父島

2010年5月7日 船中1泊  2010年5月8日〜5月12日 4泊5日


竹芝桟橋(東京) ⇒ おがさわら丸 ⇒ 二見港(父島)

面積:23.8km2 (伊豆七島の新島23.2km2)
人口:約2,000人

東京(竹芝桟橋)から南へ約1,000km
おがさわら丸で約25時間30分

東京都小笠原村の中心の島で小笠原村役場がある。

文禄2年(1593)、信州深志(松本)の城主 小笠原長時のひ孫、小笠原貞頼が発見したと伝えられる。最初の定住は、江戸時代の文政13年(1830)に5人の欧米人と15人のハワイ人だった。国際的に日本領土として認められたのは明治9年(1876)。

大正後期、亜熱帯性気候を生かした果樹や冬野菜の栽培、カツオ、マグロ漁のほか、捕鯨、サンゴ漁などで人口は7,000人余を数え最盛期を迎えた。

昭和19年(1944)に軍属等825人を除く島民(小笠原諸島)6,900人は本土へ強制疎開させられた。

戦後は米軍の占領下におかれ、昭和43年(1968)に小笠原が日本に返還されてから全ての島民の帰島が許された。




1日目:5月7日(金)
自宅 ⇒ 竹芝桟橋(港区)⇒ おがさわら丸 ⇒ 航海
宿泊:おがさわら丸
午前10時に竹芝桟橋を出港なので時間にゆとりはあるが、朝のラッシュを避けるために早めに自宅を出発。浜松町駅で下車。竹芝客船ターミナルへ行く前に時間があり、コーヒーショップでモーニングサービスの朝食を取る。朝の出勤の人たちを見ながらコーヒーを飲む。現役で働いていた頃の2年前迄は同じように駅へ向け早足で歩いていたものだ。このゆとりの時間を味わう。

ターミナルの売店にオニギリやパンなどを売っていなかったので近くのコンビニへ行き今晩の夕食と明日の朝食用の弁当などを買う。ついでにウィスキーも買う。

ツアーデスクのカウンターで乗船券や色々な資料をもらい説明を受け早めに乗船口に並ぶ。前から3番目。9時半に乗船開始、船の係員から「C-3」の紙札を受け取りCデッキの2等室へ行くと、畳んだ毛布の上に「C-3」と書いた紙が置いてありここが寝るスペース。出航前に上甲板へ出て晴海埠頭や高層ビル群を眺めていると中年の男性が話しかけてきた。小笠原で建設関係の仕事を2〜3カ月するとのこと。「お盆頃まで働いていようかな」と言う。

おがさわら丸
レインボウブリッジ

おがさわら丸の要目
総トン数:6,700t
全長:131m
旅客定員:1,043名
航海速力:22.5ノット(時速約42km)
竣工:1997年(平成9年)2月20日
造船所:三菱重工業(株)下関造船所
主機:NKK中速8PCV X 2機
馬力:13,500ps X 2  2機2軸方式 CPP(可変ピッチプロペラ)

曇り空の中を10時出港、上甲板にいて風景を眺める。レインボーブリッジ、大井コンテナ埠頭、青海コンテナ埠頭、羽田空港。羽田空港は4番目の滑走路を工事中。扇島(川崎)の製鉄所、ベイブリッジ、本牧コンテナ埠頭。出港してから1時間ほど甲板にいて移り行く景色を眺めていた。

船内へ戻り、案内所で船内ツアー(操舵室や機関室の見学)の予約をし受付札(7番)をもらう。明日の8時25分に集合とのこと。財布を貴重品ロッカーに入れロビーで新聞や雑誌を読む。雑誌「クルーズ」2009年9月号があり小笠原の特集も載っていて面白く読む。雑誌を読んでいたら甲板で話しかけてきた男性が通りかかり声をかけてくる。人恋しいのか話し好きなのか・・・・・。

案内所で確認したこと。
本日の乗客数:176人
ピークのお盆の頃で700人位  
昔と違って旅の時期が分散している
家族連れはどうしても夏休みになる

昼食は、コンビニで買ったオニギリと家から持って来たカップヌードル。船内に給湯器があり便利だ。

Aデッキにあるラウンジへ文庫本を持って行く。リクライニングチェアが5脚ありゆったりと横たわって本を読む。壁に注意書きが貼ってある。
「できるだけ多くのお客様にご利用いただけますようお一人様2時間程度でお譲りください」

