艇、輸送船、小型舟艇、帆船などを大量に撃破したので、日本軍が孤立した残存兵力に補給物資や増援部隊を送ったり、あるいはその脱出をはかろうとする動きは次第に弱まっていった。こういった船舶の撃破総数は8千隻を超え、ブナ・ラエ地区とソロモン諸島での戦闘が終わったあと、日本軍は主要な海軍部隊を危険にさらすことをためらうようになった。同時に貨物船と輸送船を大量に失ったため、日本軍は何か新しい補給技術を考案せなばならないハメに追い込まれた。潜水艦は小さすぎる上に簡単な操作がきかず、大した助けにはならない。おまけに数も少なすぎた。そこでこの面での日本軍のもっとも野心的な努力は、舟艇の往来を大いに活発にすることに向けられた。これらの舟艇は日本、中国、フィリピンなどで製造され、集められて、ニューギニア地域に回されてきた。これらは35人から60人の兵員と最高20トンの貨物の輸送能力を持つ船で、全体に非常に良くできていた。私は何か効果的な対抗戦術を練らざるを得なくなったが、その答えはPTボート、カタリナ(飛行艇)と低空攻撃機を併用して間断なく活躍させることだった。この3つの組み合わせで、敵のこの小型舟艇は、いくら作っても間に合わないほど早くこわされた。


日章旗など

叔父の日章旗は戦後60年経て平成17年(2005)に日本へ戻ってきた。日章旗には叔父さんの妻(トシイ)と娘(恵子)や親戚、友人の名前が書いてある。小生の父(豊次)が自分の家族の名前を書いたが、戦後生まれの小生の兄(昭和20年11月生まれ)と小生(昭和23年生まれ)の名前はない。
叔父さんの妻と娘の名前は、すり減って薄くなっている。叔父さんは、日章旗を4つ折りにして妻と娘のある面をいつも眼にして、戦場で何度も何度も2人の名前を撫でていたのだろう。米軍や豪軍は、戦場に残された日本軍の公式書類(戦闘日誌や名簿、送達接受文書など)から情報を得て行動を分析していた。個人所有物(日章旗や軍刀、千人針、日記帳など)は戦利品として故国へ持ち帰った。収容所では米軍の歩哨と日の丸を煙草と物々交換する日本将兵もいた。又、自動小銃を持った歩哨による「時計・万年筆」の強奪もあった。経済的に全く無価値(当時)なもの、たとえば階級章・星章などをお土産として故国に持ち帰ろうとする連合軍兵士によりはぎとられることもあった。
今、インターネットノオークションに元日本兵の遺品(日章旗や千人針など)が出品され、数千円から10万円を超える値段がついているようだ。日米の遺族が遺品整理をしている中で出品されている可能性があるとのこと。個人的にはこれらの遺品は、どこか公共の歴史館や博物館などに寄贈してもらえれば有難いのだが・・・。