夕食は、コンビの弁当と家からのインスタント味噌汁。

自分の寝場所で文庫本(三浦しおん”風が強く吹いている”)を読む。その後、シャワールームでシャワーを浴びる。北海道でチャリの旅を終えた時に大型フェリーに乗った。1回目は、太平洋フェリーで苫小牧から仙台、2回目は、新日本海フェリーで小樽から新潟。いずれのフェリーにも大きなお風呂があり海を見ながら最高だった。
おがさわら丸は小さいのでお風呂場のスペースは取れないのだろう。

夜10時の消灯前に寝る。


2日目:5月8日(土) 曇後晴  
おがさわら丸・航海 ⇒ 二見港 ⇒ 小笠原YH ⇒ 港周辺散策
宿泊:小笠原YH

朝6時に船室の灯りがついた。
朝食は、コンビニのパンと家から持参した紙フィルターのドリップコーヒー。

甲板へ出ると残念ながら曇り空だが、8時頃に小笠原諸島の最初の島々、ケータ列島が見えてくる。さすがに南の島々の雰囲気がある。

機関制御室
操舵室
9時半から船内ツアーで参加者10名。まづ機関室のコントロールルームで機関長からエンジンなどの概要の説明を受ける。エアコンの効いたコントロールルームから騒音と高熱の機関室へ入り上部をぐるっと周った。コントロールルームへ戻り質疑応答。一応、専門的?な質問をした。

甲板へ出て操舵室へ入る。三等航海士から各種航海計器などの説明を受ける。今の視界では水平線まで約12マイル(約22キロ)とのこと。ここでもいくつか専門的と思われる質問をした。

ロビーにある雑誌「船の旅」2008年8月号を読む。面白い記事がありメモを取ったが、その記事は次の通り。
「島って何? 地理学的には、オーストラリア大陸以上の面積の陸が「大陸」、それ未満の面積のものは島に分類される。但し、満潮時に水没しないこと、全方位が水に接していること、自然に形成された陸地であることが条件となる。この条件から考えると日本の領土は全て島となる。ちなみに、世界最大の島はグリーンランド」

父島の北端が見える。竹芝桟橋を出港して25時間半後の午前11時半に二見港へ到着。

二見港へ向かう

二見港

岸壁に大勢の人がいる。ダイビングショップ、旅行会社や宿の人たちのようだ。
下船後、ツアーデスクの人のところへ行くと小笠原YHの人たちを紹介された。宿泊する他の人たちと一緒にYHへ行く。大きなザックがいくつも談話室兼食堂に置いてある。今日の14:00発のおがさわら丸で東京へ帰る人たちのものだった。連休だったので25人位泊まっていたそうだが、今晩からは今日到着の我々6人だけとのこと。少なくて有難い。同室のKさんとMさんは、YHのレンタバイクで出発。

小笠原YH

大村の街

ビジターセンター
林子平・三国通覧図

今日は特に予定がなく一人で港の周辺を散策する。の〜んびりとした南の島の風景が広がる。
小笠原ビジターセンターを見学する。「歴史の資料室」には林子平の作成した三国通覧図説上に小笠原がはっきりと示されている。ペリー提督が浦賀へ行く前に小笠原に4日間いた時も説明(小笠原訪問の約1カ月後に浦賀に入港した)を読む。欧米人の小笠原在住とペリーの訪問を知った幕府が小笠原に派遣した咸臨丸にジョン万次郎が通訳として乗船していたなどの資料もあり興味深かった。又、「自然の展示室」も面白かった。
「咸臨丸の派遣と小笠原の開拓」の説明文
日米修好通商条約批准使節の帰国報告で、米人の小笠原居住とペリーの訪問を知った幕府は、小笠原に咸臨丸を派遣しました。水野忠徳ら約90名は、1861年(文久元)12月19日(和暦)二見港に入港、中浜(ジョン)万次郎の通訳で欧米系島民と協力することなどを決めました。その後、探検調査を行い、小花作助など6名の役人を残して、1862年(文久2)3月9日、咸臨丸は帰国の途につきました。この年の8月、八丈島から移住者38名が来島して開拓を始めましたが、国内外の情勢が不安定になったため、1863年5月、官民全員の引き揚げがおこなわれました。
「小笠原航路」の説明文
明治9年12月に郵便汽船三菱会社(今 日本郵船)が小笠原に航路を開拓して以来、約110年がたちますが、この航路には多くの船が就航しました。戦前は、芝園丸とともに筑後丸と天城丸が日本〜サイパン航路の途中、父島に寄港していました。戦後、小笠原が日本へ返還されてからは、東京都のチャーター船として藤丸や橘丸が小笠原を訪れました。そして現在、これらの船に替わって大型船おがさわら丸が、28時間で東京〜小笠原間を結んでいます。また、ははじま丸は、昭和54年に就航し、父島〜母島間航路で活躍しています。