叔父の年表
昭和 西暦 叔父 出来事
3年 1928 12歳 3月15日/共産党員の全国的大検挙
3月/乙吉、両津尋常高等小学校卒業
6月4日/張作霖爆殺事件
6月29日/死刑・無期刑を含む治安維持法改正を公布
12年 1937 22歳 2月19日/徴兵検査の合格基準を緩和
6月4日/第一次近衛文麿内閣成立
7月7日/盧溝橋で日中両軍が衝突
8月24日/国民精神総動員実施要項を閣議で決定
10月13日-16日/国民精神総動員強調週間のテーマ曲「海行かば」の発表
11月20日/大本営設置
12月13日/日本軍、南京を占領
13年 1938 23歳 1月16日/「国民政府を対手とせず」と第一次近衛声明
4月1日/国家総動員法公布
6月9日/勤労動はじまる
8月16日/ヒットラーユーゲント来日
9月11日/従軍作家、続々戦線へ
11月3日/東亜新秩序建設の第二次近衛声明
14年 1939 24歳 3月30日/軍事教練、大学でも必修となる
5月11日/ノモンハン事件起こる
6月7日/満蒙開拓青少年義勇軍2500人の壮行会挙行
7月8日/国民徴用令公布
8月20日/ノモンハンで日本軍敗北
11月25日/白米が禁止となる
15年 1940 25歳 1月16日/米内光政内閣成立
7月22日/第二次近衛内閣成立
9月23日/日本軍、北部仏印に進駐
9月27日/日独伊三国同盟調印
10月12日/大政翼賛会発会式
11月2日/国民服が制定される
16年 1941 26歳 1月8日/東条陸相が「戦陣訓」を発表
4月1日/小学校を国民学校に改称
4月13日/日ソ中立条約調印
7月28日/日本軍、南部仏印に進駐
10月18日/東条英機内閣成立
12月8日/真珠湾空襲 太平洋戦争始まる
12月24日/乙吉、両津町翼賛壮年団団員となる
12月26日/乙吉、両津監視哨員として第四銀行屋上で防空監視の講習を受ける
17年 1942 27歳 1月2日/日本軍、マニラを占領
1月23日/日本軍、ラバウルを占領
3月8日/日本軍、東部ニューギニアのサラモア・ラエを占領
3月9日/日本軍、蘭印(現インドネシア)を占領
2月15日/日本軍、シンガポールを占領 マレー作戦終わる
6月5日/日本海軍、ミッドウェー海戦に大敗
8月9日/第1次ソロモン海戦
10月11日/乙吉、教育召集により両津国民学校に集合
18年 1943 28歳 2月2日/乙吉、簡閲點呼の案内を受ける
2月7日/ガダルカナル島から撤退作戦完了
4月18日/連合艦隊山本五十六司令長官がソロモン群島にて戦死
5月29日/アッツ島守備隊玉砕
6月17日/乙吉、臨時召集により出征
11月27日/米・英・中がカイロ宣言(日本の無条件降伏まで戦う)
19年 1944 29歳 7月7日/サイパン守備隊玉砕
8月4日/閣議で「一億総武装」を決定
8月11日/グアム守備隊玉砕
8月22日/沖縄から本土への疎開船「対馬丸」が米軍潜水艦の魚雷で沈没
8月23日/学徒勤労令・女子挺身勤労令公布
11月24日/サイパン発のB29 が東京を初空襲
10月10日/米軍、那覇を中心に沖縄を大空襲
20年 1945 29歳7ケ月 2月4日/連合軍、ヤルタ会談(ドイツ降伏後のソ連参戦を合意)
2月19日/米軍、硫黄島に上陸
3月10日/米軍B29 東京大空襲
3月18日/乙吉、東部ニューギニアで戦病死
4月1日/米軍が沖縄本島に上陸
4月5日/日ソ中立条約の不延長をソ連が通告
5月8日/ドイツが連合軍に降伏
6月23日/沖縄の日本軍が組織的抵抗を終える
7月26日/ポツダム宣言(日本に降伏を勧告)
8月6日/米軍が広島に原爆投下
8月9日/米軍が長崎に原爆投下、ソ連軍が満州国へ侵攻
8月15日/日本が降伏


その他(文中敬称略)
ケネディ中尉と花見少佐
アメリカの故ジョン・F・ケネディ大統領は、若き日に魚雷艇の艇長としてガダルカナル島など南東方面で日本海軍と戦っている。
昭和18年(1943)8月2日未明、彼が乗り組んでいたPT109号(艇長含め13名)は、ソロモン諸島のコロンバンガラ島とギゾ島の間のブラケット海峡を哨戒中に日本海軍の駆逐艦「天霧」(あまぎり)(排水量1980t、全長118.5m、速力38ノット70km/h)と遭遇。天霧は、魚雷艇との距離があまりにも近いので突進して正面から魚雷艇にぶつかろうと判断し魚雷艇を真っ二つに分断した。PT109号の13名のうち2名戦死でケネディ中尉を含む11名は、泳いで15時間かけ小さな無人島にたどり着いた。翌日、さらに泳いで次の島に移った。さらに翌日、住民のいるナル島に泳ぎ着き救助された。
ケネディが昭和26年(1951)、下院議員として日本に立ち寄った際、日本政府に自分と戦った駆逐艦の艦長を探して欲しいと依頼した。その時の艦長は花見弘平(はなみこうへい)少佐で福島県に在住していた。ここから二人は連絡を取り合い交流が始まった。

ジョン・F・ケネディは、アイルランドからアメリカに移民した一家に生まれ、父はイギリス駐在大使だった。彼は、名門のハーバード大学法学部政治学科を卒業後にスタンフォード大学大学院に進んだ。昭和17年(1942)夏、ノースウエスタン大学の海軍予備士官訓連隊に送られた。昭和18年(1943)春、ソロモン諸島のツラギの海軍基地に派遣され、新しい魚雷艇PT109号の艇長におさまった。退役後、下院議員、上院議員を経てアメリカ史上最も若い43歳で第35代アメリカ合衆国大統領となった。しかし、1963年11月22日にテキサス州ダラス市で暗殺された。享年46歳。

花見少佐は、明治42年(1899)8月に福島県に生まれ、大正15年に喜多方中学から海軍兵学校へ入学(海兵57期)。昭和13年(1938)7月から1年半、海軍機関学校の教官。その後、太平洋戦争と同時に南太平洋、インド洋などの戦務に従事、昭和18年(1943)5月に駆逐艦「天霧」の艦長となる。肺浸潤のため横須賀海軍病院へ入院。昭和19年(1944)7月に清水高等商船学校の教官となり、同年12月に中佐に昇進。その後、昭和20年(1945)3月から海軍水雷学校の教官となった。戦後は郷里の福島県塩川町の第2代町長や利根川土地改良区理事長などを歴任し平成6年(1994)12月に逝去。享年85歳。

PTボート
排水量 56t、全長 24.4m、速力 41ノット(時速75.9km)
発射管 X 4、37mm砲 X 1、12.7mm連装機銃 X 2、20mm機銃 X 1
駆逐艦「天霧」
排水量 1980t、全長 118.5m、速力 38ノット(時速70.4km)
12.7cm連装砲 X 3、三連装発射管 X 3

奥崎謙三(おくざきけんぞう)
大正9年(1920)兵庫県に生まれる。昭和15年(1940)徴兵検査で甲種合格。昭和16年(1941)3月、岡山の連隊に入営、後に工兵隊へ転属。
昭和18年(1943)1月、独立工兵第36連隊に配属され、4月にニューギニアに派遣される。
彼の部隊は敗走を重ねながら飢えとマラリアに苦しみ千数百名のうち生き残ったのはわずか30数名だった。昭和19年(1944)12月、豪軍の捕虜となり豪州ヘイ市の第7捕虜収容所※を経て昭和21年(1946)2月末、日本に送還された。
昭和44年(1969)、皇居の一般参賀で「ヤマザキ、ピストルで天皇を撃て」と叫びながら昭和天皇に向けてパチンコ玉を発射。暴行罪で懲役1年6カ月の刑を受けて服役した。「ヤマザキ」とはニューギニアで倒れた戦友の山崎一等兵のことだった。彼は自著「ヤマザキ、天皇を撃て!」で「戦友たちの慰霊には、天皇にパチンコ玉を撃つことがふさわしいと決意し、皇居に向かった」と書いている。
映画監督の原一男は、昭和57年(1982)から奥崎を主人公としたドキュメンタリー映画を撮り始めた。撮影が進み打ち合わせ中に奥崎は「私は中隊長を殺そうと思うんです。殺す場面を撮影していただきたいんです」と原に言った。彼が所属した独立工兵第36連隊で敗戦直後、不可解な兵士の処刑事件が起きていた。映画では、処刑を命じた中隊長ら元上官を訪ね歩き真相を追い求める姿をカメラにおさめている。奥崎の申し入れに原は衝撃を受け弁護士や映画監督の今村昌平にも相談した。原の妻(映画の制作者)の猛反対もあり結論が出ないまま時間が過ぎた昭和59年(1984)12月、ニューギニア時代の中隊長宅を一人で訪れた奥崎は、応対に出た長男を改造拳銃で撃って重傷を負わせ逮捕された。
昭和62年(1987)8月、奥崎と彼の妻が出演したドキュメンタリー映画「ゆきゆきて、神軍」が公開された。原一男監督は「こんな暗い内容の映画、見てくれる人がいるんだろうか」と心配だった。ところが、映画はヒットし、ベルリン映画祭のカリガリ映画賞をはじめ、日本の映画賞も総なめにした。奥崎は出所後、平成17年(2005)6月に亡くなっている。享年85歳。
※オーストラリアには捕虜収容所が何か所かある。昭和19年(1944)8月5日にカウラ捕虜収容所で545名以上の日本兵が脱走したが、231名が死亡。豪州の4名も死亡。カウラ事件と呼ばれている。