ビジターセンターを出て、おが丸(島の人は「おがさわら丸」でなく「おが丸」と言う)の出港を見学。
埠頭で5〜6人が太鼓を叩いて見送りをしている。 ダイビングやマリンショップ、ペンションやYHの人たちが旗を持って「行ってらっしゃ〜い」と大声で叫んでいる。船上の人たちは「行ってきま〜す」とやはり大声で答えている。
2008年8月に第4回北海道の旅をした時を思い出した。鴛泊港(北海道・利尻島)で埠頭にいる桃岩荘YHの人たちと船上の人たちとのやり取りと同じだ。出港後のおが丸をボートが何隻か沖まで伴走して行く。
出港風景

YHで夕食後にお互いに自己紹介をする。
私以外の5人は、Kさん(今年定年退職の男性)、Hさん(30代の男性)、Mさん(20代後半の男性)、Gさん(20代の女性)とAさん(20代の女性)。GさんとAさんは、会社の同僚。男性4人は一緒の部屋(2段ベットX4)。YHへ出入りしている地元の人が3人いてそれぞれ挨拶をしてくれた。
YHのオーナー曰く「最近、忘れられた言葉がある。それは 不便さ である」。この「不便さ」に同感。現代社会は何もかも「便利さ」ばかり追求して過剰なストレス社会になっている。
地元の人曰く「小笠原へ25時間かけて来るのがいい。このフイルターが必要だ」。この言葉にも納得。


3日目:5月9日(日) 曇後雨  
トレッキング:YH ⇒ 宮乃浜 ⇒ 釣浜 ⇒ 長崎展望台 ⇒ 初寝浦展望台 ⇒ 国立天文台観測局 ⇒ 亜熱帯農業センター ⇒ 扇浦 ⇒ 境浦 ⇒ 製氷海岸 ⇒ YH
宿泊:前日と同じYH
Hさんと相談しトレッキングすることにした。
あいにくの曇り空だが宮乃浜へ進む。雑談をしながら歩く。彼は学生時代はラグビー、そして今は冬山もやる本格的な山男。ネイチャーウオッチングも趣味でトレッキング中に樹木、草花やカタツムリなどの写真をしきりに撮っていた。
宮乃浜を見てから電信山遊歩道を歩き釣浜へ出るための下り道を進む。釣浜は釣りのポイントらしく遠くの岩場に何人か釣り人がいた。
電信山遊歩道は宮乃浜から長崎展望台まで約3キロある。周囲は国立公園特別保護区に指定されていて、「固有種の植物が多い」と案内板にあるが、残念ながら植物に詳しくなく、どれを見ても固有種に見えてしまった。尾根から二見漁港と大村の町が見えた。
長崎展望台で昼食。Hさんがお湯を沸かし熱いコーヒーを飲む。向こうに兄島が見えるが、晴れていれば最高の景色だろう。

電信山遊歩道

兄島瀬戸

長崎展望台より

夜明山コースを進む。夜明山周辺には戦跡が多くあり、戦跡ガイドと一緒だと説明してくれる。今回は我々二人だけだし天気も良くないので夜明山へは登らないことにした。それでも、途中にコンクリートで蔽われた壕の中にある鉄製の円筒(深照灯?)を見た。
崖に野生の山羊が群れている。食害もあるのだろう。溶岩の斜面がある。説明文「今から2600万年〜6000万年前、激しい海底爆発があり溶岩が海底に堆積し、次々と積み重なった。その後、隆起し海面上に姿を現すようになり枕を積み重ねように見えることから「枕状溶岩(まくらじょうようがん)」と名付けられた」

探照灯の跡地

野生の山羊

枕状溶岩

電波望遠鏡

初寝浦へは往復1時間以上かかるので行かずにそのまま進む。
国立天文台・小笠原観測局があり寄る。霧の中に大きな電波望遠鏡があり、事務所の入り口にあるパンフをお土産とする。30分ほど歩くと「宇宙航空開発機構・小笠原追跡所」。事業仕分けの対象となったJAXAだ。
看板に書いてある説明文:
「種子島で打ち上げられた人工衛星打上げ用ロケットが種子島で見えなくなってからの飛行経路(緯度、経度、高度)の監視を行い、ロケットの飛行管制及びこれらのデータ取得を行うことを目的として設置された」
種子島からのロケットは小笠原の上空を飛んでいくとは知らなかった。
事務所に月周回衛星「かぐや」のパンフがありもらう。