近藤芳美(こんどうよしみ)
歌人の近藤芳美は船舶工兵だった。彼の歌集「早春歌」の「後記」に次のように書いてある。
「(1940年・昭和15年)9月25日、広島で入隊、数日後には宇品から御用船に乗せられた。僕たちは揚子江を何日も遡つて、武昌につれて行かれた。そして、武昌の工場の廃墟の屯営で、船舶工兵として激しい訓練を受けた。背の高い眼鏡をかけた兵隊として、いつも僕は目立つた。周囲は瀬戸内海の漁夫出身の兵ばかりであつた。翌16年2月、作業中脚に負傷し、兵站病院に運ばれた。はげしく肉體を自らさいなんだ後、吐息をつくやうな思ひだった。部隊はいつか大陸の何処かに転進し、病院に残された僕は間もなく胸を病んでいる事を軍医に知らされた。僕は南京上海と、病院を転々と後送されて行つた。太平洋戦争の放送は上海の病院で聞いた。翌日、軍衣を着て退院した。僕は南方のどこに居るかわからない隊を追ふため、乗せられた船で宇品にむかつた。しかし其の途中再び発熱、宇品から広島の三瀧療養所に入れられた。退院し、除隊になつたのは17年夏である」
彼の歌集(他の歌集も含む)より
・傍観を良心として生きし日々青春と呼ぶときもなかりき
・身をかはし身をかはしつつ生き行くに言葉は痣の如く残らむ
・世をあげし思想のなかにまもり来て戦争を憎む心よ
・国論の統一されてゆくさまを水際立てりと語り合ふのみ
・「殺すな」という一点に立ち返るべき岐路の問い世界の運命として

輸送船と船員
「ああ堂々の輸送船・・・・・」と歌われた輸送船。開戦時の日本の船舶保有量(500総トン以上の船舶)は、630万総トンと言われ世界第3位の海運国だった。戦時中は将兵や軍需品を前線に送り込み、南方から物資や資源を日本へ運ぶために数多くの輸送船が使われた。
しかしながら、制空権と制海権を失った戦争後半は、米軍の爆撃機や戦闘機による爆撃・銃撃、潜水艦による魚雷攻撃によりほとんどの輸送船が沈没した。戦地へ到着する前に多くの将兵と船員が海没した。昭和18年(1943)の2月の1カ月間だけで5千トン以上の商船が17隻も米軍の攻撃により沈没した。
敗戦までに喪失した船舶(100トン以上)は約2,400隻、802万総トンに及ぶ。
アメリカは全米にある18の造船所で輸送船を10日に1隻の割合で建造し、終戦までに2708隻、2918万総トンを建造した。日本は、1303隻、336万総トンと9分の1に過ぎなかった。
戦時下、日の目を見ず職務に忠実だった船員は輸送業務に不可欠であった。敗戦までに戦没した船員総数は約6万名。
「ダンピール海峡の悲劇」として知られる輸送船7隻の撃沈で船員204名が一度に亡くなっている。
海軍は船団護衛の重要性に気付いて海上護衛総司令部を昭和18年(1943)11月15日に発足させた。しかし、「船舶護衛はクサレ士官の捨て所」と軽視してきた海軍の悪しき伝統の為に人材も艦船も急に集まるはずもなく、自分たちの暗号が米軍に解読され、船団の情報が前線の米軍潜水艦に知らされているとは思いも及ばず、終戦まで同じ暗号を使い続けた。
戦没船員の8割近い4万7480名は、昭和19年(1944)から昭和20年(1945)8月15日までに集中する。損耗率(戦争に参加した員数と戦死者の比率)は、陸軍の20%と海軍の16%に対して船員の場合43%と言われる。しかし、犠牲となった船員に目を向ける国民は少ないと思われる。
上記で述べた花見少佐は、輸送船(商船)隊が大きな犠牲を払っているかをよく知っていた。しかし、清水高等商船学校に教官として来て改めて犠牲の大きさを知った。学生たちは卒業すると予備士官として海軍の艦船に乗り組んだり、船会社(日本郵船、大阪商船、三井船舶、山下汽船、帝国船舶など)へ就職し船員となった。
学生時代の友人M君の父親(渦尻洋)は、清水高等商船学校航海科1期生だった。彼の父親が卒業前の練習船大成丸で実習生だった頃を書いた小説「遠い茜色の雲 -1945年夏-」を自費出版している。又、父親と同級生だった大谷直人は、学生時代のことを小説「青春の砦」として新潮社より出版している。この2冊とも戦時中に船の学校で青春を過ごした若者たちの葛藤が描かれている。2人とも戦後は大学に入り直して卒業後に高校教師となった。