森林生態系保護地域があった。この地域へ入るには入口で自己申告しなければならない。まずどのルートにするのかを選ぶ。ルート(1)観察路、ルート(2)林内歩道、ルート(3)初寝山。そして自分自身を石の色で申告しルートの缶に入れる。我々は時間の関係もあり中へ入らなかった。

森林生態系保護・看板

入口

「森の喫茶店」に入る。実は昨晩、YHにいた地元の人から「亜熱帯農業センター」の近くに店があり、美味しいコーヒーを飲ませてあげる」と聞いていたので二人で探してこの喫茶店と思い入った。しかし、マスターはどうも昨晩の人と違う。せっかく入ったのでお奨めを聞くとレモネードとのこと。私はレモネード、Hさんはパッションフルーツ・ジュースを注文する。
広い斜面の高台にテーブルとイスがあり眺めの良い場所で満足。60代後半のマスターは小笠原が気に入り単身で在住。家族は松戸(千葉県)にいるそうだ。「そろそろ都が恋しくなりました」とマスターは笑いながら話す。

森の喫茶店入口

レモネードとジュース

ひたすら海岸沿いの道を進むと、境浦海岸が見えたので海岸への道を歩き海岸に出た。湾の中央には、太平洋戦争時に米軍の魚雷攻撃を受けて座礁した貨物船の「濱江丸(ひんこうまる)」が見える。
戦跡の一つとしてこの船を見たいと思っていた。
案内板の説明:
[ 旧満州国の「濱江省」という省名より名付けられた濱江丸は、陸軍から徴用され、南方方面の軍需物資の輸送に使用された。昭和19年6月12日、本土よりサイパン島に向け船団航行中、サイパン島北方洋上において、米機動部隊の激しい爆撃と銃撃を受け航行不能となった。幸いに沈没はまぬがれたので、応急処置を行い航行中、7月末ころ、父島近海において再び米機動部隊の攻撃を受けた。魚雷が数発命中し、船は漂流の後、現在の位置に座礁した]
海面にわずか残った状態だが、案内板にある船の写真を見ると、座礁時と思われ船全体が残っていた。

濱江丸の残骸

濱江丸の残骸


4日目:5月10日(月) 曇後晴時々雨  
YH ⇒ 小港海岸 ⇒ 中山峠 ⇒ ブタ海岸 ⇒ 高山 ⇒ ジョンビーチ ⇒ 小港海岸 ⇒ YH
宿泊:前日と同じYH
Hさんとジョンビーチとジニービーチへ行くことにした。まず村役場前から村営バスに乗り終点の小港海岸へ行くことにした。バスを待っていると女性のGさんとAさんの二人も同じ方面へ行くとのことで一緒に行くことにした。

小港海岸で下車し、中山峠までの上りをトレッキングする。峠からコペペ海岸、小港海岸、ブタ海岸や南島が見え最高。周りの風景を見ながら峠で昼食。

隆起した溶岩/小港海岸

中山峠看板

中山峠よりの眺め

ブタ海岸までの下りを進む。海岸にウミガメが産卵に上陸した跡があった。近くにトーチカが残っていた。

ウミガメの上陸跡

ウミガメの上陸跡

トーチカの跡

ここからしばらく上ると、高山(228m)と迂回路の分岐があり男性陣(Hさんと私)は高山経由とし女性陣(GさんとAさん)は迂回路とした。高山からの眺めは小雨も降っていてそんなでもなかった。ジョンビーチへの下りで女性陣に追いつき一緒にビーチへ出る。小雨だったが大降りの雨となり、近くの林へ逃げ込み持っていた3本の傘を枝を支えにし屋根代わりとし大雨をしのぐ。思ったよりも長く降っていた。帰りの道はこの大雨でぬかるんで大変なので私は雨が止んだら帰るつもりでいた。
Hさんが「晴れるのでビーチにいよう」と提案があり、又、彼女たちもこのビーチでシュノーケリングするつもりで来ていたので雨が止んだらビーチにいることにした。 幸いに晴れてきたので彼女たちは海でシュノーケリング。磯に小魚や蟹がいて裸足で岩伝いに遊ぶが、泳いでいる彼女たちを見ていたら泳ぎたくなり海パンはなかったが、海に入った。水中メガネを借りて海の中も覗く。魚もちらほら見えて良かった。Gさんが砂の上に座っている私を見て「無人島の海岸で救助の船を待つ漂流者のようだ」と笑いながら写真を撮る。

ジョンビーチ

無人島で救助を待つ?