あとがき
若いころから戦争に関する本は読んでいた。叔父の日章旗が戻ってきてから、本や資料をさらに読み、戦争に関するテレビの特集やドキュメント映画を観ている。叔父が佐渡に生まれニューギニアの密林で戦病死するまでをノンフィクションの本にしようと思った。
しかし、叔父の生い立ちや青年期、戦地での詳細に関し不明な点が多くノンフィクションとしては無理と断念した。
ならば小説の形でと思い構想を練った。
題名「北斗七星と南十字星」副題「船舶工兵 東部ニューギニアに死す」
第一章 鳥の島ニューギニア 
第二章 佐渡 
第三章 出征 
第四章 船舶工兵 
第五章 死の島ニューギニア 
第六章 日章旗還る。
残念ながら構想のままで今日まで来ている。戦場での体験記を読み、証言者たちの告白を聞くにつけ事実の数々に圧倒されている。

今回、叔父のことを調べているうちに叔父に直接関係しない出来事も色々あり、戦争という狂気の時代に様々な人間ドラマがあった。過去に読んだ本ですでに知っていた内容もあるが、さらに深く知り理解した。このホームページでは叔父に直接関係しない出来事を載せない方がよいと思った。しかしながら、「その他」の項目を作り4つ - ケネディ中尉と花見少佐、奥崎謙三、近藤芳美、輸送船と船員 - だけを特別に選んで載せた。
実は、もう1つ - 友人の伯父 - も載せようとしたが、本ページと別に作成することにした。

今まで数多くの本や資料を読んだが、さらに今後 本や資料を読んでも思うことは変わらないだろう。
思うことは次の通り。
・国の指導者や軍の上層部は、雄の本能とマッチョな体質を抑制できず、さらに権力者の驕りとエゴで戦いに進んでしまった。
・エゴとは、メンツ、出世、見栄、功名心、嫉妬、責任問題の回避、失敗時の仲間内でのかばい合い、負けを認めない姑息な心など。
・戦場で兵士は、人間としての脳細胞(知性、理性、教養、道徳など)を捨て、その奥底にある原始的な脳細胞(攻撃本能、自己保存本能など)だけの獣となる。
・戦時中、いくつかの分岐点(グアム・サイパンの陥落、沖縄戦の敗北、東京や大阪、名古屋など日本各地への大空襲など)がありながら国体護持を優先し停戦する勇気を持たず決断を先送りしてずるずると戦争を続け、結局、広島と長崎に原爆を投下されてしまった。
・国民が思考停止し、国の報道を盲目的に信じて付和雷同・大勢順応する。

叔父は米軍なり豪軍の捕虜になれば良かったと思った。しかし、捕虜になっても衰弱した体が回復せずに捕虜収容所で亡くなった兵士も多かった。又、豪州のカウラ捕虜収容所では、収容された日本兵の脱走事件があり大勢の日本兵が亡くなっている。では、投降はどうか? 実際、竹永中佐が部下30名を率いて米軍に投降したこともあった。しかし、敵に白旗を上げて投降するのは「軍人勅諭」の洗脳もあり、日本軍人としては恥辱であって簡単に出来ることではないのだろう。なんとか生きのびたいと思っても、それは日本人としての生き方から外れる”個人的なわがまま”として激しく非難された。捕虜になることは極端な不名誉、世間に顔向けできない汚名であった。このことは、軍隊ばかりでなく民間人にも通用していた。サイパン、グアム、テニアン、沖縄などでは民間人の多くが自決し、あるいは身近にいた日本軍将兵に殺害された。