ジニービーチへの道は閉鎖されていて陸路では行けない旨の案内板が出ていた。
出発点の小港海岸まで戻る途中に時々雨が降り道もぬかるんでいた。バスに乗り大村へ帰る。

YHでお奨め飲食店の情報をもらい、Hさん、Mさんと私の3人で寿司屋へ行く。酒を飲み刺身を食べながら明日のシーカヤックツアー(シュノーケリング付)をガイドマップを見ながら相談。Hさんから明日のシーカヤックをショップへ予約してもらった。Hさんは、明日は母島へ行くのでシーカヤックはMさんと私の2人。

寿司屋を出てからもう1軒行こうとなり、YHで聞いていた居酒屋へ入る。しばらく飲んだ後、せっかくYHで一緒になったKさん、GさんとAさんの3人もいた方が良いと思いYHへ3人を迎えに行った。YHにいた3人に「30分だけでいいから居酒屋につき合って」とやさしく?お願いして一緒に居酒屋へ戻った。店にはYHのスタッフも飲んでいた。改めて6人で乾杯!! YHのスタッフが先に店を出た後、適当な時間に我々もYHへ帰った。

居酒屋

刺身


5日目:5月11日(火) 曇後時々晴  
YH ⇒ 小港海岸 ⇒ ジニービーチ ⇒ 小港海岸 ⇒ YH
宿泊:前日と同じYH
YHでショップの人のワゴン車に乗り、ショップに立ち寄りシュノーケリングの3点セット(水中メガネ、シュノーケルとフィン)を積み込む。Mさんと私の他に若いカップル1組の計4人が今回のメンバー。ショップの人(Jiさん)は色黒で筋肉ムキムキ。若い頃に実業団リーグでサッカーをやっていたとのこと。私の娘の家族が住んでいる君津(千葉県)出身、奥さんは北海道出身とのこと。彼は話し好きで気さくな人。
カップルは、見覚えがあり来る時の「おが丸」にいた2人だった。彼は副操縦士、彼女も同じ航空会社で地上スタッフ(お客さんの機内預け荷物の連絡窓口で苦労したそうだ)だったが結婚で退職。
昨日来た小港海岸に到着。置いてあるカヤックの説明を受け小川で練習をする。小川にかかる橋をYHで一緒のKさんが偶然通りかかり写真を撮ってもらう。
2人乗りのカヤックでMさんと私がペアとなる。漕ぎ出す前の砂浜で4人して空に向かってジャンプした記念写真をJiさんが撮る。Jiさんを先頭にして海へ漕ぎ出す。前と後ろが呼吸を合わせてパドルを漕がないとスムーズに進まない。やっているうちにコツが段々わかってくる。
昨日泳いだジョンビーチの沖を通過し約1時間かけて憧れのジニービーチへ上陸。 海流の状態により南島へ行けることもあるのだが、今回はジニービーチだけとのこと。
昼食後に雑談(副操縦士の人の訓練生時代の話が面白かった)。3点セットをつけてシュノーケリングをする。 曇にもかかわらず、透明度は抜群! これで晴天だったらどんなことだろうか。5〜6mの水深でも魚がたくさんいて満足。シュノーケリングを終えてからビーチできれいな貝殻を拾い楽しんだ。
再び、カヤックに乗り漕ぎ出す。来たときと微妙に海流が違うが全員無事に小港海岸へ戻った。

カヌー出発前/小港海岸

ジャンプ/出発前の儀式

カヌー中

ジョンビーチ

YHへ戻って小休止の後、夕日を見るために三日月山展望台へ歩いて行く。途中、父島要塞大村第二砲台跡、監守衛舎、弾薬庫や兵器格納庫があり説明文を読みながら見た。 展望台にYHで働いている女性がいた。彼女は今月初めに来たばかりでYHで1〜2カ月働くとのこと。
あいにくの曇り空で残念ながら夕日は見れなかった。