第18軍の安逹司令官は、遺書を残して自殺した。しかし、弾薬や食料、薬の補給もなかった戦場で餓死や病死した将兵に彼の言葉は慰めになるのだろうか。特に一銭五厘で徴集された数多くの兵士たちの遺骨は未だに帰国していない。国が徴集し兵士たちを戦地へ送ったのだから、敗戦になったとしても国の責任で徹底的に遺骨を探し出して日本へ戻すのが当然だろう。過去を検証せずに今も国民の命を軽んじている国(政府)を簡単に信じるわけにはいかない。

淵田美津雄(ふちだ みつお)は、真珠湾攻撃の際、「トラ、トラ、トラ」(われ奇襲に成功せり)という暗号文を打電した海軍航空隊の指揮官だった。戦後、アメリカへ渡りキリスト教の伝道師となった。
彼の言葉「無知は無理解を生み、無理解は憎悪を生む。そして憎悪こそ人類相克の悲劇を生む。無知から生まれる憎しみの連鎖を断ち切らねばならぬ。これこそ『ノーモア・パールハーバー』の道である」。

戦前、圧倒的に多くの日本人がアメリカやイギリスへ行ったこともなければ、アメリカ人やイギリス人と話したこともなかった。しかし、国のプロパガンダにより疑問も持たず「鬼畜米英」に同調していった。淵田の言葉を借りれば「無知は無理解を生み、無理解は憎悪を生む」であり、昭和12年(1937)の日中戦争から敗戦までの日本人の死者は310万人、さまざまな形で犠牲を払ったアジアの民衆の死は2000万人を超えるという悲惨な結末を迎えてしまった。

中国語学者・中国文学者の高島俊男(たかしま としお)は、「今の自分たちのありよう・考えかただけを、人類の唯一のそれと思っている人を『無知』と言う。『以前はこうでなかったのかもしれない』『他の所ではこうではないのかもしれない』と考えられる人は(たとえ具体的にどうであるかを知らなくとも)知性のある人である」と言っている。

飯田進(いいだ すすむ)は、昭和18年(1944)2月に海軍の民政府調査局員としてニューギニアへ派遣されたが、敗戦後、BC級戦犯容疑者として逮捕され刑を受け昭和25年(1950)に巣鴨プリズンに収監された。昭和31年(1956)に仮釈放された時には33歳になっていた。生まれた長男がサリドマイド薬害被害による障害を持って生まれたことをきっかけに、児童福祉に取り組みサリドマイド薬害訴訟の原告団の一人となった。社会福祉法人「青い鳥」の名誉顧問だったが、今年(平成28年)10月13日に逝去。享年93歳。
著書の「地獄の日本兵 ニューギニア戦線の真相」の「おわりに」で次のように書いている。
長い文だが引用してみる。
ニューギニア戦線の実相を描いてきました。それは、勇戦敢闘したある兵士の物語ではなく、飢えて野垂れ死しなければならなかった大勢の兵士の実態です。重ねて強調しておきますが、これはニューギニアに限りません。太平洋戦争域各地に共通していたことなのです。ニ百数十万人に達する戦没者の大多数が、本国から遠く離れて、同じような運命をたどらされたのでした。この酷いとも凄惨とも、喩えようのない最期を若者たちに強いたことを、戦後の日本人の大多数は、知らないまま過ごしてきました。
この事実を知らずに、靖国問題についていくら議論しても虚しいばかりだと私は思います。嫌なことには目を向けたくない習性が、人間にはあります。嫌なことを忘れることによって、人間は生き延び得るかもしれません。その習性は個人には許されても、国家や民族には許されません。
六十年前のことをすっかり忘れるような集団健忘症は、また違った形で、より大きな過ちを繰り返させるのではないかと危惧するからです。今日の日本を覆う腐敗や犯罪をもたらしている禍根は、ここに淵源していると私は考えています。戦後、とりわけバブル景気華やかだったころ、数多くの戦友会によって頻繁に行われた慰霊祭の祭文に、不思議に共通していた言葉がありました。「あなた方の尊い犠牲の上に、今日の経済的繁栄があります。どうか安らかにお眠りください」
飢え死にした兵士たちのどこに、経済的繁栄を築く要因があったのでしょうか。怒り狂った死者たちの叫び声が、聞こえて来るようです。そんな理由付けは、生き残った者を慰める役割を果たしても、反省にはつながりません。逆に正当化に資するだけです。実際、そうなってしまいました。
なぜあれだけ夥しい兵士たちが、戦場に上陸するやいなや補給を断たれ、飢え死にしなければならなかったのか、その事実こそが検証されなければならなかったのです。兵士たちはアメリカを始めとする連合軍に対してではなく、無謀で拙劣きわまりない戦略、戦術を強いた大本営参謀をこそ、恨みに怨んで死んでいったのです。戦争末期、日本の各都市はアメリカの絨毯爆撃によって壊滅的な打撃を受けました。何十万人もの老人や女、子供が焼き殺されました。さらに広島、長崎には、事前の警告なしに原爆が投下されました。これが戦争犯罪でなくてなんでしょう。一方で、落下傘降下して捕虜になった敵の飛行兵たちを処刑した日本軍の将兵は、戦後、戦争犯罪者としてスガモ・プリズンで処刑されています。その爆撃作戦を立案し、指揮したのは、アメリカ軍のカーチス・ルメイという空軍少将でした。
戦後彼は、空軍元帥にまでなっています。その彼に日本政府は昭和39年、勲一等旭日大綬章を寄与しているのです。もちろん天皇の名によってです。授章の理由は、日本の航空自衛隊の育成に協力したことでした。ヘドが出そうです。ねじれにねじれた戦後日本の在り様こそが、ニューギニア島はじめ太平洋の島々で、飢えて野垂れ死にした兵士たちの実相を、直視することから目をそらしてきた結果としてあるのです。

一橋大学名誉教授・作家の藤原彰(ふじわら あきら)は、著書の「餓死(うえじに)した英霊たち」の趣旨を次のように述べている。
「この本では、第二次世界大戦における日本軍人の戦没者230万人の過半数が戦死ではなく戦病死であること、それもその大部分が補給途絶による栄養失調症が原因の、広い意味での餓死であることを、各戦線にわたって検証した。そして大量餓死をもたらしたのは、補給を軽視し作戦を優先するという日本軍の特性と、食料はなくとも気力で戦えという精神主義にあったことを論じた」

ニューギニアでなくタイが舞台だがヒューマニズムにもとずき戦後 活動した人を紹介して終わりとする。
その人の名前は、「永瀬隆」(ながせ たかし)です。
平成24年(2012)4月にタイのカンチャナブリへ行き、クアイ河鉄橋を歩き鉄橋の近くにあった戦争博物館を見学した。バンコックへ戻るバスの出発まで時間があったのでバスターミナル近くの「カンチャナブリ戦争博物館(JEATHミュージアム)」へ立ち寄った。この博物館に日本人の銅像があり「MR.TAKASHI NAGASE」とあったが、この時はこの日本人のことは知らなかった。
帰国して調べたら「永瀬隆」であり泰緬鉄道(タイ~ビルマ)建設中の陸軍憲兵隊の通訳(英語)であった。ビルマ侵攻の補給路を確保するためタイとビルマを結ぶ415kmを連合軍捕虜とアジア人労働者を酷使し、わずか1年3カ月で鉄道を完成させた。過酷な環境(酷暑、食料不足、伝染病など)の中で、1万3千人の連合軍捕虜と数万人(推定)のアジア人労働者(ロームシャ)が建設工事中に犠牲となった。戦後、彼は旧連合軍捕虜や旧日本軍関係者の強い反発にあいながらも、奥さんと共に贖罪と和解に生涯を捧げ、タイから留学生を受け入れたり、タイの人たちへの感謝としてタイの学生たちに奨学金を贈り続けた。彼は亡くなるまでタイに135回もの巡礼の旅をした。タイ(特にカンチャナブリ)の人たちから永瀬さん夫妻は、「おとうさん」「おかあさん」と呼ばれて親しまれていた。平成23年(2011)6月逝去、享年93歳。
戦時中にあった悲惨な出来事を「なかったこと」として忘れる日本人が多い中、永瀬さん夫妻のような人を我々は忘れてはいけない。
小生がカンチャナブリへ行った記事は、ホームページの「旅の日記」→「東南アジア」→「タイ」→「3日目:4月7日」と「東南アジア」→「旅を終えて」→「戦争その1.カンチャナブリ戦争博物館と永瀬隆さん」に載せてある。永瀬さんの銅像の写真もあります。