弾薬庫

兵器格納庫

三日月山展望台

カメ仙人のボトル

父島の夜は今晩だけなので感じの良い店を探すことにした。YHのメンバー6人で行った店も雰囲気は良かったが、別の店にすることにし「ウミガメ煮込み」の看板が出ている店に入った。 店内は結構混んでいてカウンターに座り、金目鯛?の煮付けを注文。脂がのっていて美味しかった。
隣りに座っている中年の男の人に1軒目で食べた「ウミガメ煮込み」を話すと、「ウミガメ煮込みは色々な店にあるが、この店のものが最高だから食べてみな」と言う。この人はなんとウミガメ取りの漁師さんだった!! 
父島と母島を合わせて年間110匹を食用に捕獲できるとのこと。捕獲の仕方や解体の仕方を教えてもらった。「家に小ガメが3匹いるよ」と3人の子供をカメに例えて笑う。
この店の「煮込み」は1軒目よりはこってりした味だった。1晩に2回も「煮込み」を食べるとは思わなかった。
カメ仙人(カメの漁師さん)との話は面白くこの店を選んで良かった。頭に鉢巻をしたカメ仙人がお腹を出した写真は面白いが、店の人が「カメ仙人の写真は出さないで」と言うので残念ながら個人情報保護の点から写真は出せない。

1軒目のウミガメ煮込み

2軒目のウミガメ煮込み


6日目:5月12日(水) 曇後晴  
海軍墓地 ⇒ 咸臨丸乗組員墓地 ⇒ 小笠原海洋センター ⇒ 鎮魂碑
ははじま丸船客待合所
宿泊:アンナビーチ母島YH
朝9時の村内放送が「本日のおがさわら丸の入港時刻と乗客数をお知らせします。午前11時30分着。206名です」と伝える。

サングラスが見当たらない。どうやら昨日のシーカヤックの時にジニービーチか小港海岸で落としたらしい。昨年7月にスウェーデンを自転車旅行した時にストックホルムでサングラスを落として、リンショーピンのスポーツ用品店で買ったサングラスなのに、トホホ・・・・

咸臨丸乗組員の墓地を見たいのでその方向へ歩いていたら散歩中のKさんに会った。Kさんも同行したいとのことで2人して場所を探す。家の前にいた人に場所を教えてもらいゆるやかな坂道を進むと「海軍墓地」の案内板がある。この墓地はガイドブック等にも記載がなく予定していなかったが、見ることにした。確かに太平洋戦争中に陸海軍合わせて約1万7千人の守備隊がいたので墓地があるのは当然か。

海軍墓地の看板

海軍墓地

「海軍墓地」から先に「咸臨丸墓地」の案内板があり道路から脇の林への細い道を進むと墓地があった。咸臨丸は何回か小笠原へ来ていてその時に亡くなった乗組員の墓がある。
長い説明文があるがその要約は次の通り。
「この墓地には、咸臨丸の乗組員(軍艦操練所・稽古人)で、文久二年二月二十七日に死去した "西川倍太郎" の墓の他、朝洋丸の水夫 "三代吉、金右衛門、忠蔵" の墓。その他、寛永九年(1669年)から元文年間(1735〜1740年)にかけて、小笠原に漂着し、漂流中に死亡したと思われる人々の霊を慰めるための "冥福の碑" や初代の東京府出張所長となった "藤森図高" の墓もある」

咸臨丸墓地の看板

西村倍太郎の墓

冥福の碑

Kさんと別れて小笠原海洋センターへ行く。
若いスタッフがウミガメの飼育に励んでいる。大型の水槽がいくつかあり、生まれて1年位の子ガメを飼育中。産卵シーズン(5月〜8月)は、主な海岸を夜間パトロールしていて、又、パトロール隊がいない場所で産卵を見つけたらセンターへ連絡することになっている。

飼育水槽

アオウミガメ

円ロープで休憩

中心街へ向け歩いていると幼稚園児が先生に連れられて散歩中。小生の孫も幼稚園へ入っているが、小笠原の幼児たちはこの大自然の中で生活していて羨ましい限りだ。
しばらく行くと「戦没者やすらぎの郷」があり立ち寄る。「鎮魂の碑」と「平和の鐘」がある。碑文の冒頭に「この碑は、昭和二十年(1945年)八月の太平洋戦争終結までに 小笠原諸島及び周辺海域において 戦没された二万四千余柱の御霊を祭るものです」とある。
先ほど散歩中の幼稚園児を見ただけに、太平洋戦争中の多くの犠牲者を悼むとともに平和の大切さを思った。

園児たち

鎮魂の碑

平和の鐘

YHへ戻り、宿代を精算した。


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