叔父を偲んで10首
・日章旗のトシイと恵子の名に触れて戦場の叔父は夢に入れり
・叔父もまたセンコウさんと呼ばれしや舟艇扱ふ船舶工兵
・大発は甲羅なき亀米軍のPTボートは銃もつ猟犬
・湿地ぬけたどり着きたる兵士の前セピックの大河海のごとくに
・敵よりも飢餓とマラリア脅威なり動けぬ兵士放置されしまま
・傷病兵放置するのが武士道や帝国陸軍司令部様よ
・佐渡おけさ歌ふ気力も失ひて叔父は斃れしニューギニアに
・舟艇を捨てて密林へ逃れるも船舶工兵密林に死す
・ニューギニアの密林に死す叔父のあるマッカーサーは知るよしもなく
・いつどこで叔父の日章旗見つけしと豪州兵に問ひてみたくも

主な参考文献
・「戦史叢書南太平洋陸軍作戦5」防衛庁防衛研修所戦史室/朝雲新聞社
・「航跡:独工一0・船工五戦いの跡」独立工兵第一0聯隊・船舶工兵第五聯隊戦友会/戦誌刊行会
・「南海の孤舟 - 東部ニューギニア末期戦回想記」坂本輝久/自費出版/中野印刷
・「地獄の日本兵 ニューギニア戦線の真相」飯田進/新潮新書
・「陸軍船舶戦争」松原 茂生/星雲社
・「極限のなかの人間 ”死の島 ”ニューギニア」尾川正二/筑摩叢書
・「東部ニューギニア戦線 棄てられた部隊」尾川正二/図書出版社
・「東部ニューギニア戦線体験記」小野良/ワイズ
・「餓鬼道のニューギニア戦記」唐澤勲/新潟日報事業社
・「証言記録 兵士たちの戦争 3」/NHK「戦争証言」プロジェクト
・「米軍が記録したニューギニアの戦い」森山康平編/草思社
・「図説 玉砕の戦場 太平洋戦争の戦争」森山康平、太平洋戦争研究会/河出書房新社
・「知らぜらる証言者たち 兵士の告白」平塚柾緒、太平洋戦争研究会/新人物往来社
・「日本軍と日本兵 米軍報告書は語る」一ノ瀬俊也/講談社
・「日本はなぜ敗れるのか - 敗因21カ条」山本七平/角川書店
・「徴兵・戦争と民衆」喜多村理子/吉川弘文館
・「歴史群像 通号103号 2010年10月」/学研パブリッシング
・「歴史群像シリーズ 決定版太平洋戦争 5 消耗戦ソロモン・東部ニューギニアの死闘」/学研パブリッシング
・「太平洋戦史館」花岡千賀子/NPO法人太平洋戦史館
・「歩いて見た太平洋戦争の島々」安島太佳由/岩波書店
・「ケネディを沈めた男」星亮一/潮書房光人社
・「ヤマザキ、天皇を撃て! 」奥崎謙三/新泉社
・「歌集 早春歌」近藤芳美/四季書房
・NHK戦争証言アーカイブス http://www.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/
・AUSTRALIAN WAR MEMORIAL(オーストラリア戦争記念館)http://awm.gov.au
・Australia-Japan Reserch Project(豪日研究プロジェクト)http://ajrp.awm.gov.au/ajrp/ajrp2.nsf/
・戦没した船と海員の資料館  http://jsu.or.jp/siryo
・戦場体験史料館 http://jvvap.jp
・フリー百科事典「ウィキペディア」

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